第5話 望まぬが吉、世は泰平なり


 「―――今日はここまで。来週は次のページから」


 壇上に立つ教師が教科書を閉じると、生徒の一人が「起立」と号令をかける。まばらに椅子を引く音がし、気怠そうに皆立ち上がる。古典の時間になるとこうだ。この授業に何ら意味を見出せないという大義を抱いて、授業に臨んでいるのだから当たり前だ。を掲げれば人は往々にして横柄になるというものである。


 「蛇尾氏は正直どう思うよ」


 ただこの男を除けば。


 「キノセン勘違いしてそうじゃね?」


 私を蛇尾氏と呼ぶこの男は学内随一の歴史オタク、野々川ののかわである。以前、世界史のテストで良い点を取った時から何かと目を付けられている。

 そしてキノセンとは古典の木野村先生の愛称だ。まだ教員歴三年の若手教師だが、どうやらこの奇特な野々川にその尾っぽを掴まれてしまったらしい。


 「さっきさ…、キノセンのやつ孟子と荀子の話から性善説と性悪説を引き合いに出してたけど、あいつ…性善説って人は元々優しい心を持ってるからお互いに信じることが大切って言ってただろ?」


 「言ってたような」


 「で、性悪説は人は悪い考えを持つ生き物だから安易に信じるなって言ってたじゃん」


 そこまで断定はしていなかったような気がするが、概ねの趣旨はそうだろう。


 「この程度の理解でやってる教師がいるってこの学校マズいよな……なあ?蛇尾氏」


 正直に言ってどの部分がマズいのかが分からない。私は勉強はできる方じゃないし、先日取った世界史の高得点も勘が当たっていたにすぎない。私の奇跡もそれっきりだったので、野々川もそのことは承知のはずだ。

 それでもなお、私に話を振ってくるということは自分の知識を誇示したいだけなのだろう。一向に構わない。それで一つ私が賢くなると言うのなら。


 「もしかして蛇尾氏も分からなかったりする感じ?」


 白々しい態度が腹立たしい。


 「さあ」


 私は微かに首を傾げる。


 「へえ意外とみんな知らないんだ」


 「で、何?」


 「いや、性善説って人は生まれつき善の行いをする生き物だけど、年を重ねれば悪の行いもするっていうのがホントの性善説なんだよ。性悪説はその逆」


 子供は無垢だが、やがて大人になれば悪事を企むこともある。子供は悪戯ばかりするが、大人になれば人のために人を思うことができる。前者が性善説、後者が性悪説というわけで、つまり、どちらの考えも人は善も悪も行うということか。


 善から悪か、悪から善か。


 「じゃあ、これを踏まえて蛇尾氏は性善説と性悪説どっちの立場に立つ?」


 キメ顔でそう問う野々川に私は眉をひそめる。

 しかし、そういう論議は嫌いじゃないので、私は一考してみる。


 「お、蛇尾氏のダビデ像」

 

 気付けば私は顎に手を、目線を下に向けていた。

 それにしてもこの男、歴史オタクのくせに美術史は疎いのか。オーギュスト・ロダンもこんなつもりじゃなかっただろうに。


 「…と、ちなみに俺氏は性善説に一票。昔の自分はもっと無邪気だったもんなあ…、今みたいに教師の陰口なんて言わなかったし」


 自分のことを客観的に観察できているとは驚いた。

 そして無邪気とは文字通り、よこしまな気を持たない、という意味だ。彼の言う通り、幼稚園児が徒党を組んで園長の悪口を言い合っているところを想像することができない。だが、女子高生が帰路のファミレスで担当教諭の不祥事をさかなにパフェを平らげているところは想像に難くない。


 「で、蛇尾氏はどう思うよ?」


 「私は性悪説」


 「そのこころは?」


 「皆がわがままに悪行を積めば世界は滅んでいるので」


 私はそう言い残し、手洗いに行くと言って足早にその場を去った。

 

 手洗いから戻ると、次の数学の授業が始まる。

 今日は週に一度の小テストの時間が設けられる日で、教師の前口上もそこそこにテスト用紙が配られた。その時、私は肘に当たった私の消しゴムが不規則な跳ね方をしながら、机と椅子の密林に消えてしまうのを目撃した。


 私の手持ちの消しゴムはあの一つのみだ。この後のテストは乗り切れるか。

 

 「蛇尾さん使う?」


 右の席に座っていた爽やか高校生こと晴宮が私にそっと囁く。

 彼は無色透明のペンケースから自身の消しゴムを差し出す。


 「僕、二つ持ってるから」


 さすが晴宮、爽やかの極みだ。清風のようなその存在は数秒後には無と帰すが、彼の伴侶からすれば存在感のなさも彼の魅力なのだろう。


 「あ…結構」


 「そう?困ったら言ってよ」


 私はシャーペンの端についている消しゴムを使うことにした。

 彼のスケルトンのペンケースに消しゴムが二つあるのが確認できないのだ。どうやら彼もシャーペンの消しゴムを使うつもりだったらしい。



 テストの始まりを教師が告げる。


 数分後、私は自分の足元に消しゴムがあるのを確認した。

 教師の視線を確認しながら、それを手早く拾い上げる。


 それは姿かたちが似ているものの、自分の消しゴムではないことはすぐに分かった。でも、こんなありふれた形の消しゴムを誰が欲しがるというのだろうか。そしてこのタイミングで足元の消しゴムを拾えば、どうせ誰もそれが私以外の誰かのものだと思うことはない。


 私はそれを自分のものだろうというをつけて自分のものにした。


 私の消しゴムはその後、二度と現れなかった。




 

 


 



  

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