第4話 この先通り抜けできません
見慣れた帰り道でふと気になる場所がある。
『この先通り抜けできません』
住宅地の一角にこう表記された看板がある。表面の白いアルミ板は所々錆び、赤い字で強調された「通り抜け」という言葉はすっかり日焼けしてしまい、却って見づらくなっている。茶色い鉄錆色の顔にボロボロの二本足で電柱にもたれかかる姿は昔捨ててしまったブリキの人形によく似ている。これは私の記憶による補完だ。
いつも目にしているのだが、それは日々視界に入る雑多な景色の一部なので、特段気にもかけていなかった。ただし、今日は暇だ。普段、気にもかけないことが少し気になるものである。
そういうわけで私はこの看板をよく観察してみることにした。近くで見ると錆びた部分に濃淡があるのが分かる。恐らく長年雨ざらしにされた影響であろう、表面の微妙な傾斜によって雨水が流れ、その部分を中心に錆が広がっている。手で触らずとも錆びている部分がザラザラしているのが分かる。
私は思い立ったように、屈めていた腰を上げ背筋を伸ばす。電波を拾うレーダーアンテナのように首を回す。客観的に見て自分が不審に見られていないかどうか、目撃者を探し出すためだ。どうやら周囲に人は居ないらしい。それもそのはずだ。こんな新設の集合住宅地では昼間、専業主婦でもない限り外を歩くことはない。幼稚園もなければ、商業施設もない。ただ山を切り開いて詰めるだけ住宅を詰めた大きな大きな人間の巣に過ぎない。上空から見ればハチの巣と変わらないだろう。
「この先…何があるんだろう」
私は周囲に人がいないことを悟ると、ぼそりと独り言をつぶやく。
「通り抜け」できないと言われても、よく分からない。その端とやらはどうなっているのか。山肌にぶつかるにしては距離がある。何か物理的な壁によって通り抜けできないというのだろうか。それとも人が通れないほど狭い道になるのだろうか。よもや崖になっていることはあるまい。
私は意を決して「この先」に行ってみることにした。湾曲な道路でその先は見えない。このまま道に沿って入っていくしか、その奥を見る方法はなかった。
看板の横を通り過ぎ、一歩一歩と歩みを進める。両脇には住宅が軒を連ね、それぞれが車一台分の車庫を備えている。この時間帯に停まっている車はほとんどない。多くの家庭の車が出払っているようだ。芝生の庭もあるにはあるが、窮屈そうに肩を揃える家々では随分と小さくまとまらなければならないようだ。
「おっと」
歩くこと数分、「この先」の端は意外と近くにあった。それは誰かの家の外壁で、この辺りでは少し目立って大きい土地を持つご家庭のものだ。物理的に通れなかった、意外にも私の考えは合っていた。なるほど、これでは確かに何者も通れはしない。実際、ここに来るまで誰も見かけなかった。
私は想定内の展開に肩を落とし、少し寂しげに来た道を帰る。
周囲は相変わらず静かだ。何者も通らない。この両脇の家の人間しか通らないのだろう。そのためにあの看板が立っているのだから、それもそのはずだが。
『この先通り抜けできません』
私は立ち止まってしまった。見慣れた言葉だが、いつもと光景が違う。私は元の十字路に戻ってきたが、逆側からその看板を見て驚いた。この看板、どうやら裏にも同じ言葉が書いてあるらしい。
その時、本能的に身震いをした。私は通り抜けできない道に入ってしまい、その一本道の出口でまた通り抜けできないことを伝えられたのだ。これはつまり有限の両端を持つ線分の中に閉じ込められてしまったということで、私は一生通り抜けできない道をさまよい続けるということなのだ。
目の前を車が横切った。私の本来の帰り道をなぞるように、走り去っていく。白いワゴン車ということは分かったが、それ以外の情報は得られなかった。それ以外の情報が得られたことで私には何の得にもならないが、この道に囚われず悠々と私の帰路を走る者がいることに羨望を隠し切れなかった。
だが、こうは考えられないだろうか。目の前を走り去った車は私の側から見れば、通り抜けできない道を走っているのだ。いつかはあの車も立ち止まる。私一人がこんな感情を抱くことはない。誰もが皆、必ず立ち止まるのだ。
「あれ?ダビちゃん?」
こう私を呼ぶのは友人の佳菜だ。
世にも珍しい
「ダビちゃん?そんなとこで突っ立ってどうしたの?」
ただこんな場面で彼女に出くわすとは私もつくづく運がない。
「ここから出られないみたいなので」
「出られない?」
「なので先に帰ってて」
佳菜までこの道に入ってしまってはいけない。私は彼女にこの場を離れるよう促した。
「ダビちゃん、何言ってるの?」
今回ばかりは彼女が正しいのかもしれないが、私にも突き通さねばならない主義がある。突き通した先にあるのは、無様な死しかないが。それでもこの状況を整理する時間が(もしくは自分を納得させる論理を生む時間が)欲しい。
「看板がある…から。その錆びてる看板が」
「サビちゃん、もしかして新しい遊び?」
私はダビちゃんだが、遊びなどと言わせておくわけにはいかない。
「これは遊びじゃ―――」
「あ、ダビちゃん。後ろ、車!」
佳菜が私の背後を指さす。咄嗟に私は後ろを振り向き、タクシーがゆっくりとした速度で迫っていることを知る。どうやら私が道の真ん中に立っているので通れないらしい。私は道の脇に寄ると、タクシーは去っていった。
「これは遊びじゃない。聞いて、私は通り抜けできない道に入ってしまった。何者も通らないこの道に閉じ込められたの」
佳菜は黙ってしまった。
どうやら私の言っている意味が分からないらしい。
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