第6話 ミリミリメートル


 「宿題やるって約束したでしょ!」


 母が私を叱りつける。小学生になって三回目の夏休みに私はサボタージュという行為を覚えた。そんな私を更生させようと母は金切り声を上げる。

 夏休みは一か月以上ある。明日やればいい、今日より明日残された時間の方が多いのだ、こんなにやる気のない状態でやる今日よりやる気に満ち溢れているはずの明日にやった方がいい。そっちの方がよっぽど効率的だ。


 「リビングでやりなさい」


 母はキッチンに立って私を見下ろし、という名のガベルを振り下ろす。つまり、自らの監視下において宿題をするよう命じたのだ。ここは黙って従うしかあるまい。


 私は地層のように積み重なったテキストの山を二階から持ってくると、これ見よがしにリビングの真ん中に置いてやった。そんな私に母は何かを言いかけたが、呆れたような顔をして料理を再開した。

 その様子に私も何も言うことなく、テキストを開いて鉛筆を走らせた。始めてみれば宿題の内容は簡素なもので、問われる意義さえ分からぬ問題ばかりであった。私は半ば作業のように手を動かし、月丘(※人間の小指の下に位置する、肉の付いた部分)を黒くした。


 机に向かって数時間後、母が「あ」と小さく声を上げる。洗濯がまだ済んでいないことに気付いたようで、足音を慌ただしくさせ脱衣所に向かった。機を見るに敏と私はテレビのリモコンに手を掛ける。


 「あ、鍋の火切るの忘れてた」


 母が瞬間移動をするようにキッチンに戻ってくる。私は咄嗟に押し掛けたリモコンのボタンから手を放した。ただし動物は速く動く物体に目を引かれるので、ゆっくりと動く。指先から汗が滴り、顔の筋肉が強張る。この一連の動きをコマ割りすれば、きっと読者はその冗長な表現に飽き飽きしてしまうだろう。


 偶然にも母は私の粗相そそうに気付かず、再び脱衣所に向かった。

 最近、洗濯機の調子が悪いのできっと当分は戻ってこないはずだ。


 私は再びテレビのリモコンに手を掛ける―——わけもなく、置かれた現状を分析する。母は別の部屋にいるとはいえ、さすがにテレビの音には気づく。宿題を放棄してとにかく遊びたい私だが、テレビはハードルが高すぎる。ここは机の上でできる遊びをするしかない。それもすぐに宿題をしている風な姿勢に持っていける遊びだ。


 こうなったら勉強のおもちゃ箱、筆箱に頼るしかない。


 私は筆箱の中身を手探りで確認する。

 アクリル板で出来た長方形のそれを手にしたとき、妙案が浮かんだ。

 

 「じゃーん!第一回いちばん小さいもの選手権!」


 私は小さい声でそう囁いた。

 企画の趣旨は至って明瞭だ。定規を使ってひたすら身の回りの小さいものを計っていき、その中で一番小さいものが何かを調べる、という九歳児が考えそうな企画である。ただし大きなものではなく、小さなものというのが今回の企画のミソである。大きなものでは調査範囲が広く大規模なものになってしまい、母に見つかってしまうリスクが高くなる。それを踏まえての小さなものだ。


 「はさみ!14センチ!」

 「消しゴム!6センチ!」

 「親指の長さ!4センチ!」

 「本!…の厚さは1センチもないか―——5ミリメートル!」


 私はテキストを机上に並べ次々に定規を立てていく。


 しかし、その時あることが気になった。

 一冊の本より中の一頁ページの方がうんと小さいじゃないか。


 目盛にピントを合わせながらまずは表紙の厚さを計ってみる。


 「1ミリメートル…じゃない」


 口から零れた私の言葉は空気中を彷徨さまよい、消えた。これ以上の長さを計れないという無力感が名も知らぬ臓器を蝕む。ミリメートルが私の中で最も小さい単位で、それより小さい単位など知らない。いや、知らないのではなく存在しないのだ。かつてソクラテスは無知の知を唱えたが、幼い私は最早その次元で物事を考えていない。

 

 「じゃあ―——2ミリミリメートルだ!」


 私はミリより更に小さい単位、を生み出した。

 存在しないのなら創ればいい、ソクラテスには悪いが子供にとって無知の知とは無限の世界に有限の枠を象る退屈な作業に他ならない。


 続いて私は中身の一頁をつまんで定規に当てる。目を凝らしてみると表紙より薄いそれは一ミリミリメートルもないように見えた。


 「1ミリミリミリメートル…かな…?」


 だからを生み出した。



 はさみ … 14センチ

 けしゴム … 6センチ

 親ゆび … 4センチ

 本のぶあつさ … 5ミリメートル

 本のぶあつさ(表し) … 2ミリミリメートル

 本のぶあつさ(1ページ) … 1ミリミリミリメートル



 調査結果を手元のノートに書き出してみる。


 短いものほど長くなったような気がした。

 そういえば目を凝らしてみると小さいものほど大きく見えた。





 

 

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