君のためにできること

 致命的だ、と思った。

 いぶきの言葉がりょうの頭の中でぐるぐる回っている。

 ――お前も俺も楽だろ。

 楽、といぶきは言った。ということは、りょうがいぶきを思って、彼を支えようと思ってしていたことはすべて彼にとっては重荷だったのだ。


 病めるときも、健やかなるときも……なんて神父を前に教会で誓ったことはない。この先もそんな機会は訪れないだろう。けれどりょうはそう誓ってもいいと思うくらい、いぶきのことを大切に思っていた。なのに自分がやっていたことは彼にとってマイナスでしかなかったのか。

 目の前が真っ暗になる。

 だったらどうやって彼を支えたらいい。どうやって彼を愛したらいい。結局、いぶきにとってりょうは必要ないものなのに。



 午後一時過ぎ、メールの着信音が寝室に響いてりょうは目を覚ました。枕元の携帯電話だ。涙がまつげの根元で乾いて固まっていて、まばたきをする度ぱりぱりと引っかかる。

 昨日の夜空港でいぶきと別れた後、りょうは夕飯も食べずにベッドに潜り込んだ。鍋に入ったミネストローネもそのまま。今日も休日だったのをいいことに、ベッドから一歩も外に出ていなかったのだ。


 メールの差出人はいぶきだった。

『昨日はごめん。早めに仕事終わらせるから、話がしたい』

 ぼんやりとその文面を眺める。淡々としたいつもの文章。昨日のことが急速に遠くなっていくような感覚がして、りょうは慌てて首を振った。

 そうだな、話すべきことは色々ある。同棲を解消しても恋人同士のままでいるのか。それとも別れるのか。部屋の解約手続きや家具の引き取りなど。


 待ち合わせ場所はりょうが指定した。付き合う前から二人がよく使っている、お互いの職場から等距離にあるコーヒーショップだ。自宅でもよかったけれど、他人の目がないところで自分が冷静でいられる自信がりょうにはなかった。みっともなくいぶきに縋りつくのは避けたい。そういう行動は、おそらくいぶきの目に一番嫌悪の対象として映るのを知っているから。



 夕方の六時五十分。日もとっくに沈んで辺りは暗い。いぶきは遅れてくるだろうとわかっていながら、時間より十五分早くりょうはコーヒーショップに着いた。訪れるのはここで同棲を決めて以来だ。ホットカフェオレを注文し、ちょうど空いた奥のソファー席に座る。店内は人が多い。木製の家具で統一された席の七割ほどは埋まっている状態だ。軽やかな洋楽の音と、カップやソーサー、スプーンが立てる澄んだ音、人々の話し声がほどよく混じり合って心地良い空間を作り出している。

 湯気がのぼるカフェオレを一口すすった。ミルクの味わいの後、コーヒーの匂いと苦みが舌の奥から広がる。りょうはほっと息をついた。


 店内にいる人々に目をやりながら、いぶきと付き合い始めてから今までの長い日々を思い返す。そのうち、別に今回のことが特別ではなかったのだな、という気になった。今までも似たようなすれ違いを感じたことはあったのだ。お互い別々に暮らしていた頃にはすぐに忘れてしまうような些細なことだったけれど。

 恋人に弱みを見せないいぶき。

 恋人を支えたいと思うりょう。

 考えるほどに、共に生活を営むには合わないではないか。苦笑しようとして、胸の奥に鋭い痛みを覚える。

 ――笑えないって。

 左手で両目を覆い隠す。ぐっと力を込めて、熱くなってくる目許を抑えた。心の中に果てのない暗い海が広がっていくような気がした。



 いぶきは仕事帰りとしては珍しく、待ち合わせ時間五分遅れで現れた。

「悪い、待たせた」

「……早かったね」

まだ仕事の余韻を残しているような、きびきびとした動作で向かいのソファに座り、すぐに上着を脱ぐ。急いで来たのだろう。彼がテーブルに置いたカップから豊かなコーヒーの香りが漂う。


 そこから目線を動かし、いぶきを見る。彼もりょうを見ていた。その表情からは感情が読み取れない。ただ静かだった。

 何をどう切り出そうかとりょうが思案するうちに、いぶきが口を開いた。

「昨日は、ごめん」

両手を膝に置き、頭を下げる。

「またりょうにひどいこと言って泣かせた。ごめん。本当に俺が悪かった」

「……いや」

りょうはいぶきの肩に手をやり、顔を上げさせた。確かめるように、ゆっくりと言葉をつなぐ。

「いぶきは悪くないんだよ。いぶきはいぶきが思ったことを言っただけだ。俺も俺がしたいと思ったことをしただけだ。どっちかが良い悪いって話じゃないんだ」心の中で、それよりももっと致命的な話なんだ、とこぼす。

 りょうは両手をいぶきに広げてみせた。

「根本的な考え方が違うんだよ、俺たち。感じ方が違うとも言えるのかな。俺はいぶきを支えたいと思ってる。けど、俺の行いはいぶきにとってマイナスでしかない。結果、俺もいぶきも楽しい気分では暮らせないってことだ。

 お互い会いたいときに会うだけの関係なら問題ないだろうけど、一緒に住むには合わないってことだね」


 驚くほどすらすらと言葉が出てきて、りょうは自分に呆れていた。もう、半分以上は自虐的な気分になっていたのかもしれない。心の中はひどい嵐だ。誰よりも大好きな相手に、自分は恋人として相応しくないのだと主張する馬鹿がここに一人。胸が痛い。ちぎれそうなほど痛い。

 いぶきはりょうの言葉に驚いたようだった。少しの間、眉をひそめ、厳しい目つきでりょうを見返してくる。


「……俺といると、つらいか」

「…………」

 やがてこぼれたいぶきの言葉が、りょうの肌にしみ込むような感覚がした。閉じた口が開かない。突然頬に熱が生まれて、息が苦しくなる。目が潤む。

 目の前のいぶきの姿を見ていられなかった。

 何かが指の隙間をすり抜けてこぼれ、足元にむなしく落ちてしまう。そんな想像が頭に浮かんで喉を締めつけた。かすかに首を横に振る。

「俺と暮らすのは、もう嫌か」

むしろ穏やかとすら感じられる低い声。

 長い間があって、りょうはやっぱり首を横に振った。

 わかっている。自分と彼が根本的に違うということをわかっていても、それでも離れたいとは思えないのだ。悪いことに。どうしても。

 彼のためにできることが何もないとわかっていても。

「……俺も嫌だよ」

その言葉にこみあげるものをこらえながら顔を上げると、いぶきは眉を下げて口の端を歪めた。

「りょうと離れるのは嫌だ。別れるのはもっと嫌だ。確かに俺とお前は考え方とか感じ方が違うのかもしれない。お前を泣かせた理由も、俺は今はっきりわかってるとは言えない。けど……そういう違いは誰だって当たり前のことだろう。違う人間だからさ。そういう違いが少ない人間もどこかにいるかもしれないけど、だからってそいつとりょうを取り替えるつもりはない。

 だからできるなら、もっとこう……上手くやれるように努力したい。りょうを傷つけたくない」

「……い、」

「なんだろ、その……俺はさ、どんなに忙しくても仕事のことはりょうには関係ないことだと思ってるし、関係ないことでりょうを煩わせるのも嫌だし。仕事のイライラをりょうにぶつけたりしたら、男として、恋人として最低じゃん。まあそりゃ、切り替えできない俺が未熟なんだけどさ。だから……」

 時々つっかえながら、言葉を探しながらいぶきは話す。反射的にりょうは声を上げてしまった。涙声だ。

「どうして関係ないなんて言うんだよ。いぶきのことなら何だって俺にも関係あるよ。っていうか、関係させてよ。栄養ドリンクだって買うよいくらでも。むかつく上司の話とか、あるのか知らないけど、何だって聞くよ。俺はそんなことより――」

そのとき、ふいに限界が来た。

「――いぶきに必要とされなくなるのが、何よりも怖い」

やってしまった。一番恐れていた、みっともない姿を人前で晒すこと。大の大人が涙を流しながら話をしている。昨日からずっと、情緒不安定な状態だったのだ。理性のコントロールが利かない。

 いぶきがはっと目を見開く。

 彼を支えることが自分の役目だと思っている。けれどそれができないなら、自分の存在に一体何の意味があるのか。

 俺はただいぶきと同じ空間で寝起きしているだけの馬鹿じゃないか。そんなんじゃ――

「おれは、……何のためにいぶきと一緒にいるのか、わからなくなる」

まばたきを繰り返すうちに雫がこぼれて目は熱くなっていく。


「りょう、」

 いぶきが立ち上がり、りょうの腕を取った。強制連行だ。周囲の目が痛い。何よりいぶきはこんな風に好奇の目で見られるのが嫌いだと知っているから、尚更痛かった。



 店を出るともう外の空気は冷たくなっていた。風は途切れず、涙に濡れたりょうの頬を無遠慮に撫でていく。街灯の光が届かない店の裏までいぶきは歩いてくると、彼は突然りょうを抱きしめた。

「いぶき、」

よろめきそうになる自分の身体を慌てて支える。

「りょうは勘違いしてる」いぶきの声はかすれていた。「俺はりょうが何か役に立つから好きなんじゃない。便利だから傍にいてほしいんじゃない。りょうがりょうだから好きなんだ。好きだから傍にいてほしいだけだ」

 お互いの身体が触れ合う部分に冷たい空気が遮られ、ほんの少し温かさを感じる。

「でも、」

「りょうと離れたくない」

「だったら、俺はどうすれば」

「だから何もしなくていい」

いぶきの腕に力がこもる。

「……俺の立場はどうなるんだよ」

りょうがいぶきの肩に顔を埋める。半分喚くように言った。

「恋人一人支えられなくて、何が彼氏だよ。お前の役に立ちたい」

「もう充分支えてもらってるって」

「何が? どこが? ごまかすなよ。納得いかない」

いぶきがりょうの背中を小さく叩いたけれど、りょうは身じろぎをして逃れた。彼の言い分が駄々をこねる子供を適当にあやすように聞こえて、怒りがわいてくる。挑むような目をいぶきに向けた。

「もっと俺に甘えろよ」

「甘えるって、何を」

「愚痴を言え、弱音を吐け、わがままを言え」

「だからそれはお前のことを――」

「見くびるなよ。俺の懐の深さを知らないだろ、いぶきは」

自分がどんな気持ちでいぶきの傍にいるのか。彼のためにどれだけのことができると思うか。傷つけたくないという理由がそこにあったとしても、りょうは嫌だった。いぶきがつらいときに自分だけ何も知らず、無傷でのうのうと暮らすなんてまっぴらだ。


 そのあまりの剣幕に、いぶきは気圧された。

「……りょう、キレてるのか」

「当たり前だ!」

今やりょうは腰に手を当てて仁王立ちしている。

「いぶきが言ったんだ。俺と離れたくないって。だったらもう独りになれると思うなよ。俺に甘えろ。独りになりたいなら、勝手に家でも探して好きなだけ一人暮らし満喫してればいいだろ」

 感情に任せてそう言ってやると、いぶきは突然目が覚めたようにまばたきを繰り返した。

 口を開いて、けれど言葉は出ず。そのままたっぷり十秒ほどりょうを見つめる。そのうち、ふいにこめかみに手を当てた。ああ、とかなんとか呟く。

「何だよ?」

「いや、いきなり納得した」

気が抜けたように脱力した顔を向けてくる。

「……当たり前だよな。りょうと一緒に暮らしてるんだから、独りでいるつもりなのはおかしいってさ。そっか、ちょっと、目からウロコだ」

 今そんなこと言ってんのか、とりょうは目を剥いた。

「全部全部ひっくるめて、お前と一緒にいるって言ってんだよ」

手加減せずに頬をつねってやる。痛い、といぶきは情けない声を上げた。

「覚悟できないんなら、さっさとどっか行っちまえ」

「痛い、痛いって」

手を離してやると、いぶきは涙目で頬を抑えた。かなり痛かっただろう。おかげでりょうは怒りを鎮めることができた。


「……納得した」

そう言ったいぶきが顔を上げる。眉根を寄せて、どこか照れくさそうな、困ったような笑みを浮かべた。

「りょうと一緒にいる。……全部まとめて」

 数日ぶりに見る、彼の笑顔だった。辺り一面が突然色づいたような気がして、りょうは状況も忘れてしばらく見とれた。



 コーヒーショップの精算を済ませて、電車を乗り継ぎ、二人は家路に着いた。

 りょうは隣を歩くいぶきを見やる。街灯に照らされる彼の顔は穏やかだ。


 たぶん、言葉で言ったようには簡単にいかないものだろう。相手のすべてを受け入れ、自分のすべてをさらけ出すなんて。それが最善の方法なのかどうかもわからない。どうしてりょうを泣かせたのかはっきりとはわからない、といぶきは言った。りょうの方も、結局いぶきを癒してやれる方法も見つかっていない。根本的な感じ方が違う二人。

 それでも手探りはやめない。正直なところを相手に伝えることもやめない。何よりも彼のことを大切に思っていると、愛していると伝えることも。


 濡れたまつげに、風が冷たい。

「……あのさ、」

 いぶきが声をかけてくる。彼の笑顔が何よりもうれしい。その表情一つでりょうを温かく満たすのだ。なに、と応じながら自然とにやけてしまう。

「帰ったら、あのトマトのやつ食べてもいい?」

「ミネストローネな。うん、食べよう。他には?」

「他?」

「言ったじゃん。わがまま言えって」

「え? うーん……」

「やりたいことないの? 見たいテレビとか、やりたいゲームとかさ」


 数歩歩き、自宅のアパートが見えたところで、いぶきが声を上げた。

「あ、りょうとセックスしたい」

「……声でけえよ」

途端にりょうが顔を赤くしていぶきの背中を叩いた。こういう会話も久しぶりだ。いぶきがその手を捕まえて、二人は手をつないだまま、自宅のドアをくぐった。


(終)

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君のためにできること 道半駒子 @comma05

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