君を泣かせないこと
りょうは車を空港のロータリーに入れ、停車スペースで停めた。無言で車を降り、後部座席のドアを開けていぶきのスーツケースを取り出す。それはいぶきがりょうと出会うより前、初めて仕事で出張が決まったときに、機能性に惹かれて買ったものだった。まだ幸いにも傷は少なく、表面は滑らかだ。いぶきも慌てて車から降りた。無言で差し出されたスーツケースを受け取る。
広々としたロータリーと隣接する駐車場は冷たい風が吹いていて、ところどころ照明のオレンジ色の光が差しかかっている。駐車場にはまばらに車が停まっているだけで、その様子は物悲しさを呼び起こした。
ドアが閉まる乱暴な音に怯む。りょうはそのまま車に戻ろうとした。
「……りょう、」
声がかすれる。
いぶきの頭の中で、激しい警報が鳴っていた。脳にガンガンと響き、後悔が黒く渦巻く。きっと、今のりょうには言ってはいけないことを言ってしまったのだ。どうして言ってはいけなかったのかがわからないことが、そしてりょうが今何を思っているのかを知るのが怖かった。
振り向いたりょうの目には、涙が浮かんでいた。オレンジ色の光がそれをはっきりと照らしている。愕然として目を見はるいぶきを視界にとらえて、彼はぎゅっと眉根を寄せ、目を伏せる。
「……もう、一緒に住むのやめようか」
棘のあるものを吐き出すような、小さな声。
「りょう、」
手を伸ばすけれど、避けられる。すぐにりょうが車に乗り込んだ。追いかけようとして、いぶきは歩道の段差を踏み外してつまずく。エンジン音がして、車が動き始める。
「りょう!」
あっという間に車はロータリーを抜け、テールランプがきれいな弧を描いて消えていく。いぶきはしばらく座り込んだまま動けなかった。
一際冷たい風が吹きつけてきて、いぶきの身体を震わせた。時計を見ると飛行機の出発時刻が迫っている。とりあえず立ち上がり、早足で空港へ向かった。搭乗手続きと保安検査を済ませながら、頭の中でふと、もしこの立場が逆だったならりょうはスーツケースなんか放って車を追いかけたのだろうか、という思いがよぎった。何より相手のことを一番に考える彼なら。胸に針を刺したような痛みが走った。
……けれどいぶきはどこまでもいぶきでしかなく、彼は重い足をどうにか動かして、予定の飛行機に乗り込む。
座席に腰を落ち着け、すぐにアイマスクをつけた。ひどく身体が重く、目の前のものにいちいち注意を向けることすら億劫だった。頭の中ではつい先程見たりょうの涙が思い出される。
りょうを泣かせてしまった。泣かせないようにと気をつけていたはずなのに。
彼が泣いているのを見るのは初めてではない。以前に何度も泣かせてしまったことがある。けれど、だからこそもう彼を悲しませたくないと思っていたのに。
何がしたかったんだ、俺は。りょうにあんな顔までさせて――
また針を刺すような痛みがいぶきを襲った。溜まりに溜まった電気が今、自分自身に向かって放電しているらしい。唇を噛む。ずきずきとした痛み。耐えきれず、座ったまま身体を折り畳んだ。
翌日、契約手続きは滞りなく完了し、いぶきは心から安堵した。その後顧客との雑談も和やかなもので、昨日恋人を泣かせてしまった出来事がまるで別世界のことのように思われるほどだった。
「いやあ、悪かったねえ。君はマメに連絡くれるもんだから、つい場所も考えずに呼びつけちゃってさ」
困ったように笑って首を傾げる。ほどなく六十代に差しかかるというしわの多い相手の笑顔は、なんとなく愛嬌がある。自分が悪いと思ったときにはあっさりそう認めるのも好感が持てた。
「とんでもない。契約の際はお伺いするつもりでしたので、すぐにそうおっしゃってもらえてありがたかったですよ。上司も喜んでました」
「奥さんに怒られたでしょ」それはやや唐突な話題の切り替えだった。いぶきは二つまばたきをした後に答えた。
「いえ、私は結婚してませんので」
「そうなの? 男前なのにねえ。あ、じゃあ彼女怒らせちゃったかな」
「……いえ、そんな」
どきりとして上手く言葉を継げないいぶきを見て、彼はおかしそうにまた笑った。
「いやいや、まあ実際妻に怒られてるのは私の方でさ」
「はあ」
「三十年も一緒にいるんだけどねえ。未だにわかり合えないもんでねえ」
それからしばらく事業を始めた頃からの苦労話と合わせて、彼の妻への愚痴を聞かされることとなった。愚痴を言いながらもその表情は穏やかで、彼が妻と信頼関係を築けていることを思わせた。時々愚痴をこぼしながらも、お互いに離れたいとは思わないのだろうという気がする。
「まあ結局、何年一緒にいても他人は他人だ。話し合い続けないといけないんだろうね。面倒だけどさ」
自分とりょうの関係の行き着く先というには違い過ぎる。話を合わせてうなずきながら、いぶきは心の中で小さくため息をついた。
何年一緒にいても他人は他人。
顧客の元を辞した後、空港の出発ロビーで帰りの飛行機を待ちながら、いぶきは彼の言葉を思い返す。
当然だ。りょうといぶきは他人同士。どうしてわざわざ一緒に暮らしているかと言えば、そうしたいという気持ちがお互いにあるからだ。
りょうは優しい。本当に優しいのだ。それは下心がなく、まっすぐで純粋な心から来ているものだ。忙しいいぶきに対して機嫌を損ねることもなじることもない。りょうが甘えてくるときでさえ、それが優しさではないかとすら思えてくるのだ。りょうがいぶきを頼って、いぶきがりょうを支えて、恋人としての役目を彼に果たさせてくれる。
いぶきの方は違う。いぶきは元々優しさというものを持ち合わせていない、と思う。基本的に他人のことを自分以上に思いやるように心ができていないのだ。優しい言動はりょうの真似をしただけで、しかもりょうに与えるためだけに作られる特別なものだ。
いぶきの心をプラスにもマイナスにも揺さぶるのはりょうだけだ。だから余裕がないときに近づきたくなかった。彼を傷つけるに決まっているから。
けれど、結局傷つけてしまった。指先一つ触れることなく。
――優しい彼に、一緒に住みたくない、と言わせてしまうほどに。
自分が何を間違ったのかがわからない。わからないなら話し合わなければならない。離れたいと思っていないなら。顧客と彼の妻の関係を、そのままいぶきたちに当てはめることは到底できないけれど、それでも愛情でつながる他人同士の関係という意味では同じはずだった。
『昨日はごめん。早めに仕事終わらせるから、話がしたい』
りょうにメールを送ったところで、搭乗手続き開始のアナウンスが流れた。いぶきはスーツケースを引っ張って、歩き出した。
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