君のためにできること

道半駒子

君を癒してあげること

 幼い頃に読んだ絵本に、不思議な魔法の力が出てくることがあった。魔法使いがマントを翻して描き出す、七色に輝く不思議な力。

 理屈も理論も関係ない圧倒的なその力は、今思えばまったく都合のいいもので、すべてを丸く収めることができた。主人公が負った大怪我や、お城の奥で眠るお姫様の原因不明の病が嘘のように治るのだ。有り余ったその力は世界中の不幸をひっくり返すほどのもので。


 そんなことを思い返しながら、はパジャマのまま寝室を出て、リビングのカーテンを開け放った。ようやく明るくなり始めたばかりの朝の風景が目に入ってくる。

 火曜日の早朝のこと。


 ふいにドアの鍵が回る音がして、玄関の辺りで散らばる靴音が聞こえた。

「……なんだ、起きてたの」

りょうが窓際から振り向いたところで、のつぶやく声がした。リビングに入ることなくそのまま彼の姿は寝室に消え、どさりと鞄を置く音や、クローゼットを開ける物音が聞こえる。

 今の今まで静かだった部屋にそれらの音はよく響いて、りょうを少し怯ませた。いぶきはおそらく徹夜明けだ。一方こちらは昨日仕事を定時で上がり、今日は休日なのだ。

「おかえり。……何か食べる?」

まだ薄暗い寝室をのぞきたずねてみる。ワイシャツを脱ぐ背中から返答があった。

「いや、とりあえず風呂入る」

タオルや着替えを持って目の前を通り過ぎ、そのまま浴室に向かういぶきを、りょうはなんとなく追いかけた。この一週間、同居人であり恋人同士でもある二人はろくに目を交わすことも会話もなかったのだ。いぶきが仕事で多忙になったことが原因だった。

 朝、りょうが起き出す頃にはいぶきは家を出ており、夜はりょうが眠った後にいぶきが帰ってくる。冷蔵庫に作り置いた食事も食べない日が多い。ただ台所の端に置かれた栄養ドリンクの空びんだけが、多忙な日々を数えるかのように増えていく。

 同居を始めて一年。このようにいぶきの仕事が急に忙しくなることは初めてではない。手つかずの食事の皿も、増えていく栄養ドリンクの空びんも、りょうにとっては今更嘆くことではなかった。ただ、彼の身体が心配だった。


 浴室の手前、洗面所に入ったいぶきがドアを閉めようとして、こちらを振り返った。充血した目とまともに目が合う。

「……あのさ、起きてなくていいよ」

かすれ気味の声が、彼の口から滑り出てくる。

「え?」

「りょう、今日休みじゃん。寝てていいから」

「……あ、うん」

でも、いぶきが帰ってこなかったから心配になって。

 口をついて出そうになる言葉を咄嗟に飲み込む。

「こっちもさ、りょう起きてるかもって思ったら気ぃ使うし。休みなんだから、ゆっくりしとけって」

うなずいて答えたつもりが、そのまま顔を上げられなくなってしまった。ドアが閉まり、やがてシャワーの水音が聞こえてくる。


 いぶきという男は、長く一人暮らしをしてきたせいか、疲れているときに色々と干渉されることをあまり好まないようだった。「マッサージしてやるよ」「帰り会社まで迎えに行こうか」「何かお前の好きなもの作るよ」……りょうが提案しても、どれも困ったように首を傾げて「大丈夫」と言うだけなのだ。そのうち言外に放っておいてほしい、という要求が読み取れるようになってきて、りょうは不本意ながらも大人しく応じることにした。


 ベッドに戻って明かりをつけ、読みかけの本を取り出す。数ページ読み進めるうちにシャワーの音は止み、浴室のドアが開き、ドライヤーの音が聞こえてくる。振り向くともういぶきは戻ってきており、携帯電話を操作していた。淡くボディーソープの香りをまとっている。

「すぐ行くの」

「いや、二時間だけ寝る」

どうやら携帯電話でアラームをセットしたらしかった。りょうの隣に倒れ込み、掛け布団の中に潜り込む。

 二時間後に起こしてほしい、と頼んでくれてもいいのに。


 明かりを消して、本を置く。薄暗い視界。目を閉じたいぶきの眉間にしわが寄っていたので、そっと親指で撫でてやった。ほどなくそれはほぐれたけれど、わずらわしかったらしく、彼は無言で寝返りをうってこちらに背を向けた。


 こういうときのいぶきの心がわからない。いつもはそんなことがないのに、疲れたときの恋人はまるで手負いの野生動物のような態度を見せる。弱っていても助けや保護を求めず、ただじっと丸くなって回復するのを待つだけの彼。

 俺が、いぶきにしてあげられることは何もないのだろうか。そう思うとりょうはひどく情けない気持ちになる。自分たちは恋人で、お互いのことを誰よりも大切に思っているはずで。だったら相手が疲れているときは力になりたいと思うのが当然ではないのか。いぶきはいつもりょうにそうしてくれるのに。

 りょうの方はいぶきとまったく逆で、疲れているときこそ恋人に甘えたくなる質だった。だからそういうときはいぶきがとても優しく甘やかしてくれるのだ。りょうの大好きなオムライスを作ってくれたり、リビングのソファでテレビもつけず何時間も黙って身体を抱いてくれたり、りょうが眠りにつくまで付き添ってくれたり。


 ……多少は、恋人としての役割を果たせないままの自分がいやだ、という気持ちがあることを認めないでもない。同居を始める前の彼はもっと笑顔を見せることが多かったような気がする。 


 自分にいぶきを癒してあげられる力があればいいのに、といぶきの背中を見ながらりょうは思う。

 あの絵本の魔法使いのような、圧倒的なものでなくていい。七色でなくても、どんなものでもいい。彼に元気を取り戻してあげられるようなものとまでは言わない。せめて彼の疲れを取り除いてあげられるような力が欲しい。


 起こさないように、そっと彼の髪の毛に唇を寄せる。

 俺ができることがあれば何でもする。

 どうか、いぶきが少しでもよく眠れますように。

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