君を傷つけないこと

 携帯電話のアラーム音が聞こえて、いぶきは目を覚ました。

 まぶたが重い。身体が重い。疲れというものがもし目に見えるものであったなら、きっとそれは今、いぶきの身体にいくつも重くぶら下がっているのだろう。

 二時間程度の睡眠では、ぶら下がってくる疲れの重みも変わりようがない。ややかすみがちだった視界が正常に戻ったくらいのものだ。目をこすりつつ身体を起こす。カーテン越しに見える窓際はもう明るくなっている。隣には、恋人のりょうが眠っていた。

 掛け布団を掴んだ指を組み合わせて身体を丸めるその寝姿は、天に祈りを捧げる様子に似ていた。こちらに顔を向けている。小さな寝息がいぶきの耳に届いた。やはり無理をして早起きしていたのだろう。


 眠る前の記憶が流れるようによみがえってくる。

 徹夜でどうにか仕事をまとめ上げ、本当はそのまま自分の席で眠ろうかと思っていた。けれど午前中の会議でその案件の説明をしなければならなかったので、仕方なく始発電車で一旦家に帰ったのだ。さすがに徹夜で仕事をした後風呂にも入らずに会議に出たら、本当の意味での鼻つまみ者となってしまう。

 薄々予感はしていたけれど、やっぱりりょうは起きていた。こちらを気遣う様子を見せ、何かと声をかけてくる。その優しい声に、ありがたいというよりも、申し訳ないという気持ちがわき上がる。


 今、自分は電気をまとっているのだ、といぶきは思う。仕事で、職場で、客先で様々な摩擦を繰り返すことで生まれる電気。ピリピリといぶきの身体を覆っていて、時折ちくりと心を刺す。これを解消するには自然に放電するのをただ待つしかなく、それまでは間違ってもりょうに触れてはいけない。彼を傷つけてしまうことはわかりきっているからだ。だから、徹夜明けで一番帯電しているだろうときに家に帰るのは、いぶきにとってはあまり気が進まないことだった。


 自分は不器用だといぶきは思う。

 仕事に疲れた恋人の自分を何くれとなく気遣ってくれるりょうに、普段通りに接することができない。そんなに俺のことを考えなくていい、とわずわらしく思ってしまう。毎日作ってくれる食事も、ありがたいと思うけれど胃は受け付けず、マッサージを提案されても、帯電している身ではリラックスもできない。


 仕事のことをプライベートに持ち込みたくないのだ。別々に暮らしていたときには意識すらしていないことだった。これまでりょうが傍にいるときがそのままりょうのための時間だったから。今はまた少し違う。共に生活をするということは、仕事もプライベートもそれ以外のこともすべてを共にすることだ。

 仕事のことはりょうには関係ない。だからピリピリとした自分をさらしたくない。けれど、さて家に帰ったところですぐに気持ちを切り替えられるわけもない。だからそういうときは彼と話をしない。目もなるべく合わせず、身体には触れないようにする。恋人に愚痴をこぼさないことと、八つ当たりをしないことを心に決めて同居を始めたのだ。そして今のところそれは守ることができている。


 けれどここ一週間、りょうの浮かない顔ばかりを見ているような気がする。以前にも感じたことのある苦い気持ちがわき上がる。

 だからといって、ではどうすればいいのか。

 りょうのことを大切に思っている。だからなるべく傷つけないようにしようと思っているけれど……。



 午前中の会議で説明を行い、無事役員の了承を得ることができた。人が次々に出て行く会議室でプロジェクターの片付けを始めたいぶきに、同席していた上司が声をかけてくる。

「よかったな、これで契約にこぎつける。後は書類だけか」

「はい。おかげさまで」

いぶきは向き直って頭を下げた。目の前の上司が何か積極的に手伝ってくれたわけではなかったけれど、彼は今のいぶきが担当するには少々大き過ぎる案件を取り上げたりせず、ひとつうなずいて上へ話を通してくれたのだ。それだけでいぶきには充分だった。

「始発で帰ったのか、今朝は」

「……すいません」

上司は肩をすくめ、いぶきの背中を叩いた。

「今日くらいは定時で上がれよ」

「はい」

そのまま会議室を出て行く。その姿がドアの向こうに消えてからようやく、いぶきは大きく深呼吸することができた。

「はー……」

 ――これで、とりあえず一区切り。

 テーブルに腰を下ろし、目の前に両手を広げてみる。溜まりに溜まった電気も、これから少しずつ放電されていくだろう。それにはまず戻って熱いコーヒーを飲むことだ。そう思い、いぶきは会議室を出た。


 同居人でもあり恋人でもある彼の寂しそうな寝姿を思い出す。上司の言う通り、今日は定時で帰ろう。とりあえず忙しさのピークは終わったと伝えれば、彼も少しはいぶきのことを気に病まずに済む。そうすればいぶきの方も気が楽だ。


 そう思って席に戻り、一つ伸びをして大きなマグカップに濃いめのコーヒーを淹れる。少しずつ気分が上向き始めたところだった――けれど。

 顧客に報告の電話を入れた途端に、それはひっくり返ってしまったのだ。

『ああ、オッケーもらえたの! じゃあ明日でもおいでよ』

 相手は少々気まぐれなところのある人物だった。オーナー会社の経営者によくいる人種だ。決して悪い人ではないのだけれど、一度その気になるとせっかちに事を進めたがる。

 一瞬、脳裏に稲光が走った。けれどそんなことに関係なくいぶきの身体は勝手に動いた。手帳を開いて明日の予定を確認し、首を巡らせて上司をうかがう。彼がこちらを見てうなずいたのが確認できると、左手が受話器を握り直した。

「承知しました。では明日おうかがいさせていただきますね」

その会社まで飛行機で二時間はかかる。元々挨拶も兼ねて契約書は持参するつもりだったから、その距離を今更どうこう言う気はなかったけれど、さすがに今はげんなりする。しかも取り付けた約束の時間を考えれば、前泊しておかなければ間に合わない。


 受話器を置く。大きくため息をついて椅子にもたれる。天井を仰いだ途端、頭の中でりょうの声が響いた気がした。錯覚だ。すぐに頭にはこれからのスケジュールが組み上がりつつあった。



 とりあえず一度帰宅した後、最終便で向かうことにした。同僚たちの気遣わしげな声に笑って応え、終業時間ぴったりに会社を出る。


 家に帰るとりょうが驚いた顔で出迎えた。

「いぶき! 早かったね」

「うん……」

 ふわりと温かい、トマトの匂いがいぶきを包んだ。夕食を作っていたところらしい。驚きから覚めると、りょうはいそいそといぶきの手から鞄を取り上げ、上着を脱がせる。いぶきの帰宅を心から喜んでいることがありありとわかって、いぶきの口を重くした。

「ちょうどよかったよ。今日はミネストローネに挑戦してたんだ。いぶきはうさぎのえさみたいって言うかもしれないけど、けっこう美味しくできたからさ、食べてみてよ。目玉焼き乗せたのをネットで見てさ、めちゃくちゃ美味しそうだったんだよなあ。半熟の黄身をスープと一緒にパンに浸すやつ!」

言いながら上着をハンガーにかけ、りょうは軽い足取りで台所に戻る。その背中を眺めて、いぶきは小さく息をついた。

 まいったな。

 何と言って切り出すべきか。

 すると、まるでその心の声が聞こえたかのようにりょうがこちらを振り返った。笑顔のまま一度目を合わせて、伏せる。

「……あ、今日も食欲ないなら無理しなくていいよ」

「いや、そういうんじゃない」

「そう?」

「……ちょっとまた、これから出て行かなきゃいけなくて」

「会社に戻るの」

「出張」

「今から?」

目を大きく見はってりょうが訊き返す。いぶきがうなずいた。

「うん……八時四十五分の飛行機」

「だったらもう出なきゃいけないじゃん」

彼の珍しく強い口調に、いぶきは再びうなずくしかなかった。かたん、と音がして鍋の火が消える。りょうは慌ただしくエプロンを脱ぎ始めた。

「りょう、」

「送ってくよ」テーブルに置かれていた車の鍵と財布を手にする。

「いや、いいって」

「着替えとか用意しなきゃだろ」

「大丈夫。七時に出れば間に合うから。お前、ご飯作ってる途中だろ」

いぶきがそう言うと、りょうは目を剥いた。何か言おうと大きく口が開かれる……けれど、

「いいから。送ってく」

彼の口から出たのは、感情を抑えた低い声だった。それ以上はいぶきも何も言わなかった。小さなスーツケースに荷物を詰め込み、無言のまま、二人は家を出て車に乗り込んだ。



 すっかり暗くなった空と、建物のネオンや窓からもれる明かり、対向車のヘッドライトなど、あふれる光が滑らかに視界を流れていく。運転席のりょうは口を引き結び、いぶきも何も言えずに、しばらく車だけが順調に空港までの道を進んでいた。


「ごめん」

 沈黙に耐えかねて声を出したのはいぶきだった。

 ……何が「ごめん」なのか。

 料理の手を止めさせ、空港まで送る手間を取らせたことか。急に決まった出張のことか。今更そんなことをりょうがあげつらうとも思えない。けれど珍しく神経を尖らせ、それをまったく隠さない相手に対して言えることはそれしかなかった。頭の中ではっきりわかっているわけではないとしても。

「……別に怒ってないよ」

とは言うものの、りょうの声は低い。その後行き帰りの飛行機の便名を尋ねられた。万が一何かあったらいけないから、と言う。


 いぶきは唇を噛んだ。ふいに喉にせり上がってくる言葉を感じ、どきりとする。もやもやとしたいらだちに似た強い感情が流れ出して、心が逸る。今口にしていいのかわからない言葉。かといってそれを吟味しようにも、鼓動が早まって上手く考えがまとまらない。りょうは黙って運転をしている。

 重苦しい沈黙が嫌だった。本心を言ってしまえばわかってもらえると思った。

 目の前の信号が青になる。走り出す車のエンジン音に重ねていぶきは声を出した。

「もうさ、気ぃ使わなくていいから。俺のことはほっといてくれたらいいから。りょうがさ、俺のこと心配して色々やってくれてるのはわかってる。けどそれも大変だろ。こうやって送ってくれたりするのはありがたいけど、別に電車でも行けるわけだし、お前だって余計な時間取られなくて済むじゃん」

りょうが息を吸い込む気配がした。構わずいぶきは続ける。

「その方が、お前も俺も、楽だろ」


 ウインカーの音がして、車が右折する。その反動で、大きく身体を揺さぶられた。いぶきは思わず声をもらしたけれど、りょうは何も言わない。

 そのまま空港まで、何も言わなかった。

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