終章

終章




 メルゲン叔父に呼び出されたジョクが一晩待っても戻らなかったので、どうしたのかと思っていたら、二人で飲んでいたらしい。ディオは律儀にも、彼の為に寝台をあけ、絨毯で寝ていた。

 盟主が何を話したのかは不明だが、アラルに連れられて帰って来たジョクは、開口一番、こう言った。


「オーラト族のところへ、説得に行く」


 俺とディオは、絶句した。

 書や衣類などをアラルの手を借りて片付け始めたジョクを、ディオは、茫然と見詰めた。


「待てよ、ジョク。どうして、そういうことになったのだ?」


 ディオの代わりに、俺が問い質さなければならなかった。


「理由を説明しろ。どうしてお前が、オーラト族の許へ行かねばならない? いったい、盟主と親父は、お前に何を言ったんだ?」

「何をって――」


 ディオは、じっとジョクを凝視めている。充分な説明を受けていなかったらしく、アラルも、片付けの手を止めて主人を見た。

 俺達の心配をよそに、ジョクは、飄々と肩をすくめた。


「特別なことは、何も。普通の話だと思ったけどなあ、おれは」

「普通って……」


 病人のお前を、裏切ったかもしれない氏族の許へ行かせることの、どこが普通なんだよ! と、言いかけた言葉を、俺は呑み込んだ。ディオの無表情が、凄く恐かったのだ。

 俺は、びくびくしながら訊ねた。


「どうしてそれが普通なんだ。俺達には、それが解らないんだよ」


 ジョクは、俺の顔を見た。ディオを見上げ、考える。それから、軽く溜め息をついて答えた。


「ボルド族とタァハル族がいつ攻めて来るか判らないこの時期に、お前やディオが、オルドウを空ける訳にはいかないだろう? でも、迷っているオーラト族は、こちらの陣営に引き止めないと……。説得する使者として、おれが行くんだ」

「…………」

「おれとしても――シルカスとクチュウト族にも、オーラト族の力は必要だ。彼族が裏切れば、真っ先に被害を受けるのは、我々だからな」


 ディオは、眉一つ動かさなかった。ジョクも、平然と奴を見返している。


「――だからって!」


 俺は、胸苦しくなって声をあげた。


「だからって、お前が行くことはないだろう? 使者なんて、誰でも……隷民ハランでもいいはずだ」

「大事な従者を殺されてしまっては困るから、おれが行くんだ」

「お前が殺されてしまったら、どうするんだよっ。ボルドと結んで、裏切りを決めたかもしれない奴に!」

「……そうされては困るから、おれが説得に行くんだけどなあ」


 遂に、ジョクは笑い出した。澄んだ瞳で俺を見て、歌うように言う。

 ディオの無表情は変わらなかった。ジョクは、少し考えてから話し掛けた。


「お前は、おれが歩けないのを、『個性』だと言ったろう? ディオ。戦争を止める使者に、ぴったりの個性だと思わないか?」

「……そう、親父が言ったのか」


 ディオの声は、地獄の遠雷のように聞えた。俺はぞっとして、寿命が二・三年縮んだ気になった。

 ジョクは、にっこり微笑んだ。

 よく言うよ、まったく……。俺は、途方に暮れて、アラルと顔を見合わせた。


「せめて、アラルを一緒に連れて行け」


 俺が言うと、アラルが頷いた。ジョクの頬から、微笑が消える。


「俺の兵を何騎か、護衛に連れて行け。な? ジョク」

「それは駄目だ、トゥグス。今、オルドウには、一騎でも多くの兵が必要だ。アラルも、ここに残れ」

「ですが、長……」

「バヤン大伯父の二の舞になったら、どうするんだよ!」

「その時は、迷わず氏を攻撃してくれ」


 一瞬の迷いもなく言い返したジョクの瞳に、俺は、強い意志の光をみつけ、息を呑んだ。――もう、哂ってはいない。真顔でディオを見つめる痩せた面に、親父にもメルゲン叔父にも劣らない族長の威厳をみつけた。

 ディオは、黙っている。ジョクは、やや表情を緩め、囁いた。


「その時には……。盟主もオルクト安達も、了解済みだ。全軍を揚げて、彼族を掃討しろ、ディオ。シルカスと、クチュウトも参戦する。北方五族は、異論なく、お前の許に参じるだろう」

「…………」

「ディオを頼んだぞ、アラル」


 また不思議な微笑を浮かべて、ジョクは、アラルに言った。ミンガンは、恐縮した。


「は……」

「あまり、困らせないようにな」


 ディオは、ふいにぎりっと歯を噛み鳴らした。舌打ちし、開け放たれた扉の向こうへ声を投げかける。こちらがびくっとする程、鋭い声だった。


「タオ!」


 足音を聞きつけたらしい。返事のないそちらを一瞥して、再び呼びかけた。


「ジョルメ、居るんだろう? 入って来い」


 タオは、おそるおそる姿を現した。後ろに、ジョルメがついてきている。タオはそっとユルテに入って来たが、ジョルメは中に入ろうとせず、戸口に跪いた。

 ディオは、ジョクから視線を逸らさずに、二人に話しかけた。


「お前達――」

「兄上?」

「剣は使えるな? タオ」

「ラー」

「父上の了承済みだ。ジョクと共に行け。ジョルメ、お前も、オーラトの処まで行って来い」

「かしこまりました」


 ぱあっと瞳を輝かせる、タオ。緊張して頭を下げるジョルメを見て、ジョクは、眼をまるくした。


「おい、ディオ。それは――」

「この二人に護衛役は、ちょっときついんじゃないのか?」


 俺もどうかと思って口を挟んだが、ディオの答えは、にべもなかった。


「誰が、護衛だと言った」


 奴は腕を組み、無造作に言い捨てた。


「俺は、シルカス族長に同行しろと言ったのだ。親父の神矢ジュべ(馬の名)を除けば、コアイ(タオの馬)は、オルドウで一番脚の速い馬だ。ジョルメ、お前には、俺の葦毛ボルテを貸す。二人とも、ジョクの身に何か起きた時には、すぐに帰って俺に報せろ。いいか、寄り道は許さん。飛んで帰って来い」

「ラー!」

「……よろしく」


 タオは元気よく応え、ジョクは、苦笑して二人に挨拶した。仕方ないと言うように。

 ジョルメの緊張した表情とは対照的に、タオは、とにかく兄の役に立てることが嬉しそうだった。


 そうか……。俺は、ディオの意図を察した。

 この二人であれば、大人の従者より、ずっと身軽に行動できる。タオなら、換え馬も不要だろう。ボルテとコアイの駿足に任せて、誰よりも速く帰ることが出来る。

 俺は、タオが捕らえられ人質になる可能性については、敢えて考えなかった。ジョクが捕らえられてもそうだろう。――ディオは、そんなことで攻撃の手を緩めるトグルではないのだから。


 ディオは、ジョクを見詰めていた。その碧眼は、親友にかける言葉を探す風であったが、結局、何も言わなかった。

 ジョクも、奴を見返している。

 その視線を振り切るように、ディオは踵を返すと、柱に掛けてあった外套を取り、袖に腕を通しながら歩き出した。

 俺は、慌てて声をかけた。


「どこに行くんだ?」

「親父に会ってくる。俺には解らん……。どういうつもりか、問い質す」

「もう、居ないよ」


 ジョクが、さらりと言った。ディオは戸口で足を止め、振り向いた。


「何?」

「もう、居ない。ボルド氏の処へ、今朝、出掛けて行った。彼族を説得する為に」

「…………!」


 俺は、呼吸を止めた。タオは怪訝そうにしていたが、ディオも、切れ長の眼をみひらいた。

 奴の新緑色の瞳が、光を反射して眩むように輝くのを、俺は見ていた。


「何だと……?」


 ディオは息だけで囁くと、それきり、絶句してしまった。


              *


 それから三日――

 ディオは、黙り込んでいる。

 一人きりになった奴に、俺とアラルは、何と声をかければ良いか判らなかった。奴がどんな言葉も望んでいないと解るだけに、やるせなかった。

 盟主がどういうつもりでボルド族の処へ出掛けて行ったのかは、親父に聞くことが出来た。ジョクを使者とした理由も。

 ディオは、説明を聴く間も聴いた後も、ずっと黙っていた。凍りついたような無表情で。

 そして、待っている。

 毎朝、ディオはオルドウから出て、ハン・テングリ山の見える丘の麓まで馬を走らせ、朝から夕方まで、そこに座っていた。夕方には大人しく帰って来るし、どこに居るか判っているので、心配する必要はなかったが……俺は、心配していた。

 それで――何も出来ないし、期待されてもいないと承知していたが――奴にくっついて、そこらをウロウロしていた。ディオに煩がられない程度にだが……俺は、奴を護衛しているつもりだった。


 ディオは、何を待っていたのだろう。

 日中は座って草原を眺め、日が暮れるとユルテに戻った。夜になると奏でる馬頭琴モリン・フールが、奴の唯一の言葉だった。

 三日間を静かに過ごし、俺を発狂しそうな気分にさせたが、奴は、本当に何も言わなかった。



 四日目の夕方――

 いい加減、何か連絡があるだろうと思っていた。その日も暮れかかり、草原に座っていたディオが、帰る気配を見せた時……俺達は、蹄の音を聞いた。

 ディオは振り返り、俺は立ち上がった。アラルと親父が、それぞれ馬に乗って近づいて来た。その、親父の顔を見た時、俺には判った……。

 ディオも立ち上がった。しかし、俺達には近付かず、立ち尽くしていた。

 直接奴に告げるのは、憚られたのだろう。アラルは馬から降りると、俺に向かって話し掛けた。


「ボルド氏族の許から、盟主の供の者が帰りました。彼族とタァハル部族からの、宣戦の言葉を受けております」

「…………」

「我等が十六代盟主・メルゲン・バガトル様は、お亡くなりになられました……」

「ディオ」

「……聞えている」


 俺が呼びかけると、三日ぶりに、奴の声が返って来た。いつもと変わらない、淡々とした声が。おそらく、表情も変わっていないだろう。

 俺は、奴の顔を正視できなかった。

 ディオは、アラルに訊ねた。


「死因は?」

「……毒殺です」


 親父が、神妙な口調で補足した。


「盟主は、和睦を申し入れに行かれたのだ。しかし、ボルドより、タァハルの方が曲者くせものだった。オルタイト族という――奴等が、メルゲンを捕らえて、毒をあおらせおった」

「遺体は?」


 親父の言葉だけで充分だと思えたが、ディオは満足しなかった。酷なことを、さらに訊く。

 親父は、困惑して俺を見た。アラルも、咄嗟には答えられなかった。

 ディオは、繰り返した。


「遺体は? どうなったのだ、アラル」

「……供の者の話では――タァハル部族が敵の将を扱う手技にのっとって、扱われたようです」

「…………」

「捕らえた敵は、そのオルドウの位置を吐かせた後で……毒をもって殺し……四頭の馬に四肢を曳きとらせた後で、首級を斬り落とす、と……」


 ディオは、眼を閉じた。

 アラルは精一杯気を遣い、迂遠な表現を心掛けたのだろうが、俺は、奴を睨まずにいられなかった。俺の目に、ディオは一瞬、その場から消えてしまいそうに見えた。倒れて、跡形なく消えてしまいそうに……そうなっても、不思議ではなかった。

 しかし、奴はそこに居た。ただ立ち尽くし、眼を閉じている。風にも、夕闇にも、消えなかった。

 俺は、そっと呼んだ。


「ディオ」

「……聞えている、トゥグス。大丈夫だ」


 『大丈夫だ』という言葉を、ディオは噛み締めるように言ったが、眼を開けようとはしなかった。


「トゥグス」


 低くおし殺した声を、俺は聞いた。


「トゥグス。……俺は、親父が好きだった」

「…………」

「だが。たった今、嫌いになった……」


 俺たちは、何も言えなかった。


「ディオ」


 俺が呼ぶと、ディオはゆっくり瞼を開け、鮮やかな新緑色の瞳で、俺を見た。真夏の草原を映す碧眼だ。悲しみもいかりも、端麗なその面には表れていない。

 毅い意志と誇りと……俺達には計り知れない、巨大な何かを従えて、顔を上げた。


「……仕事だ。トゥグス、アラル、オルクト安達。行こう。剣とナフサを用意しろ。戦争だ……」

「ラー(御意)」


 ――第十七代盟主トグル・ディオ・バガトルの言葉に、俺達は一礼し、各々の馬に跨った。

 オルドウへ向かう前に、ディオは、夕陽を反射して紅に輝く聖山を見遣ったが……無言で、手綱を引いて歩き出した。馬の足取りにも、その背にも、もはや、迷いはなかった。


 二日後。シルカス・ジョク・ビルゲの説得を受け入れたオーラト族が、オロス族と共に、参戦する。


 ボルド、タァハル族、さらにタイウルト族とキイ国まで巻き込んだこの戦いは、実に十年近い歳月に及んだ。その間に、ディオは、許婚であるクチュウト族の娘を奪われ、母も喪くした。

 ディオとタオの兄妹が、草原の統一を果たすのは、それから更に三年後のことである。



 ……そして。ディオは、父の葬儀を、生涯行おうとはしなかった。






『飛鳥』外伝:狼の唄の伝説

     完

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狼の唄の伝説 ―『飛鳥』外伝 石燈 梓 @Azurite-mysticvalley

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