最終話 覆水盆に返らず

(圭……圭を呼ばないと!)

 占尊は後ろを振り向いた。彼女はすでに迷路の中に入ってしまったようで、姿は見えなかった。

 鼻孔を広げ、息をできるだけ吸い込むと、潜水し、手すり伝いに前進した。十字路を越え、迷路の入り口に向かう。絨毯の通路は幅が広いので、いちおう、平泳ぎの類いはできる。だが、それをすると壁際から離れることになり、通路中央の水流に飲み込まれてしまう。

 迷路の中に入る。左に折れ右に折れ、左に折れたところで、丁字路に出くわした。

(……いったい圭は、どっちに行ったんだ? 右か、左か?)

 数秒間悩んでから、占尊は右に曲がった。圭は、占尊の提案したとおり、片方の壁に手をついて進んでいるに違いない。たしか彼女は、右利きだった。だとすると、右の壁をなぞって進んでいる可能性が高い、と判断したのだ。

 その後も、丁字路や十字路に出くわすたびに、右の道を選択し続けた。行き止まりを発見した場合は、つい癖で突き当りまで進みそうになったが、今回の目的はあくまで圭の発見であることを思い出し、すぐさま引き返した。

 彼女を見つけたのは、迷路に入ってから十分ほど経った後だった。水位と天井間の距離は、もはや十センチを切っていた。

「占尊?!」と、名前を呼ばれる。「何やってんのよ、こんなところで! 迷路を調べているんじゃ──」

「聞いてくれ、圭! 出口がどこかわかったんだ!」

 なんですって、と彼女は叫んだ。「どこなのよ?!」

 占尊は、注水口こそが出口ではないか、という推理を話した。「なるほど」と、圭が言う。「確かに、筋は通っているわね」

「だろ?」

「早く、注水口のある部屋に向かいましょう!」

 その後は、先ほどとは反対に、左の壁に手をついて戻った。行きと同じように、十分ほどで絨毯の通路に出ることができた。急いで、部屋に向かう。

 注水口のある部屋に入ると、呼吸のために浮上しようとして水面を仰いだ。ところがその瞬間、強烈な光が目を直撃し、思わず俯いた。どうやら、照明の真下に来てしまったらしい。急いでその場から離れると、浮き上がり、鼻を水面から出して天井に押し付けた。

 しかし、天井と水面間の距離はすでに二、三センチしか残っておらず、どれだけ強く押し付けても水が鼻孔に流れ込んできた。咽そうになり、慌てて再度潜って、鼻に力を入れて水を追い出す。それから浮上し、今度はひょっとこのような顔をして、口だけを水面から突き出し、何とか息をした。

 占尊たちは、注水口の両脇に移動した。右脇に彼、左脇に圭がいる。水位が天井に達するのを待つ間、ひょっとこのような顔を維持して呼吸し続けた。

 占尊の胸の内では、先程の閃きに対しての不安が膨らんでいた。(本当に、これで正解なんだろうか? やはり、最初に思ったとおり、造り手はきちんと迷路の中に出口を用意していて、パイプからの脱出はできねえようにしているんじゃないか? 例えば、注水が止まると同時に、シャッターの類いが下ろされるとか……)

 けれども、今さらそんな心配をしても仕方がない。もう一度迷路に戻り、出口を探し直すなんて不可能だ。無事に注水口から脱出できることを祈るしかない。

 口を天井に軽く押し当て、なるべく水面から遠ざけて呼吸していたのだが、ついに、水が唇を越えて入ってきた。最後に目一杯、水混じりの息を吸い込んだ後、口を離し、注水が止まるのを待つ。

 試しに指を注水口の前に差し出すと、水流が感じられた。水を吐き出す低い音も、耳に届く。占尊は手すりを握りしめ、じっと時が来るのを待った。

 十秒が経ち、三十秒が経ち、一分が経っても、水流は収まらなかった。占尊は徐々に、心臓の鼓動が激しくなってくるのを自覚した。

(俺は水泳部だから、息を止めるのにはなれているが……圭は大丈夫だろうか?)

 そう思い、ちら、と彼女を見る。圭は目を瞠り歯を食い縛り鼻孔を広げ、明らかに苦しそうな顔をしていた。唇が紫がかっている。

 やがて彼女は、ごぼ、と口から大きな空気の塊を吐き出した。手すりから手を離し、天井に背中をつけ、ゆらゆらと漂い始めた。

(しまった──溺れたかっ!)

 まだ、死んだと決まったわけじゃない。すぐに水から上げ、救命処置を行えば、助かる可能性がある。

(早く、止まれ、注水っ!)

 そう心の中で叫んだ途端に、低音が聞こえなくなった。指を注水口に近づけても、水流を感じない。

(止まった)

 圭の体を左手で掴み、急いで、注水口の中に入った。数分前の危惧が現実となることもなく、たやすく入ることができた。

 右手で壁を掴み、後方に引っ張って前進する。二人だと狭かったが、何とか一緒に泳ぐことができた。しばらくすると、数メートル先の天井に扉のようなものがついているのが見えた。

 急いでそれに近づき、仰向けになって全体をよく確認する。扉はパイプの丸みに沿って作られていて、縦の長さがおよそ二メートル、横幅は半円近くあった。中央を縦に筋が一本通っているので、恐らく両開きなのだろう。付近の天井には、扉を開閉するためのものと思われるハンドルが付いていた。

 ここから注水管の中に入れられ、迷宮に送り込まれたに違いない。占尊はハンドルを握ると、そこに書いてある矢印のとおり、反時計回りに回転させようと力を込めた。

 ハンドルはとても固く、最初は動かなかった。だが、それでも力を入れ続けると、じりじりと回り始めた。同時に、扉が予想どおり中央の筋で割れ、左右にスライドし始めた。開いた隙間に、水が一斉に流れ込み始める。

 扉が二センチほど開いたところで、指を入れてみた。水面を突き破る感覚があり、指先が水のない空間に出た。

(やっぱ、脱出方法はこれで正解だったんだ)

 占尊はひたすら、ハンドルを回し続けた。ある程度、扉をオープンしたところで、ひとまず頭を外に出し、息継ぎをする。

「ぷはあ。はあ。はあ。ふう」周囲の状況を、確認した。

 縦横四メートル、高さ二メートル程度の小さな部屋だった。一方の壁からは、直径一メートルほどの太い鉄パイプが突き出ていて、床から五十センチばかり離れたところを通っている。室内中央で下に折れ、地面に続いていた。迷宮に水を送り込むための、注水管に違いなかった。

 占尊は、そのパイプの折れている箇所の直前に取り付けられている扉から顔を出していた。部屋の片隅には排水口があり、溢れ出た水はそこへ流れて行っていた。

 彼から見て左側の壁には、鉄製の扉があった。よく見ると、鍵穴もついている。

(あの扉が、出口なのか? とにかく、このパイプから出るか)

 占尊は再び潜り、今度は、管の扉を全開にした。水面から、ざばあ、と上半身を出す。顔を拭い、扉の左の縁を両手で掴んだ。体を回転させて乗り越え、足を床に下ろそうとする。

 ちゃりん、と、ズボンのポケットにしまっていた鍵が落ちる音がしたが、気にしていられない。そのまま、足を床につけた。

 ずるっ、と滑った。鍵を踏んづけたのだ。そのままそれを蹴り飛ばし、なすすべなく後ろ向きに転倒する。

「うごっ?!」

 後頭部を強く打ちつけた。しかし、呻いたり摩ったりしている時間はない。急いで立ち上がり、圭をパイプから出す。お姫様抱っこの要領で抱え、床に寝かせた。溢れ出る水が鬱陶しかったので、注水管の扉を閉める。

 胸に両手を当て、心臓マッサージをする。戻ってこい、戻ってこい、と揺れに合わせ、心の中で叫び続けた。「戻ってこい! 戻ってこい!」と、実際にも叫ぶ。

 一分が経った。まだ、圭は息を吹き返さない。

 三分が経った。まだ、圭は息を吹き返さない。

 五分が経った。まだ、圭は息を吹き返さない。

 七分が経った。腕は痺れ、手はずきずきと痛み、息は上がっていた。それでも占尊は、奇跡を信じ、マッサージを施し続けた。

 奇跡が起きたのは、さらに三分が経過した時だった。圭の喉から突然、ごぼごぼ、というような音とともに、水が噴き出たのだ。同時に、胸が大きく上下し始め、口が空気を吸い込み出した。

「圭っ!」占尊は彼女の顔に近づいた。「大丈夫かっ!」彼の目から、滝のように涙が溢れ出した。

「はあ、はあ、はあ……だ、大、丈、夫に、見え、る、かし、ら、これ、が……」圭は途切れ途切れにそう言うった。「あんたが、生き返らせて、くれたのね」にこっ、と微笑んだ。「あり、がとう」

「ああ、よかった、本当によかった……」占尊は、ずずっ、と鼻水を啜り上げた。

「それで、ここはどこなの」

「ここは、注水パイプから出たところにある小部屋だ」占尊は、鉄の扉を指差した。「どうやら、あそこから外に抜けられるらしい」

 すると、何かが視界の隅の排水口のほうで光ったのが見えた。彼はそちらに目を向けた。

(おわっ?!)仰天した。

 鍵が、そのフタの上に載っていたのだ。そして、次の瞬間、中に落ちてしまった。

「ちょ、ちょっとっ……!」

 慌てて駆け寄り、フタを外す。だが、排水管は深くて真っ暗で、中を覗いても、鍵は見えなかった。

 占尊は、鉄製の扉のノブを掴んだ。(頼む!)と心中で叫びつつ、手前に引っ張る。しかし、しっかりと施錠されていて、開くことはなかった。もしやと思い、押してみたが、結果は同じだった。

「何してんのよ。早くその扉、開けなさいよ」事情を知らない圭が、言う。「何があるのかわからなくて、不安なのはわかるわ。でも、きっと大丈夫。何があっても、私たちなら乗り越えられるわよ。だって私たちは、こうして、あの巨大迷宮から、見事に脱出できたじゃない」


   〈了〉

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注水迷宮脱出劇 吟野慶隆 @d7yGcY9i3t

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