第三話 魚の目に水見えず
最初の迷路は、二時間弱かけて探索し終えた。しかし残念なことに、出口は見つからなかった。水位はもはや腰辺りにまで上昇していて、占尊は焦らざるを得なかった。
迷路を出た直後、もしや、出口は床に設置されているが、上から絨毯で覆い隠されているのではないか、と考え、絨毯を床から剥がそうとした。ところが、それはただ敷かれていたわけではなく、強力に床に接着されていたため、表面の毛をわずかに毟っただけに終わった。
また、注水口のある部屋も、怪しいと思い、調べた。しかし、出口のようなものは、どこにもなかった。
そして、探索の結果、分かったことがあった。迷路一つにつき、入り口も一箇所だけ用意されているわけではない。二箇所、付いているのである。
十文字を構成する四本の絨毯の通路のうち、直角に接する二本において、その絨毯の通路を間に挟まない位置にある二つの入り口がペアになっているのだ。もしかすると、探索を始める前に予想した「正方形を十文字の通路で四区画に区切った構造」というのは当たっているのかもしれない。
だが、最初の迷路を出てから二番目の迷路に向かう最中、奇妙な考えに襲われた。ひょっとしてこの迷宮は、先刻考えたような構造ではなく、本当は、数万平米にも及ぶ広大な迷路の中に、まったく同じ造りの、絨毯の敷かれた十文字の通路が点在しているという構造になっていて、自分は迷路から出るたびに別の十文字の通路に入っているのではないか、という疑念である。
占尊は試しに、二番目の迷路に入る前に、通路中央の十字路の手すりに自分のシャツを結びつけた。これが、二番目の迷路を出た後に消えていれば、先ほどの考えは当たっているということだ。
水位は探索中も遠慮なく迫り上がってきていて、地面に足をつけて立つと顎が水中に沈んでしまうくらいの高さとなり、手すりを使っての移動を余儀なくされていた。衣服は水を吸ってかなり重たくなり、着たままだと移動に支障が出るので、下着の青いトランクス以外はすべて脱いでいた。圭にパンツ一丁の姿を見られたところで、恥ずかしくはない。また、予想どおり、手すりを使っての移動は小走りでの移動よりも鈍くなった。
占尊は緊張しながら、二番目の迷路に入った。「果たして本当に出口はあるのか?」という疑問が、再び心の中で湧き起こっていた。
それに、時間もない。水面から天井までの距離は、五十センチ程度しかなかった。
(とにかく、急いで探索するしかねえ)
今までの迷路でもそうしたように、占尊は壁に沿って、正確には手すりに沿って移動した。徐々に上昇してくる水面が、いっそう焦燥を強くした。
三時間強が経った後、占尊は絨毯の通路の十字路中央で、圭が来るのを待った。もはや、水面と天井間の距離は三十センチ弱しかなかった。二番目の迷路に入る前に結びつけたシャツは、出た後も消えてはいなかった。
彼女が来たのは、待ち始めてから約二十分後だった。その間も水位は上昇していて、天井まで残り二十センチを切っていた。前を向くと、頭頂部を天井につけても鼻の辺りまで水没してしまうので、天井を仰ぐようにして水面から顔を出していた。
「圭! どうだった?」
「駄目だわ」圭は顔を歪め、首を横に振った。「見つからなかった──あんたのほうは?」
「俺のほうもだ」占尊は苦い唾が出てくるのを感じた。「見つからなかった」
「どうしてよ!」圭は絶叫した。「あの迷路の中に、出口があるんじゃないの?!」
「知るかよ!」占尊も絶叫した。「仕方ないじゃないか、なかったんだから!」
「ちゃんと調べたの?! 見落としたとかじゃないでしょうね!」
「何を! お前こそちゃんと調べたのか?!」
その後しばらくの間、「ちゃんと調べたのか」「調べた。お前こそちゃんと調べたのか」というような、不毛という表現がぴたりとあてはまるような応酬が続いた。それが終わったのは、占尊の、「待て、いくらなんでもこのやりとりは不毛すぎる」という言葉によってだった。
「そりゃ、そうだけど」圭は口を尖らせた。
「もっと建設的な話をしよう──見つからなかった以上、どちらかが見落とした、ってことになる。今度は、お互いさっきは入らなかったほうの迷路を探索しよう」
「わかったわ」圭は頷いた。「じゃあ、私は、あんたがさっき調べた、あっちの迷路に入るわね」注水口のある部屋に続く絨毯の通路の途中にある入り口のうち、向かって右側のほうから入れる迷路の、奥にある迷路を指差した。
「それじゃあ、俺はこっちだ」占尊は左側の迷路を指差した。
その後、占尊たちは二手に分かれ、それぞれ目当ての迷路に向かい出した。少し進むだけでも潜らなければならず、かなり移動しづらかった。占尊は水泳部に所属しているため、泳ぐのには慣れているが、漫研所属の圭などは、苦労しているだろう。
しばらくして、彼は注水口のある部屋に続く絨毯の通路の途中にあるほうの入り口に到着した。すると、わずかに体を動かしづらくなった。入り口から注水口のある部屋までの通路に、移動方向とは逆向きの水流が発生しているのだ。
一瞬、どうしてだろうと思ったが、すぐに原因が判明した。水位が注水口のある高さを上回ったため、そこから勢いよく吐き出された水が、さながらジェットバスのように水流を作っているのだ。
(なるほど、だから迷路への入り口が道の途中に付いているのか……もし、他と同じように突き当たり、注水口付近についていたなら、この水流に逆らって通路を進まなきゃならず、向かうだけで億劫になっただろう。もっとも、壁際には水流が発生していないようだから、手すりに沿えば容易に進めるかもしれねえが)
占尊は深呼吸した後、急いで迷路に入ろうとした。けれども、半身だけ入ったところで、ふと疑問に思った。
(どうしてこの迷宮は、こんな凝った構造になっているのだろう?)
今まで何とも思わなかったことだが、改めて考えてみると、変だ。なぜ、絨毯の敷かれた十文字の通路があり、そこから四つの迷路に移動する、などという手の込んだ造りになっているのか? 普通の、四方八方に隙間なく道が張り巡らされているような迷路では駄目だったのか?
こんなことを考えている場合でないのは、分かっている。だが占尊は、焦る気持ちを抑えて思考を続けた。この迷宮の構造について疑問を抱いた瞬間、何か、脱出に繋がる、光明が見えたような気がしたのだ。
(考えられる理由は、二つある……一つ目、ただのデザイン。二つ目、注水口のある部屋にたやすく行くことができるようにするため)
もしここが普通の迷路だったならば、一度注水口の元を離れ、探索してからもう一度そこに戻る、ということは困難だっただろう。ところが、絨毯の通路が、それを容易にしている。各迷路を抜け出すのは苦労するが、絨毯の通路に出さえすれば、後は迷うことなく注水口のある部屋に向かうことができる。
しかしどうして、迷宮の構造を凝ったものにしてまで、注水口のある部屋に行きやすくする必要があるのか?
(……もしかして)
重要な場所だからか?
あの、注水口のある部屋は実は、この迷宮から脱出するうえで重要な役割を担っているのではないか? そしてそのことを示唆するために、いわばヒントとして、こんな、たやすく部屋に行くことができるような構造にしたのでは?
(いや、けれども……注水口のある部屋に、それほどの重要な意味があるとは思えねえ。すでにあの部屋は調べているが、どこにも出口はなかった)
それではなぜこの迷宮は、まるで部屋を重視するかのような構造になっているのか?
占尊は眉間に皺を寄せ、考えに考えた。先刻、刹那的に脳裏を掠めた光明がいったい何だったのか、必死に思い出そうとした。
(──あっ!)そして、閃いた。
止まる。
(迷宮が水で満杯になれば、隙間なく水で満たされれば、それ以上注水することは不可能だ。必然的に、注水は止まる)
注水が止まれば、水流もなくなる。
(注水用の管の中を、泳げる)
逆走できる。
(脱出できる)
心臓の鼓動が早まった。興奮のあまり、歯が震え、目が見開かれる。
(やっと、見つけた……この水牢からの、脱出方法を)
占尊は注水管を通して、この迷宮に送り込まれた。だから、管の途中に網の類が張られている心配もない。それどころかパイプを逆走すれば、当然、造り手が自分を中に放り込む際に使った、管の内外を繋ぐ出入り口が見つかるはずだ。そこから脱出できるかもしれない。
(これだ!)
これこそが、この迷宮からの脱出方法だ。
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