第7話 奥東圀誌・トゥルクズ紀

※以下URL七圀地図

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 次に奥東圀Worujarsht、北狄の諸部族氏族について申し上げます。

 バフシュ河の彼方パラバフシュには果てしない草原が広がっております。バフシュ河の東側から、エブレン・アルトゥンの峰々が伸び、奥東圀Worujarshtの東側を弧を描くように聳えたっております。パラバフシュの草原の北にキョグメン・カディルガンの山々が伸び、その北側には広大な森が広がっております。その森の中にはアルテシュ河と言う海の様に大きな河が流れているそうです。


 トゥルクズとは四柱TörtQizという意味であります。我々の祖先が、一柱BirQirt四柱TörtQizから生まれたことに由来します。また別名をトゥルクシュとも言い、四柱TörtQushから生まれたことを意味しております。Qushの様なQizとも謡われることも屡々であり、トゥルクズと同じことであります。一柱BirQirtは、別名をキョク・カァンとも言い、アルヤナグの祖先カイムルウと同一視されております。別の伝承に拠れば、キョク・カァンまたは一柱BirQirtは、カイムルウより七代目の子孫であるそうです。カイムルウと暁姫君Banug Oshasの間に生まれし四陽孫Chahar-Khwaharの長子アールハンの裔だそうです。アールハンは奥東圀Worujarshtの奥へ進み、北狄たちの王となりエル・カァンと呼ばれたそうであります。元々は由緒あるアルヤナグでしたが、北狄の俗に染まってしまったそうであります。

 エル・カァンが崩じ、その子キュン・カァンが継ぎ、キュン・カァンが崩じ、その子アイ・カァンが継ぎ、アイ・カァンが崩じ、その子ユルドズ・カァンが継ぎ、ユルドズ・カァンが崩じ、その子タグ・カァンが継ぎ、タグ・カァンが崩じ、デンギィズ・カァンが継ぎました。

 エル・カァンの御世より三百年の後、デンギィズ・カァンの御世、内津圀Xwanirah bumでは三月孫Se-Mahzanのシャンドゥ―が天命Yarliq光輪Xwarrahを四方に輝かせておりました。また奥東圀Worujarshtでは、三月孫Se-Mahzanのクルムクシュの勢力が盛んでした。クルムクシュの国主は、デヴァスマンでありました。デヴァスマンは、クルムクシュの国主ナーマルドとシャンドゥ―の女王にして魔女Parikarシャフマランとの間に生まれた隠し子であるそうです。母の力を継いだ魔王Jadgerであり、荒ぶる鬼神の御霊を操り、奥東圀Worujarshtの国々を討ち従えておりました。


 デンギィズ・カァンは魔王Jadgerデヴァスマンに頭を下げて膝を折ることを善しとせず、クルムクシュと戦うことにしました。しかし、デンギィズ・カァンはクルムクシュとの戦に敗れて殺され、トゥルクズの祖先たちは一人の男児を除いて皆殺しにされました。クルムクシュの兵士は殺すに忍びず、草叢に投げ捨てました。これを憐れんだ女神ウマイは、四柱TörtQushの様なQizを遣わし、険峻な山々に囲まれた草高く青みたる地エルゲネコンに匿いました。四柱TörtQushの様なQizたちに育てられた男児が一柱BirQirtであります。その児は狼の様な蒼い鬣を生やしていた故に、そう呼ばれたそうであります。

 男児は勇敢Alpにして聡明Bilge大人Erとなり、勇士Alpaghにして賢者bögüとなりました。テンゲリからの天祐Yarliqにより、böreの様な賢者bögüキョク・カァンと成りました。キョク・カァンは四柱TörtQizたちを娶り、夫々キュンドズ・カァトン、ユルドズ・カァトン、イル・カァトン、イェル・カァトンに立てました。Qushの様なQiz達は、十六人のToganの様な息子Tiginたちを産みました。

 やがてToganの様な息子Tiginたちも長じて立派な勇士Alpaghに育ちました。馬や牛、羊などの家畜も増えてエルゲネコンの地も手狭になりました。しかし、険峻な山々に囲まれたエルゲネコンには出口がありませんでした。そこで、böreの様な賢者bögüキョク・カァンは、大きな鞴を作って大きな火を起こし、山を溶かして道を作りました。溶けた山が冷え固まると、大きな鉄の塊が出来ました。böreの様な賢者bögüキョク・カァンは、鉄の塊を鍛え直して、鉄の剣、鉄の矛先、鉄の鏃、鉄の兜と鎧を作りました。

 böreの様な賢者bögüキョク・カァンとToganの様な十六人の息子Tigin達がエルゲネコンの地を出た時、四方は敵ばかりでした。父と子等わずか十七騎なるも、皆一騎当千の勇士Alpaghでした。母なるQushの様な四人のQiz達は女神が遣わした魔女Etugenでした。先ずは父祖達の仇であるクルムクシュ魔王Jadgerデヴァスマンを討つことにしました。

 キョク・カァン達は僅か十七騎の無勢、それに対してクルムクシュの魔王Jadgerデヴァスマンは七万を超える多勢を集めました。十七の鉄騎は牡牛の群れが押し進むが如く七万の敵を踏みつぶしました。赤き魔女Etugenキュンドズ・カァトンは七万の敵に火を浴びせ、黄色き魔女Etugenユルドズ・カァトンは七万の敵を水に沈め、黒き魔女Etugenイル・カァトンは七万の敵を風で薙ぎ倒し、白き魔女Etugenイェル・カァトンは七万の敵を土に呑み込んで、夫と息子たちを助けました。キョク・カァン達は僅か十七騎の無勢で、クルムクシュの七万を超える多勢を散々に打ち破りました。キョク・カァンと四人のカァトン、十六人のテギン達は掠り傷一つ負いませんでした。クルムクシュの七万の軍勢の多くは殺されました。魔王Jadgerデヴァスマンは、Qushの様なQizにして、魔女Etugenたる四人のカトゥン達に魔力を封じられ、キョク・カァンとの一騎討ちで討ち取られました。魔王Jadgerデヴァスマンの四十人の息子たちも皆討ち取られ、クルムクシュの国主となる血は絶えてしまいました。キョク・カァンは生き残ったクルムクシュの民草の中、逃げる者を追わず、降る者は赦してトゥルクズの民にしました。西へと落ち伸びたクルムクシュの民たちは、黒き民草の中から、トゥワンスパルと謂う者を国主に選んだそうであります。


 別の言い伝えに拠りますと、嘗て人類は馬の背に乗ることを知らなかったそうです。最初に馬の背に跨ったのは、Qushの様なQiz達であったそうであります。Qushの様なQiz達はキョク・カァンに馬の乗り方を教え、Qushの様なQiz達から産まれたToganの様な息子Tiginたちは、生まれながらにして自在に馬を操ったそうであります。故にトゥルクズは、この世でも最も秀でた馬乗りであるのです。

 十七騎の戦いの時に、トゥルクズの真似をして馬の背に跨って逃げた者たちは、アルヤナグや様々な人々に馬の乗り方を伝えたそうであります。俄かに盛んとなったトゥルクズの勢いを恐れたサグズダグやスヴァナグ達もまた、トゥルクズの真似をして馬の背に乗ることを覚えたそうであります。


 エルゲネコンの四つの大きな峰を持つ長い山並みの麓、青みたる草が丈高く生い茂る牧場が果てしなく地で、トゥルクズは大いに栄え、パラバフシュの果て果てに拡がっていきました。やがて廻る天輪の定めにより、キョク・カァンの御霊は天の彼方に飛び去りました。Qushの様なQizにして、魔女Etugenたる四人のカトゥン達も、天界に戻ったそうであります。魔女Etugenたる四人のカトゥン達に因み、青みたる草が丈高く生い茂る牧場が果てしなく地を育む、四つの大きな峰を持つ長い山並みのことをウトュケンと呼ぶようになりました。そして十六人のToganの様な息子Tiginたちが、トゥルクズの十六の部族Yrkの祖先となりました。


 とある言い伝えに拠りますと、我が子である魔王Jadgerデヴァスマンを失い、悲しみに暮れる魔女Parikarシャフマランは、トゥルクズに仇を返す折を伺っておりました。しかし、テンゲリとウマーイ、聖なるイェルスブ、böreの様な賢者bögüキョク・カァンとQushの様なQizにして、魔女Etugenたる四人のカトゥン達の御守りにより、魔女Parikarシャフマランは手を出しかねておりました。キョク・カァンがお隠れになり、Qushの様なQizにして、魔女Etugenたる四人のカトゥン達が天界に戻ると、魔女Parikarシャフマランも仇を返す時を得ました。魔女Parikarシャフマランは、Toganの様な十六人息子Tiginたちに呪いを掛けたそうであります。キョク・カァンがお隠れた後、十六人息子Tiginたち集まって誰がカァンに成るべきか話し合いました。しかし魔女Parikarシャフマランの呪いの為に話が着かず、誰もカァンに成れませんでした。十六人息子Tiginたちは夫々の民の上にイルキンとして立ち、十六の部族Yrkに分かれていったのでした。再び一つになるのは、それから三百年後、アルプ・メルゲン・カガァンの御代でした。


 トゥルクズはけものを飼いながら移ろいます。けものの多くは、馬、牛、羊であり、珍しいけものは、駱駝、驢馬、騾馬、駃騠けってい等であります。水草を逐って移ろい、常に住まう城や村は無く、田を耕す生業を持ちませんが、それぞれ牧場まきばを分けて持っております。ふみは無く、言霊を以て誓いを立てます。幼子は羊に騎って弓を引いて鳥や鼠を射ます。もう少し生い育ちますれば、狐や兎を射て糧とします。大人Erになれば強弓を引き、悉くが鎧を着て馬に騎ります。そのならいは凡そけものに頼っております。とりけものを射て狩いて生業となしている為、一度ひとたび事が起これば、日頃より慣れ親しんだ戦の技により戦うことこそ、トゥルクズの持って生まれたさがなのであります。遠くの敵には弓矢を使い、近くの敵には剣や矛を使って戦います。思わしければ進み、思わしくなければ退き、逃げることを恥としません。掟は世の為、人の為にあると考え、掟の為に世や人があるとは考えません。ベグから民草に至るまで、けものの乳を飲み、けものの肉を喰らい、皮を衣とし、毛皮を被ります。働き盛りの大人は肥えた旨い所を食い、年寄りは余りを啜ります。これは年寄りを賤しむからではありません。トゥルクズは日々戦いに明け暮れております。年寄りは戦いに能わず、働き盛りの大人に肥えた旨い所を宛がい、戦いで身内や友輩を守り保てるようにするのであります。また父が亡くなれば、その継母を娶り、兄弟が亡くなれば、その妻を娶ります。これは子孫の絶えること憚り、且つ女の出た氏族Oghushとの関わりを保つのであります。


 キョク・カァンが報じてトゥルクズが十六部に分かれた頃、メーノーグシュタル大王の曽祖父アシュバカンは、シャンドゥ―と戦って殺されました。その為に部族はアシュバンとサグ-スヴァルに別れました。アシュバンはフラシュトゥワーン王の元、ゴルガルとカフバルフの山並みに挟まれたベフシュドルの牧地に留まり、サグ-スヴァルは更に四散してバフシュ河とパラバフシュの地で、トゥルクズ-トゥルクシュと雑居したそうであります。

 それより百年後、アシュバカンの裔アシュヴァン部族のメーノーグシュタル大王は、サグ-スヴァル、トゥルクズ-トゥルクシュ諸部に攻められ、バフシュドルの牧場を追われました。アシュヴァンの民たちと彷徨った末、マンダルの裔マイダル部族とチャクラヴァトの裔チャクラン部族に迎えられ、アムガルの都で玉座に座りました。この時よりアルダクシャフルの元年が始まりました。


 十年、メーノーグシュタル大王の次子ティグルダードはバフシュドルの地を奪い返し、その地のサグ-スヴァル、トゥルクズ-トゥルクシュを従え、ティグラーンの国を建てました。

 十三年、メーノーグシュタル大王は、シャンドゥ―の都ベフガンジュ陥れ、シャンドゥ―の王カイダハーグ・ビバルラーサを討ちました。この時ティグルダード王に率いられてトゥルクズ-トゥルクシュも戦いに加ったそうであります。


 二十八年、メーノーグシュタル大王の三子カイ・アーラシュが即位しました。九年の間にルムドと戦ってアーハンルード河を国境に定めました。三十九年、兄フラシュヴェーズに弑逆されて王位を簒奪されました。カイ・アーラシュの遺児クルシュナシュヴァ・ウズルクは、叔父のティグルダード王の元に匿われて、戦事いくさごと政事まつりごとを学びながら、英邁な王子に育ちました。

 その間、マイダルの貴族や騎士たちは、カイ・フラシュヴェーズの暴政に耐えかねておりました。マイダルに仕えるトゥルクズのスパフバード・アルパグ・ベグは、不満を抱く貴族たちと密かに通じ合い、カイ・アーラシュの子クルシュナシュヴァを誘って王位につけようとしておりました。

 七十五年、カイ・アーラシュの子クルシュナシュヴァは、カイ・フラシュヴェーズを討ち、アルダクシャフルの皇位に就きました。スパフバード・アルパグ・ベグは、その後ルムド征服にも手柄を立てました。アルパグ・ベグは、ルムドの太守になり、王に代わって奥西圀Worubarshtの諸々の事柄全てを治めました。この時に最も名をはせたトゥルクズ人であったそうであります。


 それから二十年程後、ティグルダードの子ドーシュターシュヴァが卒し、その子アスヴァルギールがティグラーンの王位を継ぎました。とても勇敢でありましたが、未だ若かったので、母トュミュルクズが後ろ盾となりました。トュミュルクズはトゥルクズのアルタガン部族の出でありました。この時ティグラーンは、カフバルフの北からバフシュ河両岸の北狄や諸都市を抑え、その力は強く盛んでした。アルダクシャフルよりも大きくなることを望まないカイ・クルシュナシュヴァは、トュミュルクズに結婚を申し込んで、ティグラーンを全て我が物にしようとしました。しかし、聡明なトュミュルクズはカイ・クルシュナシュヴァの真意を見抜いておりました。

 九十五年、アルダクシャフルとティグラーンは二度にわたって激戦を繰り広げました。始めの戦いでトュミュルクズは息子のアスヴァルギールを失いました。トュミュルクズは自ら出陣して再びカイ・クルシュナシュヴァと干戈を交えました。この戦いでカイ・クルシュナシュヴァは敢え無く討ち死にしてしまいました。

 カイ・クルジュナシュヴァの後、その子ガーウマニシュが皇位を継ぎました。ガーウマニシュは父の仇を討つべく兵を挙げてティグラーンに再び戦いを挑みました。アスヴァルギールの弟ダルヤーブがティグラーンの王位に就き、母后トュミュルクズとアルタガン及び北狄諸部の後ろ盾の基、アルダクシャフルの軍勢を迎え撃ちました。

 一百四年、七年の戦いの末、ダルヤーブはカイ・ガーウマニシュを討ち、アルダクシャフルの皇位を受け継ぎました。カイ・ダルヤーブの下、アルダクシャフルとティグラーンは長きにわたって国を安んずることが出来ました。


 一百五十年頃、フワダーイヤールの御代、シャンドゥ―の末裔と謂われるガーウメースカムが、ベフシュ河の奥、エブレンとアルトゥンの山並みに挟まれたテレグハルの地に於いてチャンダル国を興しました。彼の地は冷涼にして地味も貧しく、兄弟で一人の妻を娶る俗がございます。


 カイ・ダルヤーブの三十四年、カイ・フワダーイヤールの二十年、カイ・フシャスラルダの四十一年の在位の後、ティグラーン家と北狄諸族との間の縁は薄くなっていきました。その頃、バフシュ河の北にはトゥルクズのクズルバク、アクトガン、バフシュ河の東にはチャンダルのムルバガン、スヴァラン、アルガン、タグラク、ゴルガルの山並みとバフシュの流れの間には、セグズド、ダフユルク、アグラク、カガシュが蛮居しておりました。またチャフラーンの北の海沿いにはルフシャーンが居り、夫々が谷に分散し、夫々が君長Zandbedを建てておりました。


 二百七年、カイ・ダルヤーブ・シャフラアルダーンの御代、セグズドの王はカイ・ダルヤーブ(二世)の母后と通じ、密かに子を設けていたそうです。ある時、母后はセグズドの王をクルシュカルドに誘い出して殺し、兵を挙げて一気にセグズドの諸都市を征服しました。


 二百二十二年、カイ・ダルヤーブ(二世)が崩じると、兄フシャスラルダと弟クルシュナシュヴァが皇位を廻って激しく争い合いました。フシャスラルダは東国と北狄の後ろ盾を得、クルジュナシュヴァはラシュナ等の西戎の後ろ盾を得て戦いました。フシャスラルダは、心は寛く情に厚い人でしたが、武運拙く討ち死にしてしまいました。クルジュナシュヴァは皇位に就きましたが、フシャスラルダの遺徳は厚く、北狄は屡々反旗を翻しました。

 このクルジュナシュヴァは、トゥルクズ-トゥルクシュの間でも最も御名を知られた圀皇Shahでした。大圀皇カイ・クルジュナーシュヴァ・ウズルグと言い分けるために、トゥルクズ-トゥルクシュの間ではクルジュ・カァガンと呼ばれております。


 二百五十五年、クルジュ・カァガンは詔を発し、長子ヴァルカーシュ・テギンとスパフバード・マルドゥーウシュに七万の軍勢を託してゴルガルの山並みの北側に進ませました。この時、西にダハグエルが強く、東にチャンダルが盛んでありました。トゥルクズのトグルク氏族Ughushのカァンはトゥマンと言い、トゥマン・カァンは、スパフバード・マルドゥーウシュに勝てず、北に追いやられました。

 ヴァルカーシュ・テギンは、頭は賢く、心は寛く、情に厚く、嘗てのフシャスラルダ・ダルヤーバンの様でありました。またマルドゥーウシュは強く賢く、善くヴァルカーシュ・テギンを輔けたので、再び北狄と東国は安んじて治まることになりました。国中の誰もが、ヴァルカーシュ・テギンこそが、天命Yarliq光輪Xwarrahを四方に輝かせる御方と思っておりました。

 十年ほどでヴァルカーシュとマルドゥーウシュが死に、諸侯はアルドゥクシャフルに叛き、内津圀Xwanirah bumは大いに乱れました。アルドゥクシャフルによって北辺に流された者たちは皆逃げ去るに至りました。ここにトゥルクズは安んじてバフシュ河を渡り、再び内津圀Xwanirah bumと隣り合うことに成りました。

 

 後にカガァンに成られるメルゲン・テギンは、トゥメン・カァンの息子であります。しかし、トゥメン・カァンは後添のカトゥンが産んだ子ビルゲシズ・テギンを愛し、メルゲン・テギンを廃嫡しようと考えておりました。この頃、トゥメン・カァンはマルドゥーウシュに敗れ、アルダクシャフルとの和睦に託け、メルゲン・テギンをクルシュカルドに人質に送りました。トゥメン・カァンは敢えてアルダクシャフルに叛いてメルゲン・テギンの抹殺を計りました。ヴァルカーシュは、メルゲン・テギンの聡明さと勇敢さを見抜き、その才気力量を高く買っておりました。むしろメルゲン・テギンを侍従に取り立てて重用しました。愛娘ラフシャナクをメルゲン・テギンに娶せる事を誓ったそうにございます。

 二百六十年夏三月、クルジュ・カァガンは崩じましたが、逆臣バグバンデにより伏せられました。逆臣バグバンデは謀によってヴァルカーシュとスパフバード・マルドゥーウシュは殺し、愚昧なグーダルズを圀皇に立てました。クルシュカルドの諸将士卒は、誰が敵で誰が味方か判らなくなりました。この乱れに見切りをつけたメルゲン・テギンは許嫁のラフシャナクを駿馬に乗せてトグラクのユルトに戻った云われております。トゥメン・カァンは衆目もあり、メルゲン・テギンの才気力量を認めざるを得ず、テリスのシャドにしました。

 二百六十一年夏六月、カイ・グーダルズは正式に圀皇と成りました。トゥメン・カァンは奸臣バグバンデの甘い誘いに乗り、再びアルダクシャフルに臣従しようとしました。メルゲン・テギンは密かにそれを察しました。メルゲン・テギンはヴァルカーシュ・テギンへの恩義を忘れおりませんでした。父トゥメン・カァンと弟ビルゲシズ・テギンを倒して、自らアルプ・メルゲン・カァガンと成りました。


 嘘か誠か定かではございませんが、言い伝えに拠りますと、メルゲン・テギンは家来たちを集めて巻狩りに出かけました。ここでこう仰いました。

 「皆の者よく聞け。我が鏑矢が射る所を必ず射よ!射なば斬る」

 言う通りにせず、鏑矢が射た所を射なかった者は、忽ち斬られました。次にメルゲン・テギンは愛馬を鏑矢で射ました。左右の者たちの中、敢えて射なかった者が居りました。メルゲン・テギンを愛馬を射なかった者を忽ち切りました。それから暫く後、次は自分の愛称を鏑矢で射ました。左右の者たちの中、頗る恐れて射なかった者がおりました。メルゲン・テギンは又射なかった者を斬りました。それから暫くの後、メルゲン・テギンは巻狩りに出かけ、トゥマン・カァンの愛馬を鏑矢で射ました。左右の者は皆これを射ました。ここにメルゲン・テギンは左右の者が皆用いるに足る者と悟りました。父トゥメン・カァンに従って狩りに出かけました。鏑矢を以てトゥメン・カァンを射ると、左右の者たちは皆、鏑矢に向かってトゥメン・カァンを射殺しました。遂に継母カァトンと弟ビルゲシズ・テギン、及び抗うブイルクやベグたちを悉く誅して、父トゥメン・カァンの墓に殉葬しました。アルプ・メルゲン・カァガンは、これ以降、俗を改めて殉死を止めさせました。


 また次の言い伝えも、嘘か誠か定かではございません。

 アルプ・メルゲン・カァガンが立った時、西のダハグエルの勢いが強く盛んでした。ダハグエルのヤブグーは、アルプ・メルゲン・カァガンが父を殺して自ら立ったことを聞き、度々使者を送ってトゥメン・カァンが持っていた千里を走る馬を所望しました。アルプ・メルゲン・カァガンは群臣に諮りました。

 「千里を走る馬はトゥルクズの宝にございます。与えては成りません」

 と皆申して反対しました。

 「隣国との誼、どうして馬一頭を惜しもうか?」

 とアルプ・メルゲン・カァガンは仰せられ、千里を走る馬を与えました。

 それから暫くの後、ダハグエルのヤブグーはアルプ・メルゲン・カァガンを侮っり、度々使者を送ってカガァンのカァトンの一人を所望しました。アルプ・メルゲン・カァガンは復た群臣に諮りました。

 「カトゥンを求めるなど!ダハグラルの酷い言い掛かり赦すまじ!撃ちましょう!」

 と皆激しく怒り狂いました。

 「隣国との誼、どうして女一人を惜しもうか?」

 とアルプ・メルゲン・カァガンは仰せられ、カァトンの一人をダハグエルに与えました。

 ダハグエルのヤブグーは益々侮り、東にトゥルクズを侵しました。トゥルクズとダハグエルの間には棄て地が有り、人が住まないこと60frasangに及び、其々見附を置くだけでありました。ダハグエルは度々使者を送ってアルプ・メルゲン・カァガンに申し上げました。

 「トゥルクズと我が国との境の見附以外の棄て地は、トゥルクズには使い道の無い地とお見受けします。ならば我らが貰いうけましょう」

 アルプ・メルゲン・カァガンは群臣に諮りました。

 「これは棄て地です。与えるも好く、与えぬのも好いでしょう」

 と或る者は答えました。

 「地は国の本である。どうして之を与えようぞ!与えようなどと申す者は皆斬る!」

 アルプ・メルゲン・カァガンは大いに怒りながら言い放った。

 アルプ・メルゲン・カァガンは直ちに馬に乗り、国中に遅れる者は斬るとの詔を下し、西に下ってダハグエルに襲い掛かりました。ダハグエルは初めアルプ・メルゲン・カァガンを軽んじ、備えを怠っておりました。トゥルクズの鉄騎は至って撃ち、ダハグエルのヤブグーを大いに破り、その民と畜を悉く捕らえました。返す刀で東にチャンダル、アラダグを撃ち、南にルフシャーンとアルタ・バリク・セグズダッグを併せました。ここに於いてトゥルクズのブイルクやベグたちは皆心より敬い、アルプ・メルゲン・カァガンをbilgeであると認めました。


 嘗てスパフバード・マルドゥーウシュに奪われた地を悉く奪い返し、バフシュ河でアルドゥクシャフルと隣り合うことになりました。此の時アルドゥクシャフルは、アルスディヴとの戦いで疲れ切っていたので、アルプ・メルゲン・カガァンの勢いは強く盛んになりました。強き弓を引くトゥルクズの強者つはものは七万を数える程になりました。エル・カァンからトゥメン・カァン迄七百年、時に大きく、時に小さくなりながら、散り散りになったままでした。アルプ・メルゲン・カガァンが立ってから、トゥルクズの勢いは最も強く盛んになり、掟を定めて国の仕組みを整えました。


 国を左翼テリスと右翼タルドーシュに分け、四方に左右のシャド、左右のイルテベルを置き、カァガンの脇には左右にキュリュグ・エリンを置きました。夫々トゥマンと名乗り、万余の兵馬を統べました。世継ぎには常に左翼テリスのシャドが宛がわれました。また右翼タルドーシュや左右のイルテベルには、カァガンの子や兄弟であるテギン達が常に充てられました。左右のキュリュグ・エリンや諸々の大臣ブイルク等は、貴き氏族Ughushの者たちが子々孫々受け継ぐことにしました。カァガシュ、エブレン、セビュクの三氏族Ughushが最も貴しとされました。カァガシュ氏は左翼テリス、エブレン、セビュク氏は右翼タルドゥーシュを分かち合い、訴えを聞き、事の軽重を測り、カァガンの御裁き仰ぎます。左右のシャド、左右のイルテベルはイルキン達を統べ治め、左右にキュリュグ・エリンはカァガンを手輔けし、イルキンやベグ達を目付しました。六翼のBashiの下には、千騎頭Bing Bashi百騎頭Yuz Bashi十騎頭On Bashi、タルカン、ベグ、トゥドン、ヤルグチ等が居りました。


 春一月ナグローズにブイルクたちをカァガンの幕庭に集めて神を祀ります。夏四月にはベグたちを柵に集めて、祖先、天神地祇、鬼神を祭ります。天高く馬肥える秋、民草たちを聖なる木の回りに集め、人と畜の数を数えます。

 その法は、みだりに刃を一尺でも抜けば死罪、盗みを働く者は家を召し上げます。罪の小さき者は打ち据え、大きなものは死なせます。獄に繋がれる者も、長くて十日に満たず、一国の罪人は数人に満ちません。元々トゥルクズには罪を犯す者が少ない故、罪を犯す者には厳しいのであります。

 カァガンは、朝に幕舎を出ると日の出を拝み、夜には月を拝みます。座る所は左側を尊び、それは北側に当たります。日は東南と西北の方角を貴びます。死を送るのに棺や金銀の衣装は有りますが、盛土や樹木、喪服はございません。嘗て君主の葬儀には近臣愛妾などを殉死させ、多い時は数千数百に及びました。メルゲン・カァガンの御代になって、俗を改めて殉死は止めさせました。

 事を挙げるに当たっては星や月を読み、月が満ちれば攻め、月が欠ければ退きます。戦いで敵の首を獲りたる者は酒一杯を賜り、獲物は取り放題、人を捕まえれば奴婢とします。故に戦いでは、自ずと己の利の為に働きます。よく敵を誘き寄せてから待ち伏せします。敵を見れば烏の様に獲物に群がり、敗れれば雲が散るように散ります。戦いで死んだ味方の屍を持ち帰れば、死んだ者の家財を悉く得る習わしがございます。


 二百六十八年春一月、西戎ラシュナの覇王アルスディヴは、アルダクシャフルの都アムガルを陥れました。都の宮や社、蔵や館、家々は全て焼き尽くされ、アルヤナグの貴族、騎士、兵士、神官、賢者、民や奴隷に至るまで、多くが殺し尽されました。

アルドゥクシャフルの圀皇Shahチャクラヴァトは奥東圀Worujarshtに落ち伸びました。逃げる道すがら、追っ手により深手を負わされた為、クルシュカルドにて崩じました。天命Yarliq光輪Xwarrahは、ヴァルカーシュ・テギンの一女ラフシャナク姫に受け継がれました。

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