よかねえ
馳月基矢
ヤズのヅケ茶漬け
研究者とは一体どんな仕事をしているのかと問われれば、アキオには非常に答えやすい。
フラスコの中で試薬を混ぜ、反応を見る。時に小さな爆発を起こしたりゴミや毒を作ってしまったりと、小学生が思い描くような研究者が、某国立大学のラボに勤めるアキオの仕事だ。
有機化学実験はブラックだ。化合物は、人間の生活リズムに合わせたペースで結晶化などしてくれない。八時間後に温度を変えねばならないだとか、これから六時間は目を離せないだとか、昼夜を問わずアキオは実験に縛られる。
自転車で通勤できる距離にお手頃なマンションを借りることができたのは幸いだった。人通りの絶えたバス道路を、ダイナモを光らせて走る。
雨が降ったらしく、アスファルトが湿っている。気温と湿度の管理された研究室は、夏場は肌寒いから、薄曇りの今夜の空気はしっとりとしてちょうどよい。
学生向けマンションが建ち並ぶ中では珍しくファミリー向けの小さなマンションに、アキオは帰宅した。
「ただいま」
ドアの鍵を閉め、フローリングの廊下に上がったところで、ミカがリビングから顔を出した。
「おかえり。日付変更よりは早く帰ってこられたったいね」
妻の訛りを聞いた途端、アキオも堅苦しい標準語から解放される。
「先に寝とらんやったと?」
「寝らんって。あたしも仕事あるし。何か飲むか食べるかする?」
「そうやね。夕方に軽く食べたきりやけん、腹の減っとる。あっさり食べられるもんのあったら、ほしか」
「ヅケ茶漬け、できるよ。うちの親から、
「ヅケか、よかなあ。うん、食べる」
ミカは得意げにニッと笑い、台所に引っ込んだ。
アキオはまずまっすぐに風呂場へ行って、薬品が付いているであろうTシャツとカーゴパンツを洗濯機に放り込み、両手を肘まで念入りに洗った。
今日のミーティングでは、教授との議論が気まずい形で終わってしまった。アキオが手掛ける実験と同じコンセプトの論文が、インパクトファクターの大きな国際科学雑誌に掲載されたせいだ。
のんびりやっていたつもりはない。アキオは教授を説得して、実験の継続を認めてもらった。
例の論文とコンセプトは同じでも、アキオの実験のほうが安価な試薬を使い、より普遍的な環境で反応を起こすことができる。創薬の基礎理論として現場に受け入れられるのは、新規性に急いだ今回の論文ではなく、アキオがこれから書く論文となるはずだ。
とはいえ、椅子取りゲームに負けてしまった感はある。昔からそうだった。アキオは何につけても丁寧すぎて、悪く言えば、思い切りが足りない。
下着姿でリビングまで行って、朝そこに脱いだ部屋着を身に付ける。
ダイニングテーブルの半分は、ノートパソコンを中心に、ミカの仕事道具が占領している。足下に向けられた扇風機の風が少しテーブルの上にも這い上がって、アキオには何のことだかわからない外国語の本のページをふわふわと遊ばせていた。
「書斎じゃなくて、こっちで仕事しよったと?」
台所に立つミカの後ろ姿に声を掛ける。ミカは振り返り、うなずいた。
「書斎は風が抜けんで暑かけん。リビングは、窓ば網戸にしとったら、テーブルのあたりがちょうど風の通り道になって涼しかと」
「エアコン、入れればよかとに」
「エアコンの風は好かん」
しかめっ面をしたミカが調理台に向き直る。
トントンと何かを刻む音。湯を沸かす気配。電子レンジが動いているのは、冷凍ご飯を温めているのだろう。穏やかな場所に帰ってきたと、アキオは息をつく。
アキオもミカも、九州の外れの小さな島で育った。二つ年上のミカは、アキオにとって姉のような人だった。
大きくなったら島から出る、九州からも出てやると、ミカは子どものころから宣言していた。そしてその言葉のとおり、高校では本土に下宿して、大学では九州を飛び出した。
アキオは何となく追い掛けたが、二つ年上のミカは、ティーンエイジャーのころは少し遠い存在だった。何となく追い付いたように感じたのは、ミカが大学院に進んだころだ。
気が付いたら生活の大半をともにして、恋人のような家族のような関係になっていた。互いのリズムがこの上なく噛み合って、アキオが博士号を取得した節目に、このまま入籍してしまおうかと、それは自然な流れだった。
「お待たせ。ヅケ茶漬け。午前中から漬け込んどったけん、味は
丼に盛ってあるのは、白米に胡麻と大葉を散らしただけの
島では、魚は捌いた当日にしか刺身で食べない。余った刺身は、砂糖醤油に
ヤズは出世魚ブリの幼魚の一種で、寒流と暖流の混じる故郷の島の海域ではよく獲れる。北陸のブリに比べて脂があっさりとして、身はぐりぐりと引き締まっている。
アキオは故郷で獲れる魚の中で、ヤズがいちばん好きだ。薄紅色の光沢をまとう白身の刺身は、器用なミカが盛り付けをすると、花が咲いたように美しい。ヅケもまた、砂糖と胡麻をたっぷり加えるミカの味付けは最高だ。
「いただきます。お茶漬けって、食べやすくてよかよな」
「火傷せんごと注意して。引っ掛けるけん、掻き込まんでよ」
まるで子ども相手のように口うるさいことを言いながら、ミカはアキオの向かいに座ってパソコンに視線を落とした。
「翻訳、途中やった? 面倒臭かときの夜食はカップ麺でもよかとに」
「どうせ昼もカップ麺やろ。家にいるときくらい、まともなもんば食べなさい」
上書き保存、とミカはつぶやき、マウスを二つ三つクリックして大きく伸びをした。
アキオは白米の下からヅケを掘り出し、ぱくりと口に入れた。甘辛い味と、ほどよくほぐれた舌ざわりと、ヤズ特有の脂のコク。タレの混じった出汁をすすると、アキオの額から汗が噴き出す。
「美味か」
掻き込むなと言われたが、懐かしい味が嬉しくて、ついつい箸の動きは速くなる。白米も出汁もまだ熱く、口の中を火傷して、少し涙目になる。
あっという間に食べ終わって丼を置くと、ミカは頬杖を突いてアキオを見ていた。
「明日は早よ帰ってこられる? 冷凍焼けせんうちに、ヤズば刺身で食べよう」
「よかねえ。明日なら実験スケジュールの空いとるけん、早めに帰れるよ」
「じゃあ、全部の料理、島の食材で作ろう。アキの家から送ってもらった夏野菜もあるし」
ミカが嬉しそうに、ふわりと微笑んだ。
「昔と比べたら、ミカちゃん、変わったよね」
「そう? どこが?」
「昔は、島なんか好かんかったろ?」
「別に、好かんかったわけじゃなか。まあ、好いとおっち気付いたとは、島ば離れてしばらくしてからやったばってん」
ミカが遠い目をした。昔は冬でも真っ黒に日焼けしていた漁師の娘は、いつしか白い肌に垢抜けた。外に出れば方言も封印してしまうから、アキオでさえ昔のミカの面影を見失うことがある。
ふと、思い付きが口を突いて出た。
「お盆休みか月末あたり、島に帰らん? 何だかんだ忙しくて帰省も滅多にせんし、もう何年も泳いどらんたい。海、潜ろうで。サザエ獲りばしよう」
ミカが、ニッと笑った。
「よかねえ」
えくぼと八重歯が、昔のミカのままだった。
【了】
よかねえ 馳月基矢 @icycrescent
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます