第9話 秀頼・家康

 慶長8年(1603年)3月、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。その2年後、将軍の地位を嫡男・秀忠に譲り、大御所政治を始めた。この年、家康は将軍となった秀忠と秀頼を引き合わせようと画策するが淀君の反対で実現しなかった。江戸幕府を開いたものの、依然として豊臣秀頼は幕府の支配下から外れており、豊臣家恩顧の大名に対して隠然たる力を有し続けていた。家康としては、徳川が武士の頂点(将軍)、豊臣が公家の頂点(関白)に立ち、その両輪で天下を治めていくことを理想としていた。慶長16年(1611年)3月、家康は秀頼を上洛させ、二条城で会見することに成功した。秀頼の妻・千姫は2代将軍・秀忠の娘であり、会見は和やかな雰囲気の下に終えることができた。

 慶長19年(1614年)4月、豊臣家が再建していた方広寺の大仏殿が完成し、梵鐘も完成した。しかし、家康は梵鐘銘文が旧例にそぐわないことやその内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。嫌がらせと受け取られかねないが、家康も70歳を過ぎ、いつこの世を去ってもおかしくない。徳川家と豊臣家の絆を確かなものにしたかった家康は、これを機会に豊臣の出方を窺い試そうとしたのである。これが結果的に徒となってしまう。

 8月、方広寺の一件に対して豊臣方は弁明の使者として片桐且元を、ついで大野治長の母を家康のいる駿府に派遣した。それに対し、家康は腹案を且元に託し大坂に戻した。一つ目は秀頼の江戸への参勤、2つ目は淀君を人質として江戸に置く、3つ目は秀頼の国替えであった。3つのうちの1つを秀頼が選べばよい。しかし、その内容に激怒した淀君が且元を殺そうとしたのである。且元は豊臣家と徳川家の両方に属する微妙な立場にいる。従って、徳川家になんの断りもなく且元を誅殺しようとした豊臣家に家康は不信感を募らせた。9月末に秀頼の近侍・織田信雄、石川貞政が豊臣家に愛想を尽かして大坂城を去り、10月に入り片桐且元も大坂城を去った。且元が去った翌日、豊臣方は太閤に旧恩ある大名や牢人に檄を飛ばして戦の準備を始めた。ことここに至って、豊臣家の徳川家に対する敵対心は明らかであり、そして引くに引けなくなった家康もついに重い腰を上げざるを得なくなってしまった。

 豊臣家と徳川家は大坂において2度にわたって会戦し、慶長20年(1615年)5月、戦国最後で最大規模の大会戦・大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。

 同年6月、豊臣秀頼の妻であり、大坂城から救い出された千姫は駿府城の一室で祖父を待っていた。上座に家康が座ると、これが欲しかったのでしょう、と言って千姫は手にしていた小柄を投げつけた。家康は、すまなかった、と言ったきり黙ってしまった。膝下に転がった小柄を家康は手にするでもなく、じっと泣き崩れている千姫を見守った。あまりに長い沈黙に今度は千姫の方が居たたまれなくなり家康の方を見つめた。千姫は家康の憔悴と消沈ぶりに驚き、目を見張った。その目にようやく気づいた家康は、秀頼君はなぜ大坂の陣で小柄を使わなかったのか、と千姫に聞いた。父はかつて家康殿と対峙した際、この小柄を使わず正々堂々と戦った、自分もそれに倣った、と千姫は答えた。秀頼君はなにか遺言を残さなかったか、と家康は震える瞳で問うた。二条城で初めて家康殿と会見した際、小柄を挟んで絵巻を眺めながら2人で英雄談義をしたことがとても懐かしく楽しい思い出であった、そして此度の戦を避けることができなかったのは己の不徳の致すところであり、父のような英雄になれなかったことを残念に思う、と千姫は秀頼最期の言葉を伝えた。それを聞いた家康は千姫に部屋から下がるように命じた。

 寄る年波からくる焦りが最も尊敬すべき男の息子を死に追いやってしまった。そのまま家康は部屋から出ることなく畳に突っ伏して、息がこのまま止まってしまうのではないかと思われるほどの嗚咽をいつまでも吐き続けた。

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