第4話 時宗・宗政

 文永の役から遡ること13年前、時宗と宗政の兄弟は父・北条時頼が秘蔵する小柄を持ち出して庭で遊んでいた。庭には小川が流れており鮒や小魚が跳ねている。小柄を用いると面白いようにそれらを生け捕ることができた。その様子を屋敷の縁から見咎めた時頼は兄弟を前に烈火の如く怒った。家宝を持ち出し遊びに用いるとは何事か、と。しかし、時宗と宗政が口を揃えて、この小柄の発する光に惹かれて魚がよく捕れるのだ、と説明すると、時頼は俄に怒りを収め、小柄の発する光が兄弟に見えていることを殊のほか喜んだ。いずれ国難に際してはこの小柄が役に立つと兄弟に言い含めてこれを赦した。

 元からの再三にわたる使節の派遣要請に対し、執権となった時宗はこれを無視し続けた。業を煮やした元はついに日本侵攻を決行した。文永11年(1274年)10月5日、蒙漢軍、高麗軍の混成軍団、推定3〜4万人が対馬に侵攻した。この日、対馬守護の宗資国は果敢に蒙古軍に挑み戦死するも、大宰府へ使者を送り、蒙古襲来を知らせた。大宰府からは即座に鎌倉に向けて使者が発った。その9日後、蒙古軍は壱岐を襲い、ついで肥前沿岸の平戸島・鷹島・能古島に現れ、これらの島々を落としていった。10月19日、蒙古軍が博多湾に姿を現した。早良郡赤坂に上陸した蒙古軍に対して肥後の御家人・菊池武房の軍が急襲し、蒙古軍を敗走させる。赤坂の戦いで敗走した蒙古軍の多くは麁原山へと向かい、一部は別府の塚原に逃れた。塚原に逃れた蒙古軍が麁原山の本隊に合流しようと鳥飼潟を渡った際、肥後の御家人・竹崎季長らがこれを追撃した。そこへ蒙古軍本隊が救援に駆けつけ、竹崎季長の軍と激突した。竹崎軍は軍勢において全く不利であったが後続の日本軍の到着を待つ余裕もない。意を決した竹崎らは蒙古軍に戦いを挑んだ。しかし、季長は元より、その郎党らも負傷して壊滅寸前にまで追いつめられてしまう。そこへ折良く後続の肥前御家人・白石通泰らが到着し、蒙古軍に対して激しい突撃を開始したため蒙古軍は耐えきれず退却した。

 そのころ、鎌倉にようやく蒙古襲来の知らせが届いた。この国難に際して執権・時宗の取る行動はひとつである。異母弟の宗政に役小角の小柄を授け、急ぎ博多に向けて発つよう命じた。

 日本軍が鳥飼潟の戦いで蒙古軍を敗走させた後も追撃を行い再び蒙古軍を破り、上陸地点付近の姪浜まで後退した蒙古軍をさらに破った。蒙古軍にしてみれば、思わぬ日本軍の激しい抵抗に遭い進退窮まってしまった。上陸できないまま戦が長引けば蒙古軍にとっては不利になる。日増しに敵の数は増え続け、このままでは食料も事欠くことになりかねず、また兵たちも気力体力ともに休まる暇がない。進退窮まった蒙古軍は船上で軍議が開き、撤退止むなしの結論に至る。その夜のうちに蒙古軍は高麗に向けて撤退を始めたが、その途中、暴風雨に巻き込まれ、その多くが再び大陸の地を踏むことは叶わなかった。

 宗政が急ぎに急いでその途上である六波羅探題まで到着した時、果たして待っていたのは日本軍勝利の知らせであった。戦後処理を含め、今後の対応について相談すべく鎌倉にいる兄・時宗に使者を立てた。程なく使者が六波羅に戻り、時宗の命を伝えた。宗政はそのまま筑後に向かい、次の蒙古襲来に備えよ、と。文永の役から3年後、宗政は正式に筑後守護を任じられる。

 弘安4年(1281年)。文永の役後、2度にわたる元からの使節を鎌倉幕府は皆殺しで応えた。これを受けて、再び蒙古軍が日本に向けて侵攻を開始する。元・高麗軍を主力とした東路軍推定4〜5万に加え、南宋軍を主力とした江南軍推定10万、合わせて、約14〜15万人・軍船4千数百余艘が日本を目指した。文永の役とは比較にならない規模の軍勢である。5月21日、先行して出発した東路軍が対馬に上陸、ついで壱岐にも上陸し、長門にまで現れた。6月6日、再び対馬、壱岐を落とした蒙古軍は博多湾にその姿を現す。蒙古軍は博多に上陸しようとするも、日本軍は湾岸に約20kmもの石築地を築いて東路軍に応戦する準備を進めていた。これを見た東路軍は博多湾からの上陸を諦め、志賀島に上陸し占領した。6月8日午前、海路陸路の両面から志賀島に向けて日本軍が総攻撃を開始した。伊予の御家人・河野通有、肥後の御家人・竹崎季長や肥前御家人の福田兼重・福田兼光らの活躍により東路軍は壱岐島に撤退せざるを得ず、後発の江南軍の到着を待つことになった。

 そのころ、筑後守護である北条宗政は大宰府に居るがまだ動かない。2度目の襲来にしては敵の数、軍船が少なすぎると見積もっていたからである。日本軍の奮戦ぶりは聞きしに勝るものであり、今の情勢ならば御家人たちに任せておいても戦況が不利になることはないと考えていた。懐には兄・時宗から預かった小柄がある。伝家の宝刀は決定的な場面で使用するようにと兄から強く戒められていた。

 6月29日、7月2日の2度にわたり、松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏など数万の日本軍が壱岐の東路軍に対し総攻撃を始め、苛烈な戦になった。この戦で薩摩の御家人・島津長久や比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄らが奮戦し活躍した。

 一方、東路軍は焦り始めていた。江南軍の到着が遅れに遅れていたのである。期限の6月15日を過ぎても現れない。援軍を待つ間に東路軍の船内では疫病が発生し、3000人以上もの兵が失われた。6月末、ついに江南軍が平戸島近海に現れる。兵10万人、軍船3500艘。東路軍は壱岐島を放棄し江南軍と合流すべく平戸島へ移動を開始した。7月27日、鷹島沖に停泊した艦隊に対し、日本軍が攻撃を仕掛けるに及んで再び激烈な戦が始まった。

 戦闘は日中から夜明けまで続いた。その間、北条宗政のもとには矢継ぎ早に伝令が訪れ、詳細な情報を伝えていた。東路軍と江南軍が合流し、鷹島に主力を集結しつつあるという情報を宗政は掴んだ。この時をおいて他に役小角の小柄を使う機会なし。急ぎ、平戸島・鷹島付近にいる御家人たちに対し、博多に撤退する旨の通達を出した。小柄の力に御家人たちが巻きこまれないようにするためである。使者を送り出した宗政は人払いして自室に籠った。檜でできた三宝の上に二つ折りにした和紙、その上に抜き身の小柄と鞘を置き、宗政は数珠を握って一心に念じ始めた。

 7月30日夜半。俄に拳大の雹を伴う突風が蒙古軍の軍船を襲い始める。半時も降り続いた雹によって多くの軍船に穴が空き、甚大な被害を与えた。雹と突風が止むと、今度は辰巳の方角から激しい風雨が沸き起こった。海原は荒れに荒れ狂い、蒙古軍船の多くが互いに衝突し、砕け散っては沈没し、もはや戦闘不能の大損害を被った。4000余隻の軍船のうち残った軍船はわずか200余隻であった。この大嵐が止んだあと蒙古軍は散り散りになり這々の体で撤退を始めた。それを見てとった宗政は鷹島やその近海に残る蒙古軍残党の追討を命じた。数日で掃討戦を終え、日本軍の勝利とともに弘安の役は終わりを告げた。

 3日3晩に亘り不眠不休の祈祷を続けた宗政は、命の炎を焼き尽くし、日本が大勝利に沸くさなかに危篤状態に陥り、この年、世を去った。享年29歳。時宗は弟の死を大いに嘆き悲しんだ。その一方で、役小角の小柄の行方を配下に探索させたが、終ぞ小柄は行方知れずとなり、歴史の闇に消えてしまった。

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