第5話 尊氏

 時は下り、建武3年(1336年)2月、摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗した足利尊氏は九州に落ちのびようとしていた。

 この男、口髭とあご髭でなんとか威厳を保っているものの眉尻は下がり視線はどこか虚ろな感があり、およそ武士らしくない顔つきである。頭を丸めて僧にでもなった方がよほどそれらしく見えるだろう、などと不届きなことを九州の手前、長門で尊氏を迎え、相対している少弐頼尚は想っていた。しかしながら、この男の家柄は相当なものである。源(八幡太郎)義家の四男・義国が下野国足利荘を本拠とし、その次男・義康以降、足利氏と称するようになった。先の戦で戦った新田氏とは同祖である。目の前の男は、その見かけとは裏腹に堂々たる足利家第8代当主であった。一方、少弐頼尚は元寇の際、文永の役で総大将を務めた少弐資能の子孫である。鎌倉幕府の御家人であり、少弐の姓は先祖である武藤資頼が大宰府の次官・大宰少弐に任命されたことに起因する。

 頼尚が尊氏を迎えている最中に悲劇が起きた。後醍醐天皇方の武将・菊池武敏、阿蘇惟直によって大宰府を攻められ父の貞経が戦死してしまったのである。家を空けたがために父を失うことになった頼尚に尊氏は大層な責任を感じたらしく、頼尚とともに大宰府に討ち入ると言い出した。敵方・菊池氏の率いる軍勢は約2万、対する味方の軍勢はわずか2千である。この圧倒的に不利な状況のなか焦る頼尚を尻目に尊氏は飄々としていた。この男は頭のどこかが緩んでいるのではないか? しかし、戦が始まると尊氏の様子が一変する。この状況のなかで怖じ気づいた行動、言動は一切取らず、常に勇猛果敢に敵に挑んだ。その勇猛ぶりに敵武将は感動し、また畏れた。尊氏が敵を射竦めて名乗りを上げると次々に敵武将が尊氏に下ってしまった。このとき、頼尚は足利氏の棟梁が伊達ではないことを痛感する。

 大宰府奪還を果たし、勝利の酒宴が催された。その席で頼尚はあることを尊氏に告げる。弘安の役は大嵐という天の助けもあって勝利したが、実はそれは偶然ではない。時の執権・北条時宗の弟・宗政が当時、3日3晩にわたり居室に籠り、ある小柄を前に祈祷した結果、大嵐を九州に呼び込み蒙古軍を蹴散らしたのである。祈祷の間、居室の襖からは絶えず妖しげな光が漏れ出ていたことも伝えられている、と。尊氏はといえば、これを真に受けるわけもなく一笑に付した。しかし、頼尚が取り出した小柄を見るにおよんで尊氏の口元から笑みが消え、手にした杯を落としてしまった。その様子から頼尚は尊氏の目に小柄の発する光が見えていることを確信し喜んだ。なにゆえ北条家の家宝がこの地に残ったままになっているのか、と尊氏が問うた。弘安の役の後、頼尚の祖先である資能は宗政から小柄を鎌倉へ届けるよう下知されたが、その直後、宗政が危篤に陥ったこと、また戦後処理のどさくさの間に資能の家来が小柄を紛失してしまったことを告げた。執権・時宗から小柄返還の命が出ていたが紛失したことを明るみにするわけにもいかず、ぐずぐずしている間に資能も他界してしまった。ところが、弘安の役から50年以上も経た昨年の暮れのこと、大宰府宝物殿の整理をしていた際、粗末な木箱のなかに「役小角の小柄」とのみ記された書面とともに藁に包まれた小柄が発見された。伝説の小柄を発見したものの北条氏は既に滅んでおり返す義理もなくなった。従って、少弐家の家宝にしようと思い常に携えることにしていた、と頼尚は答えた。そこで頼尚は膳を前に押しやり居住まいを正すと、この戦で大宰府が焼け落ちてしまい宝物も焼失してしまった、この度の勝利に対してお礼のしようもないが、この小柄でよければ是非受け取ってほしいという懇願の形をとり平伏した。これを見た九州の諸将も頼尚に倣い競うように平伏する。尊氏は鷹揚に顎を引いて承諾し小柄を受け取った。

 九州一円をまとめあげた尊氏は勢いを得て京を目指した。弟・直義は山陽道を東に進み、尊氏は頼尚を伴い四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの援軍を得て海路東進した。一方、天皇から尊氏討伐の命を受けた新田義貞は播磨で足利方の赤松則村と戦っていたが、徒に兵を消耗させるばかりで埒があかず、一旦、兵庫に退いて態勢を立て直していた。そこへ義貞の援軍を命じられた楠木正成が加勢することになる。

 建武3年(1336年)5月25日、湊川の戦いが始まる。義貞は湊川を挟んで和田岬寄りに本陣を構え、正成は湊川の北側・会下山に陣を構えた。義貞軍1万、正成軍わずか千人弱。対する尊氏軍、直義軍の総勢は十万以上あろうか。尊氏が上陸しやすいように、直義軍の右翼に位置する少弐頼尚軍が義貞軍の側面を攻めたて、その裏で細川定禅軍は海路を東に進んで義貞軍を挟撃しようとしていた。その頃、直義軍の左翼に展開している斯波高経軍は会下山の背後に回って奇襲を目論んでいた。一方、正成軍は小勢であり、山に籠っていたところで落とされるのは時間の問題である。そこで正成は直義の首級目指して敵本陣に突撃を開始した。小勢とはいえ、正成軍の形相すさまじく、まさに死兵と化していた。あまりの狂気に満ちた攻めに本陣は崩されてしまい、危うく直義は討ち取られそうになった。押しては退き、退いては押しの繰り返しの突撃で直義軍は大混乱に陥った。その頃、和田岬で頼尚軍と尊氏軍は義貞軍を相手に苦戦していた。しかし、海上を東に進んでいた細川定禅軍が生田の森に上陸したとの報を受けた義貞は盟友正成に退却する旨の伝令を出し、即座に撤退を始めた。

 正成軍と直義軍の戦は、まさに修羅場となっていた。直義軍窮地の報を受けた尊氏は、義貞軍を退却するがままにまかせ、直義を救うべく北上した。湊川を渡って戦場を仰ぎ見ると直義軍は惨憺たる有様だった。正成軍の数度にわたる突撃に押しに押されて最初の位置から遥か後方に本陣を移していた。尊氏軍の到来を知って正成軍は会下山に退いていく。尊氏は直義に本陣を元の位置に戻すよう使者を立て、斯波軍には会下山の北側に陣を移させた。尊氏軍・頼尚軍は会下山の南側に布陣した。頼尚が尊氏に進言する。正成軍は決死の覚悟で戦っており、このままでは徒に兵を損じるばかりである、いっそのこと小柄を使って決着をつけてはいかがか、と。

 尊氏は懐から小柄を取り出した。小柄の発する妖しげな光を見つめながら、正成に想いを馳せる。小柄を手にした尊氏の目の前に、山肌に突き出した岩に腰掛け休憩している正成の姿があった。尊氏には正成の心が手に取るようにわかる。正成は大挙して東上してくる尊氏の軍勢を聞き及んだ際、義貞と手を切り尊氏と和睦することを後醍醐天皇に進言した。しかし、これは赦されず、ならば天皇に動座を願い、守るに難く攻めるに易い京に尊氏軍を引き入れて討ち取る策を進言するもこれまた赦されなかった。天皇に自分の忠義が通じぬことに対する正成の憤りと悲哀の念を強く感じる。天皇による建武の親政は既に行き詰まり、朝廷による政治はもはや時代遅れであった。この乱世を乗り切るには、武士を束ねて強力な武家政治を布く以外ないという想いも感じる。そして驚くべきことに、数多の武士を束ね乱世を収めることができる者は尊氏をおいて他に無い、と正成が確信していることであった。これらの想いを知った尊氏の目から涙が零れた。急ぎ下を向いて諸将に気取られぬよう気を配る。そこへ直義から使者が来て口上を述べた。なにゆえ四方を囲んで正成を追い込まぬのか、と。正成を討ち取るに忍びない尊氏は再三にわたる直義の言を頑として受け入れなかった。勝敗はもはや決した、逃げてくれ、と尊氏は強く願った。

 一方、正成は尊氏軍が三方のみを囲み、東側を空けていることに気づいていた。正成にも尊氏の心は届いていた。しかしながら、時代遅れは後醍醐天皇のみではなく己もまた然りである、新時代に自分のような武士は不要であると確信していた。

 ことここに至っては武士としての意地を見せるのみである。なおも正成は突撃を繰り返し残る手勢はわずか73名となった。そこで正成は空き家となっていた農家に入り、気力体力のある者を逃がし、自分とともに死ぬ覚悟のある者28名とともに自害し果てた。

 翌日、正成の死を知らされた尊氏は戦場近くの称名寺に田地五十町を寄進して供養を命じた。正成の首は兵庫の陣に掛けられ、その後、京都に持ち込まれて六条河原にさらされた。しかし、程なくして尊氏はその首を回収し、河内にいる正成の妻子の元に届けさせた。

 その後、直義や庶子・直冬との苛烈な争いがあったが、尊氏は一度も役小角の小柄を使うこと無く、室町幕府の基盤を築き、その生涯を終えた。

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