第10話 龍馬・慶喜
慶応2年(1866年)12月、徳川慶喜は第15代征夷大将軍に就任した。就任時、江戸城からある物が大坂城にいる慶喜のもとに届いた。一口の小柄と紙二片。一つ目の和紙には、役小角の小柄を将軍在職中は必ず身に付けておくこと、と書かれていた。二つ目の和紙には、国難に際してのみ使用を許可する、とある。こんな小柄で何ができるのか? 小柄の発する光は見えているが、慶喜には全くもって意味不明であった。
慶喜を取り巻く環境は幕府の立場からは最悪の状態だった。将軍就任以前、実質的に政務を行っていた慶喜は第2次長州征伐を行ったが連戦連敗の憂き目に遭い、しかも、夏には将軍・家茂が薨去してしまった。また、この時点では噂でしかなかったが、薩摩藩と長州藩が同盟を結んだとも囁かれていた。将軍就任時の懸念事項は、尊王攘夷を掲げる長州問題と諸外国から突き上げられている兵庫開港問題であった。明けて慶応3年、慶喜に立ちはだかるのは薩摩が主導して組織された列侯会議、いわゆる四候会議(島津久光、伊達宗城、山内容堂、松平春嶽)が幕府を牽制していた。慶喜も四候会議を無視するわけにもいかず、四候とともに国事を議論した。長州問題と兵庫開港問題のどちらを優先すべきかで慶喜と四候は意見が分かれ対立する。しかし、時間が経つにつれて四候の足並みも乱れ、そこを突いて慶喜は朝廷から兵庫開港の勅許を得てしまう。久光、春嶽らの目指す雄藩に依る新たな政治体制の確立は失敗に終わった。これを受けて、実質的に薩摩藩を動かしている西郷、大久保は長州藩とともに武力による倒幕路線に傾斜していった。一方、薩摩藩から距離を置き始めた土佐藩は幕府擁護に傾いていった。その頃、坂本龍馬に口説かれた後藤象二郎は「大政奉還」を山内容堂に進言し、幕府に提案する了承を得る。慶応3年10月3日、土佐藩は「大政奉還の建白書」を藩主・山内豊範を通して徳川慶喜に提出した。
10月5日、5年ぶりに帰郷を果たした坂本龍馬は2日ほど実家で過ごした後、土佐藩船・空蝉に乗って大坂に向かっていた。龍馬は為すこともなく割り当てられた部屋で昼寝をしていた。気がつくと傍らに人の気配がする。横目で見やると自分と大して年の変わらない青年が立っていた。
『お前が大政奉還を起草した坂本か?』
青年は口も動かさずに言葉を伝えてくる。
「いかにもそうだが、お前は誰だ? しかも、ひとではないな」
気味が悪いと思いながらも龍馬が問う。
『徳川慶喜の生き霊だよ』
そう言って慶喜がにやりと笑った。聞けば、徳川将軍家に伝わる小柄を眺めながら、大政奉還について考えあぐねていたところ、小柄の導きによって龍馬のいるこの船に来てしまったという。これは夢か? 龍馬はバカバカしいと思いつつも、これもまた一興と思い、しばらくつきあうことにした。
「それで? 俺になんの用だ?」
『去る10月3日、土佐藩が大政奉還の建白書を提出してきた 倒幕派を抑える方便として大政奉還は良い案だ 一旦、朝廷に政権を返上するのも仕方ない しかし、朝廷には今更、行政を担当する能力があるとも思えない 結局、幕府を頼らざるを得まい やはり、雄藩諸侯による会議のもとに新たな政権作りをすべきではないか?』
龍馬は鼻くそをほじくって聞き流していた。しかし、最後の一句を聞いた途端、やおら起き上がり、慶喜を睨みつけ、怒鳴った。
「よく言うわい、そもそも四候会議を潰したのはお前ではないか! 幕政改革を謳いながら、結局、旧態依然とした幕閣を抑えきれず頓挫したくせになにを言う! いまさら遅いわ!」
『……………』
「そんなに幕府が大事か? 日本という国と幕府を天秤にかけてもまだ幕府が重いか? 大政奉還は方便ではない、この前、土佐への土産に最新式の銃を1000丁、置いてきた。これがなにを意味するかわかるか? お前が大政奉還を受けなければ、薩長に続いて土佐も倒幕の狼煙を上げるということだ」
慶喜は呆気にとられている。親幕派の土佐藩まで敵に回すのは、ますます幕府の立場を悪くするだけである。
「もう徳川幕府の歴史的使命は終わった。260年という長きに亘る太平の世を導いた功績は認める。だが、これ以上、政権を執り続けるのは百害あって一利もない。いい加減に目を覚ませ」
意図してか知らずか龍馬の言葉が慶喜の急所を突いた。歴史的使命……慶喜は徳川御三家・水戸藩出身であり、光圀公に始まる一大事業「大日本史」の編纂に莫大な金と時間をかけて行ってきた藩である。大日本史の編纂は後に「水戸学」といわれる思想体系を生み出すに至る。皮肉なことに、この水戸学を基盤とする尊王攘夷思想が起爆剤となって幕末に弾けた。維新の先駆けとなった桜田門外の変の襲撃者の多くは水戸藩出身の浪士である。水戸学はそもそも日本古来からの伝統を追求する学問であったが、尊王攘夷以外にも儒学、朱子学、陽明学、国学、神道などを背景にした様々な思想を生み、さらに皮肉なことにそういった思想が吉田松陰を始め、数多の志士たちに影響を与え、明治維新の原動力になっていった。
『しかし、今の朝廷に行政はやはり無理だ 政権を返上しても国が潰れてしまう危険が拭えない』
「日本中からあまねく優秀な人材を求め、政府に登用するから問題ない。下級の者でもいくらでも有能な奴らはおるから無用な心配だ」
『言っている意味がわからないが?』
「阿呆め、武士も百姓も町人も商人もみな一緒くたの身分になるってことよ。アメリカやヨーロッパのようにな」
『そんなことができるのか? 本当に……』
「できる! というより、やらねば日本が潰れるわい! ここまで言ってまだわからぬのなら、お前の首を討ち取るより他はないわい! 時勢に逆らうのも大概にせい! 時勢に逆らえば無理が出る、政治で無理が嵩めば犠牲が出る、犠牲とは数多のひとが死ぬってことよ! 幕府が頑に大政奉還を拒否すれば、国は内戦に陥り、イギリスやフランスがそれにつけ込んで幕府と倒幕派の双方に多大な武器を供与し、莫大な借金をこしらえさせ、結局のところ、どちらが勝とうと国が疲弊し列強の植民地に成り下がる。それがお前の描くこの国の姿かっ!」
この言葉は、まだ幕府主導の政治体制にすがる慶喜の心を木っ端微塵に打ち砕いた。一方、龍馬は涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっている。
『大政奉還の建白書を受けようと思う』
「ふん、所詮、これは夢。正夢になることを願うのみだ」
『これは夢ではない。その証拠に徳川家に伝わる役小角の小柄をお前に譲るつもりだ』
「そうかい、それはありがたい、是非、そうしてくれ」
鼻で笑いながら龍馬は鼻くそをほじくり、読みかけの万国公法を読み始めた。
『近日中に』
そう言い置いて、慶喜は姿を消した。
それから5日後の10月10日、龍馬はかねてから面識のある幕臣・永井玄蕃頭尚志に呼び出された。永井は、上様からの言付けでお前にこれを渡すように言われた、と言って小柄を龍馬に握らせた。小柄の発する光にしばらく見とれていたが、やがて龍馬は無造作に小柄を懐に突っ込むと、何事もなかったかのように茶をすすって一息入れると居住まいを正し、くれぐれも慶喜公が大政奉還を受け入れるように説得してくれ、と念を押して、その場を辞した。
3日後の10月13日、慶喜は龍馬との約束通り、二条城において大政奉還の建白書を受けることを表明し、翌14日に明治天皇に大政奉還上表を上奏した。そして明くる15日、大政奉還を認める勅許が下された。
1ヶ月後の11月16日早朝、永井は2つの書類を同時に受け取った。ひとつは慶喜からのもので、坂本龍馬暗殺を禁ずる旨を新撰組や見廻組に通達せよ、という内容だった。いまひとつは見廻組からのもので、倒幕派の急先鋒・坂本龍馬を討ち取った、という内容だった。
永井は2つの書類を前にうな垂れた。吸い込んで吐く息が静かに揺れる。もはや永井にできることはなにもなく、ただ2つの書類を引き裂き火に焼べて燃やすことだけだった。
龍馬の死後、役小角の小柄の行方は杳として知れなくなった。生前、龍馬が土佐の知人に預けたという噂もあったが定かでは無い。或いは、明治2年に謹慎の解けた慶喜が小柄の行方を突き止め、然るべき人物に託したという話もある。いずれにせよ小角の云う平安の世は未だ達成されていない。近代化以降、日本を取り巻く世界情勢は複雑になり、時代の荒波のなかで常に日本は揺れ続けている。150年以上も沈黙を続ける小角の小柄はいずれまた時代の要請に応じてその姿を現すのだろう。
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます