波に宿る石
芳邑
第1話 鎌足
青年が腰を屈め少年と話をしている。青年は橙色の頭巾に橙色の上着、それに黒地の袴を身につけ、口ひげと長いあご髭を生やしている。少年は左右に分けた髪を朱色の紐で結わえ、光沢のある淡い黄色の呉服とも和服ともつかぬ衣装をまとっている。青年の名は藤原鎌足。幼少ながらも呪術に秀でた童がいるという噂を聞きつけて鎌足は会いにきたのである。少年は役小角。役の一族は天孫降臨以前から日本にいた国津神を祖先とする地祇系氏族の流れを汲む呪術に明るい家柄であった。
小角が黒い小石を両手で持ち、額に当ててしばし念じる。鎌足が
大化元年(645年)6月。新羅、百済、高句麗から使者が来日し、朝廷では三韓朝貢の儀が始まろうとしていた。この機に中大兄皇子と藤原鎌足は、聖徳太子の死後、朝廷をないがしろにして専横を極めていた蘇我一族の嫡子・入鹿の暗殺を目論んでいた。入鹿は用心深く猜疑心の強い性格であったため、国事に関わる儀式でなければ人前に姿を見せなかった。
皇極天皇が出御し、大極殿で儀式が始まった。入鹿が不遜な態度で侍している。国事というのに胸をはだけ、扇子で扇いでいた。そのすぐ近くに2人の刺客が身を潜めているとも知らずに。蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み始める。これが暗殺の合図である。まず、鎌足が黒い小石を取り出し振り翳した。しばらく翳していると使者たちは眠ってしまい、入鹿は金縛り状態に陥った。手筈通りである。しかし、刺客は怖じ気づいたのか一向に現れない。業を煮やした中大兄皇子が長槍を持って躍り出て入鹿に斬りかかった。次いで皇子の勇気に鼓舞された刺客も加勢した。即死を免れた入鹿が天皇に歩み寄り直訴するも天皇は殿中に身を隠してしまう。入鹿暗殺を了とされ、2人の刺客によって入鹿は斬殺された。入鹿の遺体は庭に放り出され、折しも降り出した雨に打たれるままにされた。
クーデターに成功した鎌足は朝廷の軍事権を掌握したが、呪術による更なる後押しを求めようと役小角のもとへ再び向かった。下人に小角を呼びに出したが、なかなか小角は現れない。ようやく現れた小角は目を真っ赤にして泣き腫らしていた。
「お前のおかげでこの国は守られたのに、どうして泣いておるのだ?」
鎌足が聞くと、
「人を殺めるためにあの小石をお渡ししたのではありません」
小角はそう言って、またしくしくと泣き始めた。鎌足はなんとか小角を慰めてやりたいが、なんと報えたらいいのか解らない。小角の能力に感服した鎌足は更なる願いを胸の内に秘めていたが、傷心した小角を宥めなければその願いは叶わぬだろう。
「お前はまだ子供だから人の血が流れることに納得できないのだろう。人というものは未熟なのだ。未熟ゆえに人は時折、道を過ってしまう。過ちは正さなければならない。その過程で残念ながら血が流れてしまうこともある。過ちを犯す方も正す方も未熟ゆえに犠牲が出てしまうのだ。しかし犠牲を恐れて何もしなければ更なる犠牲が出てしまう。私の願いは、この世の人々が平安に暮らしていけることだ。そのためにはお前の力が必要なのだ。わかるな?」
「平安を願う気持ちは私も同じです。しかし私の能力が犠牲を生み出すことには耐えられません」
「恐れてはいけない。犠牲は無いに越したことはないが、お前の能力で犠牲を最小限に抑えるのだ。そして、この世の人々が平安に暮らしていけるよう努力し続けることでいつか犠牲のない世が来ることを私は信じている。それが千年先なのか万年先なのかは解らない。しかし、必ずそういう世が来るはずだ」
「信じていいのですね?」
「あぁ、もちろんだ」
「この世の平安のためにすぐにでも力をお貸ししたいのですが、呪術師として私はまだまだ未熟で修行している身、修行を終えたのち、私の魂と能力を平安のために使わせて頂きましょう」
その言葉を聞いて鎌足は安堵し、小角の修行が終わるまで待つことにした。
十年の歳月が過ぎた。この間に政敵が相次いで薨去・失脚するなど、鎌足はいまや朝廷において飛ぶ鳥を落とす勢いである。鎌足の権力は帝に次ぐほどまでになり、朝廷に出仕する者はみな鎌足を畏れていた。
そんな折り、鎌足に役小角から書状が届いた。内容は、一定の修行を終えたので訪ねたい、との旨であった。鎌足はすぐさま訪ねてくるようにと返事を出した。
再会した鎌足と小角は、しばし他愛も無い昔話に打ち興じた。鎌足の目の前にいる青年・小角は、幼少の頃の面影は既になく、筋骨隆々で、よく日に焼け、笑うと黒い顔に白い歯だけが浮かんでいるように見える。
「お前の活躍は音に聞こえているぞ。各地で霊験を現し多くのひとを救っているようだな」
「いえいえ、噂ほどではありませんよ。ところで噂といえば、大紫冠に昇格されたそうですね、おめでとうございます」
「いやいや、位ばかり上がって帝のための働きはいまだ十分ではないのだ」
「いえいえ、そのようなことはないでしょう」
そう言いながら小角は鎌足の目をじっと見つめてきた。切れ長の涼やかな視線は不思議な波動を湛えており、なんだか心を見透かされているようでくすぐったい感じがする。
小角は一礼すると、恭しく懐から小柄を取り出した。
「今日お訪ねしましたのは、かつての約定を果たしに参った次第です」
「おぉ、そうか、忘れていなかったのだな」
鎌足は大仰に言いながら差し出された小柄を受け取った。手にした小柄は妖しげな光を放っており、鎌足は満足そうに何度も頷いた。
「この小柄には私が修行で会得した木火土金水の五行に
「うむ、わかっている」
「そのお言葉を聞いて安堵致しました」
「これから、お前はどうするのだ? 私とともに帝のために働いてみないか?」
「小柄があれば十分でしょう。私はこれから日ノ本を巡る旅に出ようと思います。一定の修行を終えたとはいえ、まだまだ未熟の身ゆえ」
「そうか、それは残念だ……」
「政を為すのに大事な御身、くれぐれもご自愛ください。では、これにて」
真夏の昼下がり、門から真っすぐに伸びる白い道を小角がひたひたと歩いて行く。その後ろ姿を見送りながら鎌足は想いを馳せる。平安の世に辿り着くまでこれから先、幾多の時の流れのなかで、幾多の争いが起こり、幾多の血が流れるのだろうか。鎌足が望んだこととはいえ、敢えてそこに一石投じる小角の心中は如何なるものであろう。投じた結果、生じる波紋がどのような模様を描いていくのか今の小角には見えているはずだ。それは祈りなのか願いなのか確信なのか……小角にしか解らない。妖しげな光を放つ小柄を握りしめ、鎌足はその背が消えて見えなくなるまで微動だにせず見送った。
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