夜を歩く

夏野けい/笹原千波

19:15

「今夜あえますか」

 彼女からの電話は、ごく短い囁きで始まった。小さいけれど艶のある声だ。見れば空はもう暗くなりつつある。カーテンを引いて電気を点け、腕時計を確認する。

「もう七時過ぎているけど、いいの?」

「平気」

「親には言った? また怒られるよ」

「言い訳も口裏合わせも完璧」

「本当に? なんて言ったのさ」

「それは内緒。あとでなら教えてあげる」

「わかった。駅まで迎えに行くから、何時に着くかだけ教えて」

「まだ家だから、三十分くらいかかるかな」

「了解。気を付けてな」


 通話が切れた。掛けっぱなしの洋服の中から、部屋着よりはましなTシャツとジーンズを身につける。外に出れば昼間の暑さがだいぶやわらいでいる。西の空が鮮やかな鴇色をしていた。アパートの廊下はほとんど吹きさらしで、夕立の跡が残る。日暮れ前のセピアがかった光の中では、古びた隣家の壁にさえノスタルジックな魅力を感じる。

 住宅街をすり抜けて駅前通りへ向かう。こぢんまりした商店街がゆるくカーブしながら駅へと続いている。安い電飾が明滅する下を、買い物や仕事から帰る人々が過ぎていく。うつむきがちなその人たちとすれ違いながら駅舎にたどりつく。昼間よりましになったとはいえ、背中に汗がにじんでくる。

 彼女は予告通り、電話から三十分ほどで現れた。紺地に椿模様の浴衣を着ている。これは予想外だ。からん、と下駄を鳴らして隣に立った彼女に問う。

「どこか行ってたの、その恰好」

「ううん、買ったから着てみただけ。似合うかな?」

「うん、いいね」

「もっとちゃんと褒めて」

「似合うよ、すごく」


 ぱっと目を引く大きな白と赤の椿の模様は、すらりと背の高い彼女によく似合っていた。かんざしで上げた髪もあいまって、いつもより大人びて見える。やけに堂々として板についた足さばきや所作が、別人めいた印象を作っていた。洋服の時より自信ありげじゃないか。

「親にはなんて言い訳したの?」

「今日は花火大会があるんだ。それに友達と行くって。遅くなるから泊めてもらうかも、とも言ってある」

「用意周到なことだね。ばれたら泣かれるんじゃないの」

「泣かれようが喚かれようが、私は親の影響を振り切りたいの。愛ゆえだから、守ってくれるからって、縛られたままでいたくないの」

 遅れてきた反抗期なのか、彼女は時折そういう反発を見せる。といって、ひどく嫌っている風でもなくて返す言葉に困る。

「行こうか」

 手を差し出すとすぐさま冷たい指が絡まった。薄い肌と肉を通して、華奢な関節が触れる。

「ね、少しお散歩しない?」

 肩を寄せて、うつむいたまま彼女が言う。おくれ毛の落ちたうなじが街灯に白く浮かび上がる。ほのかに甘やかな香りが漂う。

 どちらからともなく道をそれて、路地を奥へと入っていく。ゆっくりと歩けば、彼女の下駄が立てる軽やかな音だけが明るい。たわいない話をぽつりぽつりと繰り返しながら、あてもなく湿った夜気の中を行く。

「くちなしの匂いがする」

 すん、と鼻を上げて彼女が呟いた。香気をたどれば、ひと気のない公園で真っ白い花が開いていた。青味の強いライトに照らされて、ふわりと浮き立っているようだ。

 唐突に彼女が手を放した。ぱたぱたと駆けていく先には、ぶらんこが佇んでいた。


「そういうの好きだな」

「だめ?」

「いや。下駄は脱いだ方が安全かもしれないけど」

「それもそうだね。ありがと」

 彼女は綺麗な歯をちらりと見せた。ぶらんこの下にきちんと揃えて下駄を置き、存外身軽に座板に飛び乗る。きいきいと軋みながら揺れ始めると、彼女の表情が静かになる。どこか遠くを眺めるときの目をしている。子どもの遊びに似つかわしくない真剣さとも取れた。

 少し離れて正面に立ってみた。一番下に来るとき、一瞬だけ目が合う。視線が交わるたびにふわっとした笑みを向けられてくすぐったい気持ちになる。彼女の笑顔はいつも少しだけ翳りがあって、灰色を帯びた淡いブルーを想起させられる。


 漕ぐのをやめれば、ぶらんこはゆっくりと振れ幅を減らしていく。やがて完全に動きを止めると、彼女の瞳がまっすぐこちらを向いた。

「急だったのに、会ってくれてありがとう」

「いきなりどうした? 帰るなら送るけど」

「泊まるところまでアリバイ作っといたの、覚えてない? 寂しくて会いたくなったのに、こんなすぐ埋まるわけないよ」

 下駄をつっかけて迫られた。正面から抱きつかれて鼓動が速くなる。彼女とくちなしと夜の匂いが混ざり合い、甘さに酔いそうになる。同じ数の骨で出来ているとは思えない頼りない胴が腕に収まり、細くひんやりとした指先を背中に感じた。

「恋ってなんのためにするんだろうね。私、前は寂しさを埋めるためだと思ってたんだけど、実際に人を好きになったら違うところにもっと大きな穴があいたみたいで、やっぱり寂しいままなんだ」

「こうしてても?」

 腕に力をこめる。お互いの心音が伝わりそうなくらい。二人の間でわずかな空気が熱をもつ。

「ううん、今は大丈夫。でもほら、ずっと甘えていられるわけじゃないから」

「いつでも甘えていいのに」

「今日明日の話じゃないよ、ずっと先の話。永遠にこうしていられるとは思ってない。だけど」


 沈黙が降りる。彼女が息を継いだ。

「少なくとも二十一歳の私にとってあなたは特別、必要なんだと思う。できるなら、この先もそうならいいなって思う」

 ゆっくりと彼女の体温が離れる。はにかんだようにうつむいて、耳にかかった髪の毛をかき上げた。耳朶から首筋にかけての線があらわになる。浴衣に隠されたその続きを、知りうる限りの彼女の身体を脳裏に描く。

 同じ種類の生き物であることを疑うほど繊細な造形の骨格、しなやかな筋肉、薄くまとった脂肪、それからきめ細やかな肌。記憶に焼きついた映像は、触れられそうなほどリアルに想像できた。

 顔を上げた現実の彼女と目が合う。真綿のようにふわりと微笑んで、彼女が再度言葉を紡ぐ。

「だから今日は帰らない」

「それって、ちょっとは期待してもいいやつ?」

 とろけるように柔らかい彼女の感触を思い出してしまう。考えないようにすればするほど頭を離れない。

 彼女はまばたき三つ分のあいだきょとんとしていたが、やっと理解できたというようにくすっと笑う。たぶん、呆れも込みで。

「ばか」

 そのたった二音に、なぜかとても満たされた気分になった。

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