鑑賞9 ただ一つの公園で(吉井和哉「JAM」)
たとえば、転勤とか被災地からの避難とかいった外力によって選ばれた土地で一軒家を立てた国際結婚の両親の間にあなたが孕まれ、三月中には聞けるだろうと思っていた産声は、四月を迎えてようやくあがった――そんな経緯をもった者であったらどうだろう。
暗いへやでひとり
テレビはつけたまま
ぼくは震えている
なにかはじめようと
THE YELLOW MONKEYのもっとも有名な一曲だろう「JAM」の冒頭は、暗示めいた場面からはじまる。「暗いへや」「ひとり」「テレビ」そしてまだ見定められない野心に「震えている」「ぼく」。
そとは冷たい風
街は矛盾の雨
きみはねむりのなか
なんの夢をみてる
「冷たい風」「矛盾の雨」。テレビのチャンネルをくるくる回せば、笑いや健康やスポーツや事件や事故が同時的に提供されている。その画面に取り上げられないいくつもの生が、生活のなかを流れ、流れていく生のひとつとして私たちもまた生きている。その外側に、直接には関わりの見えない生の流れがある。私たちはひとつの番組を選択して、あるいは与えられて生活している。悲しみも喜びも愛も妬みも刹那刹那に明滅をくり返している。テレビの画面がひとつの絵を映し出すように、といえるかもしれない。でも、どんな絵を映し出しているのだろう。
お互いの番組には干渉しないそれぞれの生の渦にめまいしながらおもう、「ねむりのなか」で「きみ」がみている誰にも知られない夢を、愛おしくも儚くも感じて「ぼくは震えている」。また夢とは現実のなかで生きるそれぞれの自己の比喩として、越えられない私秘、「ぼく」の知り得ない「きみ」の視界を意味してもいる。そしてその視界の内外は分かたれずあるという、視界の危うさが「ぼく」を騒がせる。
時は裏切りも悲しみも
すべてをぼくにくれる
ねむれずに叫ぶように
からだは熱くなるばかり
そうした夢見る個々のひとりになれず、夢が織り成す現実の世界のすべてが、夜更けに開いた「ぼく」の目に耳に、一挙に与えられている。
GOOD NIGHT 数えきれぬ
GOOD NIGHT 夜を越えて
GOOD NIGHT ぼくらは強く
GOOD NIGHT 美しく
この不条理のただなかに住む「ぼくら」は、「数えきれぬ夜」を生きて、いつか来ると信じた朝のほうに頑なに視線を投げつづける。
儚さにつつまれて
せつなさに酔いしれて
影もかたちもないぼくは
しかし、世界のまえで無いに等しい「ぼく」からは、「ぼくら」の朝ははるかに遠く、そして現実の夜に呑み込まれ、翻弄される。こうして誰も知らない時間にも、ある者が死に、ある者が殺し、ある者が生まれ……そうしたそれぞれの勢力が、もう分かる糸口も掴めないほど複雑に絡んだりほどけたり、ほどけた空白でまた別な糸が絡み付いたりしている。まざまざと変わるまだら模様の世界に「ぼく」ができることはなんだろう。
素敵なものがほしい
けどあんまり売ってないから
すきな歌をうたう
世界に対して「ぼく」はあまりに小さく無力だ。
キラキラとかがやく
大地できみと抱き合いたい
「大地」が「キラキラとかがやく」のは何によってだろう。それぞれが夢を見ている正しく分かり合えない距離の「きみ」に、それでも気持ちは向かっていく。「きみ」と「ぼく」が共にあって、和合するときを実現したい。もしかすると「きみ」の解釈は、特定のひとりであるほかに、世界そのものやそこに存在するすべての存在であるようにも思われる。「きみと抱き合」うことは、悲しみのない世界と抱き合うことでもあろうか。
この世界にまっ赤なジャムで塗って
食べようとするやつがいても
ジャムは世界のあちこちにある不条理をさし、「食べようとするやつ」は陰謀論的な存在ではなく、そうした不条理の原理、不条理をおこしている力といった抽象的なものだろう。神といってもいいかもしれない。
あやまちを犯す男の子
なみだ化粧の女の子
たとえ世界が終ろうとも
ふたりの愛はかわらずに
それぞれの関係は不条理によって繋がったり離れたり、生んだり切り捨てられたりする。そうした行為が表層的で偶有的な所産なら、邂逅、別離、怨嗟、歓楽もまた偶有的にほかならず、そこに「ふたり」の関係の本質はない。「ぼく」は「きみ」と愛をささげあい、ひいては「世界」をも愛せるのではないか。不条理がさせた「あやまち」も「なみだ化粧」も越えて、「ぼく」も「きみ」も「世界」へと“結婚”できるのではないか。何者にも阻むことのできない絶対の愛によって。
GOOD NIGHT 数えきれぬ
GOOD NIGHT 罪を越えて
GOOD NIGHT ぼくらは強く
GOOD NIGHT 美しく
「夜」が「ぼくら」に生みだす「罪を越えて」、そうした不条理を超越した愛によって、世界は「キラキラとかがや」きだすのではないか。
あの偉い発明家も
凶悪な犯罪者も
みんな昔こどもだってね
私には、ここがこの詩の代表的フレーズとして響く。生きた人々はその数だけの人生があり、それはどれも偶有的なものに圧倒された人生である。ある者は成功者となり、ある者は没落する。人々は成功者を称賛し、同郷者などは自分のことのように言ってまわるだろうし、また犯罪者を自分たち“人間”の枠の外に排斥して罵り、家族は初めからいなかったように彼について語る口を二度と開かないだろう。そのふたりの間に世界中の人が属してグラデーションを構成している。その一列の帯を成す「ぼくら」はみな、将来の功績や罪とは無縁の、一つの公園に遊ぶこどもたちだった。
外国で飛行機が落ちました
ニュースキャスターは嬉しそうに
「乗客に日本人はいませんでした――」
不条理のただなかに産み落とされ、たまたまそうであっただけの属性や乗合せで、全人を貫いて存在するはずの愛を見失ってしまった人たちを、あの公園で一緒に遊んだときの、こどもの姿で「ぼく」は彼らを見ていた。
ぼくはなにを思えばいいんだろう
ぼくはなんて言えばいいんだろう
こんな夜は会いたくて
会いたくて
会いたくて
「暗いへや」の「つけたまま」の「テレビ」を足早に去来していく、さまざまな今に、それぞれのここに、指を伸ばして触れることができない。そのゆえに、感情の炎はいやまして燃える。不条理に「ぼく」が焼かれている。
きみに会いたくて
きみに会いたくて
「冷たい風」が吹き「矛盾の雨」が篠突く「夜」に、「きみはねむりのなか」で「ぼく」の知らない「どんな夢を見ている」。せめてその夢が、「きみ」に今夜が「GOOD NIGHT」であってほしい。そして、いつか「きみと抱き合」える「キラキラとかがやく大地」へ、朝へと、世界ごと連れて行けたらと――
またあしたを待ってる
……
(もし、転勤とか被災地からの避難とかいった外力によって選ばれた土地で一軒家を立てた国際結婚の両親の間にあなたが孕まれ、三月中には聞けるだろうと思っていた産声は、四月を迎えてようやくあがった――そんな経緯をもった者であったらどうだろう。どこに生まれたかも、誰に出会ったかも、学校からの帰り道の景色も意味も、みんな違って、私は同じ私でありながら、ぜんぜん別の人生を歩んで、ひょっとしたら偉い発明家になったかもしれないし、凶悪な犯罪者になったかもしれない。ひょっとしたら、この人生では出会うことのなかった、あなたと結婚したのかもしれない)
(最後に、この解釈はこの歌のPVの影響も色濃いことを書いておきます。とてもいい映像作品なので、ぜひ見てほしい)
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