鑑賞2 智恵子の不在(高村光太郎「レモン哀歌」)

※引用しました詩行の字は必ずしも原文と一致しません(例:× 待っていた ○ 待つてゐた)



そんなにもあなたはレモンを待っていた



 「レモンを待っていた」のは誰か。詩の第一行目に「レモンを待っていた」のは「あなた」とある。すると、もちろん「あなた」が「待っていた」ことになる。当面は。



悲しく白く明るい死の床で



 靄のもつまぶしさのようなものを想像させる。靄の中では誰もが影になる。影であるより認識される方法がなくなる。「あなた」はおぼろげな影となって死へ進行する寝台車に揺られている? とすれば、「あなた」だけが揺られている。「あなた」だけが乗っている。こちらは乗車できないまま、しかし「あなた」のからだだけ、ここにある。悲しい靄。白々と明るくも、その光は散乱して、物の輪郭はむしろ不鮮明を極めるのだ。「死の床」の前では白さも明るさも、いつこと切れるとも知れない、ただもう長くないことだけはわかっている残りの生を、思い起こさせないではいないからか。

 それにしてもこの行は他の行よりずっと凡庸に見えるのは気のせいか。



わたしの手からとった一つのレモンを



 ここで「わたし」が登場する。正確には「わたしの手」が。この「手」が誰のものかを示すために「わたし」の語が登場する。たしかに登場人物として扱われない語り手によって物語が進行する物語には「あなた」という語が使用される場合は少ないと思われる。この詩の主体はとうぜんこの「手」をもつ「わたし」ということになる。「わたし」にとって自らの語る言葉が「わたし」の語りであることは自明であって、語として書かれるだけの要件を満たさないからそれまでの行には書き込まれていない。

 また、同じように「手からとった」の「とった」には次の行に進むまで誰がない。といって次の行も必ずしもこの「とった」ことをしたのが誰と言っているのでもないが。

 行を追って読んだ場合、はじめに言葉選びの妙を感じるのはこの行だ。つまるところ、この行が描写しているのは手もとであって、また「わたし(の手)」にかかるレモンの重量であって、とられることで「(わたしの)手」から、レモンのその重みが消えるということの描写のように思われる。これを強調するなら、ここに「あなた」の語を挟むのは野暮だ。手(差し出す腕も含め)にかかる力学、感覚を知ってもらうために、ここで「わたし」は差し込まれているのでは。ではこの感覚を伝えたかったのは何のためにか。「わたしの手から」「一つのレモンを」「とっ」ていくソレのさきには「きれいな歯」。



あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ



 中学の頃、国語の先生はこの「がりり」と次の行に見える「トパアズ色の香気」に注目してこの詩に感心していた。たしかに、「がり」より、増して「がりがり」なんかよりずっと真にせまる擬音「がりり」だと思わないでもないが、反面、ほかを斥けてまで注目するところでもないと思うし、こうした技法は賢治のほうが多くしているのではないか。むしろそうして真にせまる擬音や香気に対して「トパアズ色」という装飾がつく、その意図(作者のというより、文章に内在する)を汲み取りたい。つまりその国語の先生が「がりり」や「トパアズ色の香気」に感心した、その感心するに至った文脈を。

 ここでも「あなた」という2人称は「きれいな歯」のためにある。少し整理してみると、この「からとった一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」は、靄のかかったように影同士でしかなくなった2人が、あるいは俗世間を失い、恍惚の聖域に精神が喰われた「あなた」を、俗界の「わたし」が恋い、「一つのレモンを」差し出すという行為をし、「あなた」が「とっ」て「きれいな歯」で「噛ん」で応答した、ということになる。



トパアズ色の香気が立つ



 だから音は「がりり」と迫り、香気は「トパアズ色」に立ちもした。「わたし」の行為に、「あなた」が応答する。これは望まれていながら、しかしほとんど絶望的に無理な希望と「わたし」も思っていた。

 ――それが叶った。ここから詩は急速に上昇しはじめる。



その数滴の天のものなるレモンの汁は



 そうして「あなた」の噛んだレモンから酸味の強い汁が垂れる。たぶん、この強力に酸っぱい汁だったゆえに、このように形容されえたのではないか。



ぱっとあなたの意識を正常にした



 また中学の国語の先生の見方をすると、この行はウソ(実際とは異なる、錯覚)だという。智恵子の意識はちっとも正常になってやしないという。この説には頷けるところがある。「あなた」が齧ったのはレモンであり、強い酸味をもった汁だった。その刺激に驚いた「あなた」の反応が、「わたし」の目に「あなた」が正常を取り戻したように映ったのではないか。だから、レモンの汁であればこそ「天のものなる」と形容されたのでは。



あなたのあおく澄んだ目がかすかに笑う



 「あおく澄んだ」とは、気を取り戻したように真っ直ぐな視線が感じられた、というくらいの意味だと思う。それまで2人はお互いに霧中の影だった。「わたし」は「あなた」の目に映ろうとして叶わず、彼女の視線のありかを探し続けていた。それが「一つのレモン」の作用で、車両を失った鉄路にふたたび車輪が噛みこむように、「あなた」の視線は、しっかり「わたし」の目をとらえていた。ばかりか、その目は再会を喜ぶように「かすかに笑」ってさえいる。



わたしの手を握るあなたの力の健康さよ



 さらには、さっきレモンを差し出した手を「あなた」は握り返してくる。

 この行も言葉の選択に生理的なセンスを感じる。ここでは「あなた」の「手」の語が省略され、「力」と表現される。さきの場合と同じように、これも視覚的に「あなた」の握り返しを認識しているのではなく、「わたしの手」にかかる圧迫感や温度から「あなた」が握り返してきたと認識していることを表現している。このとき「わたしの手を握るあなたの」手を「わたし」は見ているのではないことが表現のうちに示される。「わたし」は「手」にかかる「力」を感じつつ、なお「かすかに笑う」「あなたのあおく澄んだ目」を見ていた。

 継時的に「あなた」の「正常」を感じさせる仕草がされたのだと、この2行から感じられる。「あなた」の目は「あおく澄」み明確に「わたし」を捉え、つないだ「あなた」の手は「わたし」を引き留めるように、あるいはあなたを見ていると伝えるように「わたしの手」を握り返してくる。そしてこの2行からは他の行にはあまり感じられない、喜びの満ち溢れが感じられる。



あなたののどに嵐はあるが



 「あなたの意識」が「正常」を取り戻したといっても、それは時間を巻き戻したのではなく、病はたしかに「あなた」の身になおおりている。「嵐」とは声が嗄れていることか、言葉に混乱があることかのどちらかだと思うが、いずれにしても病は2人にとって壁であった。互いに意思を通じ合わせさせない状況をつくる壁だった。が、「トパアズ色の香気」がそれを穿って、2人を再会させた。詩行の上昇運動は臨界点に向けて減速しはじめる。それは「一つのレモン」がつくりだしたこの状況は2人にはなんであったかを、理解するための猶予であり、この状況を全うする時間となる。



こういう命の瀬戸際に



 「こういう」とは智恵子のここにいたる生の遍歴=運命だとか宿命といったものを意味するのだろうか。詩集『智恵子抄』を読み進めた人なら共有される「こういう」なのかもしれない。



智恵子はもとの智恵子となり



 「わたし」が祈っていた「あなた」との再会。「わたし」を「わたし」として、その目に捉えてくれる「あなた」の存在。「わたし」が差し出して「あなた」が応え、「あなた」の応えるのに「わたし」も応えるという関係。この詩のなかで「あなた」は、初めて「智恵子」と呼ばれる。



生涯の愛を一瞬に傾けた



 レモンをとり、齧り、「わたし」を見返して、その手を確認するように握る。狂気の暗闇に呑まれた「あなた」に望むこれが「わたし」の受け取った愛の形だった。



それからひと時



 ここで上昇運動は停滞する。



昔山巓でしたような深呼吸を一つして



 生活圏を離れた、あるいは都会のようには汚れていない「山巓」の空気を吸い込んだ「昔」のように、狂気の檻から逃れて「正常」の時間を味わうように呼吸した。「一つ」。それは、



あなたの機関はそれなり止まった



 生きている実感を呼吸したのでもあったか。



写真の前に挿した桜の花影に



 終わりの2行は「あなた」の死後、いくらか経った時制、この詩のなかで現在に位置する地点である。写真は手前までの展開から「あなた」の遺影だと察せられる。ここも微妙に好い表現だ。「あなた」の「写真」から視点を出発し、焦点を手前にシフトする道具として「桜」があり、「花影」によって目を下方へしずかにひく。「桜」は時節を教える道具でもあるだろうけど、俺にはこの詩が時節を教える必要があるかどうか判らない。



涼しく光るレモンを今日も置こう



 「花影に」あるのは「ぱっとあなたの意識を正常にした」「レモン」である。




   結び

 

 本文のほうにも登場したが、中学の国語教師の「レモン哀歌」の読み方は、俺にとっての「レモン哀歌」の印象を方向づけるファクターの一つになっている。「智恵子はちっとも正常になんかなっていない」という言葉がそれだ。また、別のファクターに大竹しのぶの一人芝居『売り言葉』がある。そして、「他者なしに自己はない」という個人的な命題。

 「レモン哀歌」は愛の詩ではない。少なくとも両方向への愛の詩ではない。愛をもらった、そのように光太郎には印象された、そういう詩だ。

 光太郎は「何を措いても彫刻家である」と言ったそうだ(高村光太郎「自分と詩との関係」に書いてあるらしい)。たしかに光太郎は詩人としても彫刻家だと思わせるところがあって、状況を打つ鑿の音が、詩行から聞こえてくるようだ。例をとるなら「わたしの手からとった一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」だとか、「わたしの手を握るあなたの力の健康さよ」といった行が分かり易い。状況を語るとき人は言葉を使うが、一つの状況を言う言葉は一通りではない。表現という語があるのもそのためだ。ここで、例にとる詩行に駄文性を注入してみる。


  あなたの手はわたしが差し出したレモンを受け取ると勢いよく齧った


  あなたの手が確かにわたしの手を握り返しているという喜び


 意味は通るが「あなたの手」が初めに現れたかと思うが早いか、「わたしが差し出したレモンを受け取る」とくる。これだと「受け取る」まで「あなたの手」はポーズをとれないまま宙ぶらりんになるし、あいだに「わたしの手が差し出」され「あなた」に向かったかと思うや、ようやく「あなたの手」が動きをみせて「受け取」ったりして、視線も物の動きもあっちに行きこっちに行きして、目を据えるべき一点不在の、ささくれ立った文になる。加えて語り尽くそうとするあまり冗長になってしまった。対して本文に戻ってみると、「わたしの手からとった一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」。「わたしの手」が現れると、そこから何かがとられる。何がかというと「一つのレモン」がである。しかも手指に感じる質感と、重量を元に書かれていて、たぶん「わたし」はずっと智恵子を見ている。そしてこのレモンは「わたしの手からとった」ときの運動を受け継いで移動を続けている。その先に「あなたのきれいな歯」が示され、これがレモンを挟み込み「がりり」と砕く。視線の運びに流れがあって、聞き取りやすい。

 2つ目のほうの「わたし」はあんまり「手」ばっかり見すぎている。本文がここで意味しようとしているのは、書き換えのなかにある「喜び」だろうが、意味しようとしているからといって、書けば伝わるというものでもない。いや、たしかに伝わる。伝わるがそれは文に書かれた「わたし」が喜んでいるんだな、というのが伝わるのであって、「喜び」自体を読者に喚起する働きをもたない。この際、「喜び」の語は省かれていい。どこからこの喜びがきたか、その道筋を読者に忠実に辿らせて、誘発させたほうがこの場合の意図にあっている。伝えたいのは“この喜び”であって“喜び一般”ではない。「わたしの手を握るあなたの力の健康さよ」と読み、読む者が喜びそのものに出会うことが、この詩の意図の一つである。光太郎ないし詩は、さて何によって何を彫刻したのか(――何によって誰を彫刻したのか)、そしていつ――

 こうして見ていったのちに、詩「レモン哀歌」はその全文から何を指示するか。

 「山麓の二人」もまたそうだが、「レモン哀歌」には「わた(く)し」がいて、その「わた(く)し」に具わる器官から言葉が結ばれる(「山麓の二人」から引用すれば「涙にぬれた手に山風が冷たくふれる」といったふうに)。これによって読者は状況を理解するというよりは、「わた(く)し」の情動を喚起する。詩によって見ることになる世界は、この場合、詩の主体である「わた(く)し」によって見られた世界となる。つまり「あなた」に見られた世界は描写されない。これが国語教師が「ウソっぱち」と言い得た原因といえそうだ。そう、「レモン哀歌」に登場するのは「わたし」であって「あなた」ではない。「あなた」は「わたし」を見せる鏡に過ぎない。「レモン哀歌」に「あなた」はほとんどいない。

 智恵子は「狂ったふりをしただけ」(「売り言葉」野田秀樹)かもしれないように、「正常に」なったわけでも、「智恵子はもとの智恵子」になったのでもなかったかもしれない。「あなた」は「レモンの汁」に、「トパアズ色の香気」に突き刺されて驚いた、それだけかもしれない。その拍子に思わず手が強く握られただけかもしれない、その中にちょうどわたしの手があったというだけのことで。

 ただ、仮にそうだったとしても、「わたし」に映ったその光景の意味を「ウソっぱち」というと言い過ぎの感がある。作者光太郎の本心は知らないが(読書のなかで作者というのは垢のようなものでしかない)、「わたし」が詩に書いたようなことを詩にした意図は詩に書かれている。「わたし」は「意識を正常にした」「あなた」を見、「わたし」と知って「わたしの手を握るあなたの力の健康さ」を読み取ったことは、「わたし」には揺るがせない確信が伴っていて、ここに「あなた」のほんとうのところは、じつは全然関係ないし、光太郎が「遠隔の九十九里浜から、かつては毎週一回出掛けていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を、五ヶ月間も見舞っていなかった」(「売り言葉」野田秀樹)ことも一切関係ない。これは「わたし」の願望と成就の話である。愛の話ではない。

 「わたし」の願望は、「あなた」によって「わたし」が認識されている、その感覚の再来だった。そう望んでこそ、浜辺に行って千鳥と遊ぶ「人間商売さらりと辞め」た智恵子の後姿を、「二丁も離れた防風林の夕日の中で/松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽」している一場面が、詩集に含まれてもいるのだ。

 「そんなにも(   )はレモンを待っていた」。レモンを待っていたのは誰か。――

詩のなかの「あなた」は「わたし」の姿を「わたし」に教える鏡であって他者ではない。「あなた」の映った「写真の前に挿した桜の花影に」レモンが置かれるのも、2人の愛の象徴としてではなく、「わたし」の同一性の象徴として置かれ、「智恵子の所在」する「a次元」に向けて置かれる。そこに、智恵子はいない。ひとつの偶像があるのみだ。

 終わりに別の詩を全文引用する。




  元素智恵子


智恵子はすでに元素にかへった

わたくしは心霊独存の理を信じない。

智恵子はしかも実存する。

智恵子はわたくしの肉に居る。

智恵子はわたくしに密着し、

わたくしの細胞に燐火を燃やし、

わたくしと戯れ、

わたくしをたたき、

わたくしを老いぼれの餌食にさせない。

精神とは肉体の別の名だ、

わたくしの肉に居る智恵子は、

そのままわたくしの精神の極北。

智恵子はこよなき審判者であり、

うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、

耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。

智恵子はただ嬉々としてとびはね、

わたくしの全存在をかけめぐる。

元素智恵子は今でもなほ

わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。

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