詩の鑑賞

湿原工房

鑑賞1 引き裂かれる修羅(宮沢賢治「春と修羅」)

 ‟心象風景”とあるように、彼の詩は眼前の風景と心象のマッチとギャップが、ときに主体を喜ばし、ときに苦しめる。彼の代表的な詩「春と修羅」は明らかに苦しみのなかで書かれている。

 彼は‟唾しはぎしりゆききする”自分を修羅と位置付ける。修羅とは周囲の状況に馴染むことができず、つねに諍いや争いを繰り返す存在だ。とはいえ、はためには人間のひとりにしか見えない。それが彼の苦しみとして描かれる。ひと思いに修羅にもなれず、それかといって人間というには荒みすぎている。

 苛立ちのなかで彼は散歩する。春の景色に一列の糸杉が見えてくる。光を吸い込んで昼の日中でも暗い糸杉は、修羅の眷属として賢治には映ったようだ。虚飾にまみれ、ほんとうのことが言えなくなった修羅は、糸杉によく似ていた。ZYPRESSENと表記されるのも風景のなかで異質な存在であることを表現しているようにみえる。

 この詩のなかで人間の世界を表しているのが‟春の鳥”だ。声はするが姿のないこの鳥は、目のまえにあるのに遠い人間の世界と符合する。やがて修羅は暗い森のなかに入っていく。森は糸杉と同様、修羅の世界を意味して、彼はこれに交響する。そこに飛び立つのが、鳥(人間)と暗い(修羅)が同居するカラスである。ふたたび人の世界に戻って彼はある者のやって来るのを見る。

 農夫である。農夫は彼にとって眩しいほど人間する存在であったに違いない。修羅が悪口を尽くして周囲を掻き回す存在であるなら、畑の土や作物、気象に耳を傾け自然と共存しているのが農夫である。

 その農夫が修羅を見る。しかし農夫は修羅ではなく、彼を人間として見ている。修羅は自らの修羅を隠す。目の前にいるのが修羅だと知って、暗い気持ちが農夫のうちに生起するのを嫌って、修羅は自らを修羅だと規定しながら、人の前で人のふりをし続けなければいけない、その嘘と現実のあいだで神経はすり減って、彼の目には涙が絶えないのだ。

 

   ZYPRESSEN しずかにゆすれ

   鳥はまた青ぞらを截る


 この存在とそれを取り囲む世界の不釣り合いが極限に達して、糸杉はいよいよ黒く手招きし、雲やイチョウは明々と(人であれば、きっと穏やかなそして喜ばしい景色も、修羅の彼には)修羅を焼く荼毘の火種をどしどし生成する。

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