鑑賞10 記憶までの距離(和泉さんのツイート)

<詩本文>


最初の流れ星が見えた場所を見ていれば、次の流れ星もその近くで見えるんだと幼少の私に父は言った。今日、私は、同じ場所で20の星が死ぬところを見た。散り際の輝きは優しい父を思い出させて、今日、切った唇が痛い。


父の優しさなんて思い出させないでほしい、流星群が見れなくなるように足を捨てたい



<鑑賞>


 今回は、和泉(榎本いずみ)さんという方のツイートから(ご本人から一応許可いただいて)。これに解釈を述べるのは野暮にも思うが、この感動のわけを語りたいのが性分で。

 このツイートに随分ほれぼれした。そのほれぼれが、なかなか言葉にならないでいるが、技巧的な面から言及を試みてみよう。


「最初の流れ星が見えた場所を見ていれば、」


 読点がひとつ、一旦ここで休拍をとって、星空を見ている様を、読む者に想起させる。

「最初の流れ星が見えた場所」を見つめて待っている時間が、次の言葉を待つ読む者の時間と重ね合わせを起こし、「最初」「見ていれば」のもつ期待感を加味して、夜空を見上げる主体へと読者を同一化していく。情景のただなかに読者を誘う効果的な読点である。たぶん、こういった効果は意識的というより、ニュアンスを確かめながらの修正の末、妥当なところに落ち着いていくのだろう。


「次の流れ星もその近くで見えるんだと幼少の私に父は言った」


 そして一文の後半で読者に期待された情景を示したあと回想のほうへ、その立ち上げた情景を一息に流す(私は不意に思い出したときの“あのニュアンス”を、文章のうえで読者に与えるしかたはあるだろうか、などと考えていたことがあるが、これはひとつの解答といってよい)。「父」が出てくるが、文中ではまだその人への情感はほぼなく、この知識を教えた者としてだけ存在している。

 一旦父については保留し、その知識によって(おそらく、そうしたのはこの“記憶”があったからではなく、ただその“知識”だけが残っていたからだろう)見上げられた、今日を語る。


「今日、私は、同じ場所で20の星が死ぬところを見た」


 またここで読点がふたつ。今度は息が短く、吃り気味な調子、あるいは一語一語確かめる調子に配置される。知識が、記憶を呼び込んだことへの困惑、「同じ場所で20の星」の流れるのを目撃した(目撃したのは父から授かった知識によって)、と言ってしまうことへの躊躇のようにも見える。読点を付された「今日」「私は」というのも、次のことをいうべきか、沈黙して中断すべきかを迷っているときの“あの”“えっと”“うーん”の言いよどみのようともとれる。それに対し続く文はまた一息に吐き出される。「死ぬところ」が不穏に響くが、主体の心情はここでもまだ分からない。先の記憶が思いがけずぶり返したときとは違った息づかいの一息で、意を決した(あるいはどうにでもなれ)ようなニュアンスとして映る。


「散り際の輝きは優しい父を思い出させて、今日、切った唇が痛い。」


 この一文は、前半の過去のエピソードを想起した第一文と「散り際~思い出させて」、第二文の現在と「今日、~痛い」が対応している。先の文でただ「父」としてだけ登場した人物は「優しい」と形容されて、「優しい父を思い出させて」と言及される。“では現在は……?”というニュアンスがあり、「散り際の輝き」はいずれ燃え尽きる(死ぬ)流星であって、それが父と重なる。主体とあの流星する一点までの距離が、どうのしようもない遠さとして“記憶”と“現在”の隔たりとなって重なってくるが、同時に想起のもつちかしさもあり、そのためいっそう狂おしい(あるいはかなしい諦めといった)印象がある。

「今日、切った唇」が示すものは、以上の距離感によってとてもかなしい情感を読者に与えることになる。――主体は、どうしてそのとき夜空の下にいたのか、と考えるのは深読みが過ぎるか(はじめの印象は、父は亡くなった人と私はうけとっていたかもしれない。すると「切った唇」は記憶と生身(リアル、喪失)となって、偶然性のニュアンスになる。ただ今回は作者の事情を知るにつけ、変わっていった方のこの詩のニュアンスに言及してみた)。


 ツイートはここまでで1ツイートとなっている。これだけで完成された、そしてその背景となる事情には通じずとも、情感だけは確かに伝えてくる詩として成立している。

 が、この次にツイートされた文も、今回は含んでおこうと思う。


「父の優しさなんて思い出させないでほしい、流星群が見れなくなるように足を捨てたい」


 ここでも読点がひとつ。ふつうなら句点がくるところだろうが、むしろその“ふつうなら”によってこの読点は前のツイートのそれと違い速度がある情緒表現として印象する。

 この一文だけであれば、前後の文に飛躍があるが、先の詩があるために、より読者に届く一文(要約)として機能している。「捨てたい」のが「足」であるのも印象的。


 全体を通して情緒をほぼ景色の描写でえがくことに成功していて、まったく感服しきり、自分の書いてるものなんて児戯に等しいとさえ思わせる、かなわなさを感じた。主体のかなしみとも憤りともとれる複雑な情感が、短い文章のなかに十二分に籠められている。




 最後に、和泉さんがお元気でいますよう願いつつ、今回の筆を置こうと思う。元気でいられるなら詩を書いても書かなくてもいいですよ。その感性が活きるところが必ずあります。そして人に伝わります。

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