鑑賞11.実存の孤立と併存(高野辰之「おぼろ月夜」)

 円錐の形。


   菜の花畑に入日薄れ

   見渡す山の端かすみ深し

   春風そよ吹く空を見れば

   夕月かかりてにおい淡し


 はじめに菜の花畑からなる水平な視野がひらかれる。畑は、人の営みのうちにある風景だから、菜の背丈より高いとはいえ人並みの視点から、その平面の一点に立って、仰ぐともうつむくともなく見ているように想像される。おそらくは黄色な平面を想像するかと思われる。それを「入日」の日射しに浸されて景色に朱を溶く。間をおかず、「薄れ」とあって朱は黄昏時の青暗い影にすっと消え入る。――つまり、夜へと進行する刻一刻を、「菜の花畑に入日薄れ」のうちに集約的に表現しているのが、第一行目だ。

そして、「入日」は次行にみえる視線の運びを準備している。

 菜の花畑の……里の向こうの、「山」へと視線を伸ばす。どの山も一様に、立ってきた「霞」をまとっている。

 霞のほのかな流動を契機に、気流へのシフトを助け「春風」を呼び、静止的で、拡がりは水平的に印象されていたイメージに、明らかな流動が生まれる。それにつれ、視線も運ばれ「空」へと揚がることを許して「夕月」に辿りつく。

 「おぼろ月夜」の1番は、読者の視線を柔らかく逸らしながら動かして風景を描写している。力づくに押し上げたり、ひき込んだりはしないで、自ずと視線が推移していくように巧まれている。要約すると、菜の花畑は射す光に色を変え、足もとのほうから、黄色の平面を渡ってその日の光の衰える西の方に視線を伸ばすと、山がつらなる。横並びの山々は霞をまとい視覚的な風景から、空気の流動への注目の移行を準備して、春風のそよ吹く運動性へ移行すると、空への視線の移動を予感させる。かすみながら光をそそぐ月に行き着くという具合だ。

 またこれは、「入日」にはじまり「夕月」におわる。夕から夜へと移行する(景色を照らす光が交代する)時間を演出している。それに伴い趣も変化していく。その変化を霞がほの立つことで強調している。

 空間描写が時間性を担っているのだ。この一番のあるによって、二番のイメージを助けているし、一番なくして二番の趣は演出されなかっただろう。そして二番は、一番とは違った手法に立って風景を描写する。それは何を読者に感じさせるのか。


  里わの火影も 森のいろも

` 田中の小道を辿る人も

  蛙の鳴く音も 鐘の音も

  さながら霞める おぼろ月夜


 以前、高村光太郎「レモン哀歌」のところで、その文の巧さに言及した。光太郎は「レモン哀歌」において物事の運びを宙吊りにしない、といった主旨のことをいったのだが、そしてそのことが「おぼろ月夜」の一番においてもいえるとは、前の読み解きから察してもらえるだろう。

 しかし、二番は“も”によって、風景を構成する要素はむしろ宙吊りとなる。明らかに一番とは異なる文法によって書かれている。

 歩きながら過ぎ越していく景色の一部を意識に上らせているともとれよう。それぞれの要素は明瞭である。火影、森、畔の人、蛙、そして鐘の音、景色を印象づける要素がひとつひとつ注視される。

 それら意識された、一つ、一つ、の要素を「さながら」と一括りに「霞め」てしまう。このとき読者はなにを体験しただろう。

 たとえば地図をひろげてみるとき、ひろげてみても無目的なら、地図はいつまでも意味のない網模様でしかない。ここにひとつの目的地を設定してみると、網目は出発地点から目的地までの道のりを明かして、意味のあるものに変わるだろう。目的が抽出されたときに俯瞰が意味を帯びてくる。

 二番は始めに目的を与えられずまず個々の注視があり、それとしてこの月夜を生きてみる心地がする。それは“も”によって次々に並列(同時)している物を生きる。里わの火影こぼす家屋の者へ、森の暗さの奥へ、田中の小道を辿る人の孤立、――蛙や鐘は投石した池の波紋に似て姿ない音となって、一帯に震える。これらを並列して、しかし、順番に意識に積み重ねていくように保持する。鐘の音を聞くときは蛙の音も聞き、それも手前の畔行く人影の存在が意識されていて、さらに森の色、里わの火影までがそれぞれに空間上に配置され、慎ましさを帯びて感じられている。

 ありありと意識されたそれらは始め視覚的な者らであったが、蛙に至って、聴覚的な――つまり、影はないが存在を示すといったやや仄かさへ遷移している。この視覚的な影なしの印象が、景色を一括りにする「さながら霞める」をある俯瞰の意識へ導く。

 さながらと一括しても、積み重ねの状態は保持されていると考える。さながらといいながら、火影の暮らしを生き、森の色を生き、畦道を行き、蛙が物陰に潜んで喉を鳴らし、見えぬ寺で撞かれる鐘が細かに震えている――これらすべてを霞によって孤立へといざない、視界をほとんど奪って、なお、朧気な影のみを見せ(あるいはその影とは、主体がアタリをつけて、あの辺りでなお存続しているという実感であって、一種のプラセボ効果のような幻影かもしれない)、一様の靄の中を生きているイメージを形成する。

 一番において、あれは空間的に時間を演出したものだと書いた。二番は空間的に演出された事実存在、実存といえばいいだろうか。各要素は並列されたが、強い繋がりもたず、偶然性によって一つの瞬間を生きている。繋がりの微弱性は霞によって強化される。孤立し、それぞれが同時にあるということの不思議に直面するのだ。それを表立てて主張せず匂わせているのが、この二番の歌詞と言えるだろう。

 最後に題名にもなるおぼろ月夜が現れるのは、おぼろとはいえ明かりを降らせその月影を明かしている存在として、そして、月は昇って光を帯びている限りにおいて、夜の多くの地点で共有される存在である。山里のどこからも見上げることを赦し、山々に隔絶された里の外からさえ、それは明々と自己を示しながら、地上の景色へと便りを注ぐだろう。すでに、二番によって私たちは孤立し偶然的に同時する、実存の複数を生きた。そこからさらにその外へと、一切の地上にある存在者へと、孤立の実存の複数性を生きはじめる。霞深い山里を契機に、月明かり=同時の無数の注視を観想するのだ。その情報の圧倒的に目眩が起こるが、その目眩する私も一切の情報の一領域たる注視される一存在であるとも知る。「おぼろ月夜」は私には、こうした恐ろしい発見を簡潔にまとめた一級の叙景詩である。

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