鑑賞6 私の根拠の喪失(三木露風「赤とんぼ」)

  夕焼け小焼けの 赤とんぼ

  負われてみたのは いつの日か


 三木露風の詩「赤とんぼ」もまた、望郷の詩である。これも失われ、故郷から隔たったところで喪失の念を吐露している。

 夕焼けのなかに浮かぶ赤とんぼの光景は、いつか、どこかで、すでに一度見た光景だという感覚に襲われているのが第一連となる。既視感に連れだって温みや質感としてか、あるいは思い出される視点の具合からか、誰かに負われていたらしいことも思い出されている。


  山の畑の 桑の実を

  小籠に積んだは まぼろしか


 さらに記憶は記憶を呼んでくる。これは流れを見るなら、誰かとともに小籠に積んでいるのだと思われる。その誰かとは、第一連で彼を負っていた者である。


  十五で姐やは 嫁にゆき

  お里のたよりも 絶え果てた


 彼を背負って、また桑の実をともに摘んだのは、彼女に違いない。さて、ここで各連の終わりに注目してみると、「いつの日か」「まぼろしか」「絶え果てた」と、それらの記憶はおぼろ気なもの、現在にあって遊離してしまっている時間となっている。

 第一連の「いつの日か」は、まだ記憶が噴出したばかりであるためもあるだろう。が、負われていたのが誰だったのか、ここではあまり意識されていないようだ。しかし、第二、第三連の記憶は明らかに、この意識されていない彼を背負う者によって導き出されている。

 第二連で「まぼろしか」と嘆じているのは何によってだろう。あった出来事として、その情景は彼の内奥から浮いて出てきたが、彼はこのとき、どこにいたのだろう。異郷だとすれば、その山を見るに適わないのも頷ける。しかし、ここで仮に故郷にあってその山を見ているとしてみるなら、幻だったのだろうかという嘆息はどのように吐かれたのか。

 これが、故郷の地を踏み、実際にその山を見つつの想起なら、その山の桑畑はもうないのだ。あるいは養蚕業の後退ということもあったのかもしれない。というのは全くの想像だが、とにかく、その桑畑と現在の彼の間には記憶に残されているほかには無縁となったとは言えるだろう。その記憶というのも、たまたま浮かんでいた赤とんぼによって、夕焼けによって唐突に思い出されたものだ。彼はこの記憶を心もとなく感じたのだろう。だから第三連で姐やが登場する。彼を背負い、桑畑へ連れて行ってくれた、年端もいかない(彼よりは年は上だろうが)姐や。彼女だけが、この記憶を確かにしてくれる人物だと。

 しかし、それも彼女が嫁に行ったという事実によってリンクを失う。姐やは子守りをしたり、家の手伝いをするために、彼の家に住み込みをしているだけの、血縁はない人だから、嫁に行ってしまった以上、その足跡をたどることも適わない。彼はこのひと時に湧かせたこの記憶を、誰にも共有できない地点で呆然としている。

 記憶というものは人と共有されてようやく、夢とは別のものであったと言える。が、彼の手もとには誰の手も差し出されてはいない。もう帰ることもできなければ、はたしてこの記憶が本当の出来事だったのか、確かめることができない彼の瞳に、赤とんぼがふたたび現れる。


  夕焼け小焼けの 赤とんぼ

  とまっているよ さおのさき


 彼の記憶が本当のものか、いっときの疲労かなにかが見せた錯覚だったか、それは知れない。ただ、そのように思い出させた赤とんぼだけは確かにいま、ここで彼と空間を共有していた。

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