鑑賞5 理念としての故郷(室生犀星「小景異情」)

 故郷についての詩に、初めて触れたのは高知の辺境から大阪へ出てきた18歳ごろ、室生犀星の詩によってだったと記憶している。

 私が田舎を出てきた理由のひとつには、知らなくてもいいような情報が、好むと好まざるとを問わず伝わり、拡散されていく田舎の閉鎖性に辟易したことがある。とても大きな理由だった。

 にも拘わらず、大阪へ出てきた私は、このふたつの土地が呈する環境の違いに、郷愁を抱くことになった。大阪には大阪の住み良さはあったが、反面、故郷には故郷なりの住み良さがあったことに気づいてきていた。

 故郷とは、その環境に浴しているうちには見出だせないものであるらしい。そして、異郷から望む故郷は、実は美化された故郷に他ならない(ただ人によっては反対に、矮小化したものになることもあるだろう)。それは帰省の折に思ったことだ。美化された故郷は何に向かって、美化されていったのか。


  ふるさとは遠きにありて思ふもの


 室生犀星の詩も、この距離によって見出だされた故郷こそが故郷だという。それは遠くにあって、幻影のように胸中に否応なく浮かび上がってくる。


  そして悲しくうたふもの


 望まれながら、遠くにおき続けられる故郷とは何か。土地としての故郷に帰る時、時間の経過や、自分の立場の移行に気付かないわけにはいかない。


  よしや

  うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても

  帰るところにあるまじや


 故郷とはすでに失われた故郷でしかない。失われた故郷とは、すなわち自分が思い描く身体の充足にほかならず、それはつまり土地というより、環境を指して故郷と呼ぶようだと気付いてくる。


  ひとり都のゆふぐれに

  ふるさとおもひ涙ぐむ

  そのこころもて

  遠きみやこにかへらばや

  遠きみやこにかへらばや


 もはや故郷は消えた。消えてなお、望郷の念は去らない。都に戻り、この故郷とは私の身体が充分に活動する場と観じる。



 ……これは、ちょっと、詩の観賞というのとは違ってしまった。

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