鑑賞4 遠い故郷、理想郷としての……(吉田一穂「母」)
はじめに断っておくと、私は吉田一穂の詩を多く知らないし、手もとにはたしかに岩波文庫から出た彼の詩集があるが、読めたと言えるものは今回取り上げようと思う「母」のほかにない。
詩は読めるものだけ読めばいいし(それは趣味的なものなのだから)、読むために詩人の来歴を知る必要もない。現代詩は難しいと言われる。なるほど、詩人のほうでも難解であろうとしている風もある。が、詩に難解はないと考える。平易か難解かではなく、ただ不可解な詩と、心に言葉を与える詩があるだけだ。だから誤読も起きない。
さて、吉田一穂の「母」は吉本隆明の読みでは、万葉の頃なら「たらちねの」といえば伝わるはずの情感だそうだ。つまり自己の生育と密接な連関を結んだ母なる存在を、年経て見るときに湧く情感を書いている。
ああ麗しい
常に遠のいていく風景
悲しみの彼方 母への
捜り打つ 夜半の
私にとってこの詩は、母というより郷愁を歌っているものとして感得される。母は故郷の擬人化ないし代表に他ならない。
故郷とは失われた環境だ。土地ではない。失われたとき初めて故郷と言われる。環境とは自己へ密接に働きかける環境だ。その環境が遠のくとき郷愁がやってくる。郷愁は遠のけば遠のくほど、彩りを豊かにして私たちの心象に表れてくる。私たちの営みの中でされるしぐさは、与えられた環境を基底に形成されているのだから、現在に表現できるしぐさのバリエーションに不足を感じるとき、希求されるものとして故郷は顕ってくる。そのゆえ「常に遠のいていく風景」までの距離は「麗しい」と形容される。
もう再現できない故郷は、故郷の変容だけを意味していのではない。変容は私にも、私と接する周囲の対応にも及んでいる。こどもの頃に遊んだ公園や学んだ校舎を、大人になって再び訪れたときの、こんなに小さかっただろうか、という印象が故郷との距離であり、それは幾分の老朽化や改修があるとしても、根本的には私が大きくなったことや見てきたものが増えたことに由来している。この距離、物はそこにありながら当時とは絶対的に隔絶している感覚が、この詩を和歌で詠まれる母の枕詞と同義なのだ。
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