鑑賞8 正確な狂い(渋沢孝輔「水晶狂い」)
言葉にできない、対象を目に据えていっときも気紛れを起こさないのに、言葉はかならず対象を逸脱していく。太陽に進路を湾曲させられる光のように。それなのに――そのために? なおいっそう対象は私を魅了してやまない。どのようにか名付け、伝達できるものに、なにより、自分に伝達できるものにしないではいられない。波頭がまだ白波となって泡立つぎりぎり手前の一瞬に夢想されているものを破ることなく伝えること。……
詩にしてみようと試みて容易に果たせず、書き終えて、みると胸のうちのそれとはいつも越え難い、断絶が生じて書かれた詩は、別のものになってしまう。海面の隆起は幾度も繰り返され、幾度も波となって砕けるのだ。
ついに水晶狂いだ
死と愛とをともにつらぬいて
どんな透明な狂気が
来りつつある水晶を生きようとしているのか
渋沢孝輔「水晶狂い」の冒頭は、意味の見出されることを拒絶しているかにみえる。「ついに」とは、何の極限「死と愛とをともにつらぬ」く、とはどんな静謐の時間の試み「来りつつある水晶」、とはどんな――説明なしに言葉は矢継ぎ早に繰り出される。タイトルの“水晶狂い”という言葉からして、何を意味しているか分からない。分からない、のに第一声「ついに水晶狂いだ」と言われても、どんな解釈のしようがあるはずもない。だから、この詩を読むに当たり、冒頭はただ、不可解なものとしてあると判断(を保留、宙吊り)しておくよりない。
痛いきらめき
ひとつの叫びがいますべり落ち無に入ってゆく
無は彼の怯懦が構えた檻
ここまで追っても、まだ詩がなにを語っているのか分からない。ただ、水晶、つらぬいて、透明な狂気、痛いきらめき、といった語から硬質なイメージが形成されている。水晶の硬質さ。思えば水晶狂いであるらしい彼は、来りつつある水晶ではまだない。
狂おしさは、ある一点で痛覚を、刺激してついに一声をあげるが、彼をして叫ばせるものの存在があるとしても、意味を詳細に明かすもので叫びがあるはずもなく、何事かがあることをのみ伝えて、何事も指し示せず消えいく。つまり、「無に入ってゆく」。言語化不能の地点で叫びは叫ばれる。それは表現者にとって敗北に外ならない。
一度目の敗北ののち、表現者が表現者という業を背負っている限り、表現の道へ這い上がってふたたび三度、いや息の許す限り無限に語り始めるだろう(山上に岩を運ぶシーシュポスのように)。水晶は変わらず彼を不断に襲って鋭い光沢で刺してくるのだから。
巌に花 しずかな狂い
ひとつの叫びがいま
だれにも発音されたことのない氷草の周辺を
誕生と出逢いの肉に変えている
言語化不能の孤島で、水晶のイメージは解けうる硬質さへ、つまり氷へ移される。固く結ばれた結晶はしかし、ほどける契機で表面を包まれ「周辺」とのやり取りがなされ始める。
物狂いも 思う筋目の
あれば巌に花 しずかな狂い
詩行は螺旋(循環と異化)を描いて進行する。すでに「ひとつの叫びがいま」が繰り返されたが、ここでも「巌に花 しずかな狂い」が繰り返される。煩悶する者のなかで不思議な静謐をたたえて、その花は揺れているようだ。
そしてついにゼロもなく
群り寄せる水晶凝視だ 深みにひかる
「ついに」が繰り返される。先ほどは「水晶狂い」、ここでは「ゼロもなく」。絶対の表現対象=水晶への狂い、明らかに主体を惹きつけ貫きながら硬質で、言語の通過を拒絶する。つまり言語による完全一致表現(ゼロ)の不可能性。そのために射られる視線は無限をなす。
この譬喩の渦状星雲は
かつてもいまも恐るべき明晰なスピードで
発熱 混沌 金輪の際を旋回し
否定しているそれが出逢い
それが誕生か
そうした様々な視線が織り上げた言葉はことごとく水晶の譬喩であり、譬喩は水晶を半ば踏み外す、そのことごとくが。台風(譬喩)が目(静謐、巌に花)を中心に旋回する。
ここでいう「かつて」とはいつなのか。冒頭「ついに水晶狂いだ」と詩が断言したとき、読者はその断言が何を断言したことになるのか分からないでいた。そこには端的な不明があったが、「かつてもいまも」と語られる行へ来て、その第一行目から始まった詩のイメージを幾分形成し始めている。視線の集中、その拒絶。思えば詩は了解されることを拒絶するような言葉はこびでここまで来た。冒頭の第一行「ついに水晶狂いだ」と叫ばれたときすでに、表現の不可能性の只中で煩悶する者がその第一行を叫んでいた――これが「かつて」だ。
振り返ってみると「いま」という時制もここまでの詩行にふたつ見える。
ひとつの叫びがいますべり落ち無に入ってゆく
それから、
ひとつの叫びがいま
だれにも発音されたことのない氷草の周辺を
誕生と出逢いの肉に変えていく
の二箇所である。このふたつの「いま」はどこかであった今ではなく、まさにこの詩を書く、読者においては読むそのまさに「いま」と書かれる(読まれる)その今ではなかったか。
「水晶狂い」とは「死と愛とをともにつらぬ」くとは「どんな透明な狂気」とは「来りつつある水晶を生きようと」するとは、この了解を拒絶する詩行がそのまま水晶である。そしてそれら「痛いきらめき」は、分からないと判断(を保留、宙吊り、当面の断念)すること=「叫び」となって「いますべり落ち無に入ってゆく」。
とすると、いちど解釈不可能を余儀なくされ挫折した読者が次の詩行へよじ登ると「無は彼の怯懦が構えた檻」とは、手前までの詩句と詩句の間に橋を渡せなかった読者を指さして詩が告発しているのだ。これらのことはすべて詩が読まれているその時に起きている。
転調があり、滝のような無意味をくぐって「しずかな狂い」が提示される。これは読者にとってこの時、この詩は他者として佇む。このとき契機が生まれ、無に入ってゆく手前の叫びに立ち戻る、その「いま」はじめて詩が「誕生と出逢いの肉に変えていく」「氷草の周辺」を見せ始める。
かつてもいまも恐るべき明晰なスピードで
「かつて」もまさにこの行を読む「いま」も、詩は明らかに読まれることを欲し、読者は読むことを欲し、様々な解釈が矢継ぎ早に擦過する「渦状星雲」のなかで、幾分言い当て、幾分踏み外し、ついにその詩自身を言い当てられる解釈にたどり着くことなく無限に詩の周りを旋回して、解釈を放射する(この文章もまた、そうした放射の一閃である)。解釈の否定、そこに「出逢い」と「誕生」がある。この詩は陸地の終端で不断に望まれる幻影の太陽となる。詩の他者性、他者は不断に了解不能性を生産する。
痛烈な断崖よ
突然の傾きと取り除けられた空が
鏡の呪縛を打ち捨てられた岬で
破り引き揚げられた幻影の
太陽が暴力的に岩を犯しはじめる
あちらこちらで ようやく
結晶のかたちを変える数多くの水晶たち
了解不能性はいたるところに現出する。分かること、分かろうとすること、分かったと思い過ごすこと。あらゆる了解的しぐさが「鏡の呪縛」を形成する。分からないこと、分かるまいと思って対峙すること、分かったことを他者に戻すこと。あらゆる「鏡の呪縛を打ち捨て」て「怯懦が構えた」「無」=了解性を解体し次々に「譬喩の渦状星雲」のダイナミズムに無限に旋回する現在を生きる。
わたしにはそう見える
なぜならひとりの夭折者と
わたしとのきずなを奪いとることが
だれにもできないように
いまここのこの暗い淵で慟哭している
未生のことばの意味を否定することは
だれにもできない
あるいはこの詩はただ、ここにある名を挙げられないまま紹介された「ひとりの夭折者」と詩人に結ばれた「きずな」の絶対性を、そしてその絶対性は誰にも「奪いとることが」できないと同時に、示そうとしてだれにも示せないことを知るという、その営為でもあったのかもしれない。
水晶、表現の不可能性、他者は了解不能な地点に、私の突端に立っても私である者からは断絶した地点に立つ者、それを言うことはどんな譬喩によっても果たせない。譬喩の渦状星雲その中心、水晶、他者そのものという言語、「未生のことば」。
それは誰にも明かせないゆえに死(不在)であり、そして固く結ばれた愛なのだ。読者はゲシュタルトの臨界点で、この詩を初めて発見し、そして突き放される。
痛いきらめき 巌に花もあり
そして来りつつある網目の世界の臨界角の
死と愛とをともにつらぬいて
明晰でしずかな狂いだ
水晶狂いだ
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