光と闇

 店を出た真春に携帯電話の振動がメールの受信を知らせた。差出人は美姫だった。

『今夜十二時に宇治舘橋に集合』


 ――ドキリとした。

 今朝の別れ方を思うと、これ以上美姫がただの話し合いに自分を誘うとは思えなかった。だからもし次に美姫から呼び出しがかかった時、それは作戦決行の時なのではと覚悟していた。


 同時に疑問も一つ浮かび上がっていた。あの状態だと、作戦を決行する時が来ても美姫は自分に連絡してこないのではないかと何となく思っていた。真春は登治の話と今のメールについて確認をしようと美姫に電話をかけた。しかし美姫の声を聞くことは叶わず、真春の耳に入ったのは携帯電話の電源が入っていないことを告げる無機質なアナウンスだけだった。


 必要事項だけ伝えてあとは携帯の電源を切ってしまう。その行為が自分への拒絶の現れにも思えたが、作戦決行が今夜となるとのんびりはしていられない。真春は美姫の家を目指し歩を進めた。




「青原!」

 インターホン越しに真春が呼びかけた。戸惑いの含まれた返事をした美姫が間もなくして玄関に姿を現した。


「どうしたの高徳君?」

 呼び方を先に戻したのは真春だったが、実際他人行儀な呼び方をされると胸苦しさを感じる。


「さっきのメールのことだけど」

「メール? 何のこと?」

「さっき俺にメールしてきただろ? 今夜十二時に宇治舘橋に集合って」

「私そんなメール送っていないわ。それに携帯電話は少し前に失くしてしまったの」

 そう言った美姫はハッした顔をする。何かに気が付いたようだ。


「どうかしたのか?」

「いいえ。何でもないわ」

「そうか……。とにかく、メールのことは知らないんだな。だったら今夜は家でじっとしていてくれ」

「……わかったわ」


 メールの差出人の正体は謎のままだったが、美姫から聞き出すことはできないだろうと判断し、真春は美姫の家を後にした。そのまま待ち合わせ場所に指定された宇治舘橋の下見に向かった。


 宇治舘橋は町内外を分断するように流れる五十鈴川に掛けられた、全長三十メートル程の鉄橋だ。車や歩行者の行き来はそれなりに頻繁だが、日中の通行量など、このような田舎町では深夜になってさえしまえば関係ない。もしここから川面へ人一人飛び込んだとしても誰も気が付かないことだろう。さらに川の方も、特別泳ぎが得意ではない者が服を着たまま落ちれば、深さ速さ共に溺れるには申し分ないように思えた。もしも待ち合わせの連絡を寄越した人間が誰かを殺すためにこの場所を指定したのなら、その判断はきっと正しいに違いない。宇治舘橋はそう思わせる場所だった。


 下見を終えた真春は、一度帰宅して夜に備えて体を休めることにした。

 家に着くと、朝からパートに出ていた母が帰っていた。


「あら、お帰り。急に泊まりなんて言うから昨日の夕飯あんたの分が残ってるわよ」

「ただいま。ごめん、急に決まったからさ」

「もしかして女の子の家に行っていたんじゃないの? あ、入院してる時にお見舞いに来てくれた子でしょ」

 母親の口から身に覚えのない話が飛び出し「えっ?」と気の抜けた間抜けな声が漏れた。


「あら、あんたそれも忘れちゃったのね。せっかく可愛い子が来てくれたのに」

「名前とか聞いてないの?」

「同級生って言ってたけど。名前は――ごめんね、母さんも忘れちゃった。明日学校のみんなに聞いてみたら?」

「いいよ別に」

「何でも聞いてみることは大事よ。産まれてから今までのことを全部覚えてる人間なんていないんだし、何かを忘れることは別に恥ずかしいことじゃないの。大切なのは、忘れてしまった後にどうするかよ」

「うん、ありがとう」


 入院中にお見舞いに来てくれた同級生のことは、正直特に気になったわけではない。それよりも今夜十二時の待ち合わせの方が大事だった。それでも、母の後押しを受けて、今夜を何事もなく切り抜けられたなら、明日はお見舞いに来てくれた同級生を探してみようと思った。


 その後も母に昨日はどこに泊まりに行ったのかを詮索され、何となく追及をかわしながら夜まで過ごした。家にいるうちに一度スキップが起こったので、今日はこれ以上スキップに邪魔されることはないと胸を撫で下ろした。夜になり、家族が寝静まったのを確認してから真春は静かに家を出た。


 深夜十二時少し前、真春は集合場所を目指しながら美姫と駅で待ち合わせた時のことを思い返していた。今もあの日も緊張を抱えて待ち合わせ場所に向かっているが、その胸の高鳴りが意味するものは全く異なる種類のものだった。


 宇治舘橋の手前、町側の方に一つの人影が見えた。


「来ちゃった」

 街灯の真下からは少しずれた薄暗闇の中に、美姫が立っているのが見えた。


「何で来たんだよ。家にいてくれって言ったじゃないか」

「関係ない高徳君を巻き込んだのに、自分だけ呑気に眠ってなんていられないよ」

「……もし、今からここに瀧生が来たとしたら、青原は瀧生を殺すつもりなのか?」

 真春の問いかけに、美姫は自分の思いを表す言葉を探るように、ゆっくりと言葉を選び、発した。


「正直、殺したいくらい瀧生が憎いって気持ちは今でも変わらない。でも、それが自分勝手な気持ちだってこともわかっているつもり。そんな中途半端な状態で高徳君と接して、自分で自分がわからなくなっちゃった感じかな。憎しみなんか忘れてしまって、あなたと普通に仲良くしていけたら、それはそれで幸せなんじゃないかって」

 暗闇に紛れて美姫が困ったように微笑んだ。


「でも、あなたを騙した私にそんな資格がないこともちゃんとわかってる。初めからあなたを巻き込むべきじゃなかったんだね。そうしてたら今頃私は迷う事なく瀧生を殺して……」

 そこで美姫は口を止めた。美姫の中に飲み込まれた続きの言葉を真春が代わりに紡ぐ。

「そして自分も死んでた?」


 美姫が驚いた顔をしたのが暗闇の中でも見えたし、それが「どうしてわかったの?」という意味の表情であることもわかった。


「青原がどうして瀧生を憎んでいるのかを考えていたんだ。そして青原のおじいさん――登治さんに辿り着いた。瀧生が登治さんの店でクレームを出したことがきっかけで、登治さんは生きがいを失い記憶まで曖昧になって、大切な孫のことさえ忘れてしまった」

 美姫は否定する様子もなく真春の言葉を聞いている。


「登治さんのことを思うと気の毒ではあるけど、それを理由に瀧生が殺されるのはちょっと理不尽に思えたんだ。一度は俺を利用しようとした君は、その罪滅ぼしに作戦実行までは全てを俺に捧げようとしてくれた。そんな優しさと覚悟を併せ持った君なら、きっと最後はそうするつもりなんじゃないかと思ったんだ」


「……高徳君って、忘れっぽいくせに結構鋭いよね」

 美姫は再び困ったように微笑んだ。


「確かに俺は人並以上に忘れっぽいけど、大事なのは忘れた後にどうするかだって母さんに言われたんだ」

「いい言葉だね」

「登治さんもさ、孫の存在は忘れてしまったかもしれないけど、それは心の中から消えてしまったわけじゃなくて、取り出せないくらいの奥底で大事に眠っているだけだと思うんだ」

「どういうこと?」

「登治さんが猫を飼っているのは知ってる?」

 美姫が首を横に振る。


「とても大事にして可愛がってるんだ。その猫の名前がミーコなんだよ」

「えっ!?」

「登治さんが考えた店の名前のア・アロハも青原をローマ字表記にして並べ替えたアナグラムだから、きっとミーコって名前を考えた時も心のどこかに美姫の名前があったんだよ」

「全然知らなかった。他人みたいに接するおじいちゃんを見てられなくて、あの店にもあんまり顔を出していなかったから」

「大切なのは忘れた後にどうするかだよ。瀧生への復讐じゃなくて、登治さんとこれからどう接していくかを考えないか?」


 美姫は目頭を押さえ一度鼻をすすった後、涙目の笑顔で答えた。

「うん! ありがとう」

 それを見た真春もまた自然と笑顔になる。


「それにしても、ミーコってやっぱりいいネーミングセンスだなって思うんだ。青原さえよければまたそう呼んでもいいかな?」

「高徳君がそうしたいなら仕方ないか。計画が実行されないなら、一生あなたのための私ってことになっちゃうもの。ね、ハル」


 二人の間にあった殺人計画の共有という薄暗い繋がりはなくなり、もはや宇治舘橋の街灯の下には、相手を思い合う二人がいるだけだった。

 時刻は丁度十二時をまわったところだった。真春は、二人を照らす街灯の光の外の世界から誰かが近付く気配を感じ取った。


「誰だ!?」

 真春が声をあげる。おそらく美姫の携帯電話から待ち合わせのメールを送信してきた人物だろう。向こうからは街灯に照らされた真春たちの姿がよく見えたことだろう。


 真春は正体の見えない人物に対する恐怖と、美姫の説得に成功し、あとはこの人物さえどうにかしてしまえば全てが終わるのだという焦りの気持ちから、体に嫌な汗が湧き出たのを感じていた。

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