殺人者は誰か

 【喫茶ア・アロハ】に設置された窓は大きく、日差しのほとんどをそのまま店内に落とす。窓の店名が書かれた部分だけがそれを遮り、テーブルの上に影で文字を作っていた。日差しがもたらす熱で少しずつ溶けた氷が、バランスを崩して再びカラリと音を鳴らす。

 ――俺の目の前には俺の知らない彼女がいた。


「やっぱり撲殺が一番自然かしら」


 先程まで目の前にいた美姫と、今氷のように冷たい声で淡々と人の命を奪う方法について思慮する人物が同一人物だとは、どうしても思えない。恐怖が薄い膜のような形をしていて、それが体中を覆ってしまっていたみたいだ。息苦しい。――喉が渇いた。


「高徳君はどう思う?」


 喉の壁面同士が水分を失ってくっついてしまったようで、そのままでは声が出ないように思われた。アイスコーヒーを喉に流し込む。この苦味と一緒に恐怖まで飲み込んでしまいたかった。


「どうって……何が?」


「一番自然に三城君を消す方法よ。私たちに疑いがかからないようにね」


 彼女は何を言っているのだろうか。三城瀧生を消す?

 ――その名前は知っている。俺たちのクラスメイトだ。


 瀧生は確かに粗暴な男だ。イジメまがいの事もしているし、ガラの悪い連中ともつるんでいて、彼の存在を迷惑がる人物だっているだろう。だからと言って、それは殺されるに値する事なのか?


「本気か?」


「当たり前でしょ。まさか高徳君、怖じ気づいたの?」


 美姫の冷たい視線が真春に突き刺さる。氷の手で心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。


「そうじゃない。でも、殺人だなんて――」

「もしも見返りが欲しいという事なら、あなたの好きなようにしていいわ」

 真春の言葉を遮った美姫は怪しく笑っている。彼女の顔は、人を殺す目をしていてさえ美しかった。そんな事を考えている時ではないのだが、そう思わせるだけの造形美に心を奪われるのは仕方のない事だ。


 ――今夜は両親が帰らないの。


 誘惑を続けるこの美少女に揺るがない男がいるだろうか。殺人計画への加担が条件でなければ真春も例外ではないはずだ。


「もっと自分を大切にしてくれ」


 それが真春の純粋な反応だった。何がここまで、美姫を駆り立てているのだろうか。何故彼女はここまでしなくてはならないのか。


 真春は飲み込む。アイスコーヒーを再び。今度は恐怖を飲み込むためではなく、追い詰められた彼女をどうにか救い出したいという決意を、自分の中から逃がさないために。

 美姫の力になりたい。勿論殺人計画に協力するという意味ではなく、彼女が人の道を踏み外さずにいられるように。


「あなたに私の気持ちはわからない」

 荒げられる語気。


「わからないよ。わからないから教えてくれないか」

 応戦。


 二人の周りをしばらくの静寂が包み込む。美姫は鋭い目つきで真春を真っ直ぐ睨んでいる。負けじと目線を合わせ続ける真春に、美姫はついにテーブルに視線を落とした。彼女の中にもまだ揺らぎはある。――良かった。彼女はまだ人間だ。


「とにかく、私はやめないから」

 そう言って立ち上がった美姫がテーブルの端に置かれた伝票を手に取る。そのままカウンターへと歩き出す美姫に真春は慌ててついて行った。


 支払いをしようと真春が財布を開く。中身は一万円札が一枚だけ。小銭はない。今朝、財布がパンパンだと格好悪いだろうかと悩んだ結果である。ピンと伸びたお札に手を伸ばす真春を「いいから」と制して、美姫が支払いを済ませた。

 喫茶店を出ると、二人は待ち合わせの場所と同じ駅の東口に戻る。


「あなたが非協力的なのはわかったけれど、邪魔はしないで。計画の事も二人だけの秘密だから」


「俺は全力で君を止めるよ。でも計画の事を人に話すのは君の立場を危ぶませる事になる。だからそれはしないと約束する」


 秘密は守るという言葉にひとまず安心したのか、美姫は待ち合わせに現れた時のような表情で別れを告げた。そして駅に消える前に一度振り返る。


「彼氏なら彼氏らしく、彼女の事を守ってくれるって期待しているからね。真春」

 いたずらな笑顔がまた背を向ける。

 ――彼氏? 俺が?


 真春は、改札口へ駆け出す美姫の背中を見つめたまま、その場に縛り付けられたように動けずにいた。噴水からの水飛沫が辺りの空気を冷やしていたが、その中で真春の体だけが火照っていた。


 しばらく噴水の側に立ち続けた。水飛沫。体を少しは冷やしてくれるだろう。しかし次の瞬間には、真春は全身を熱と液体で覆われていた。


「熱っ!」


 頭上から大量のお湯が降り注ぐ。咄嗟にお湯から逃れようと飛びのいて、いつのまにかそこにあったタイルの散りばめられた壁に、思い切り体当たりをしてしまう。

 ――ああ、ここは風呂場だ。


 駅前にいた真春はそこから一時間かけて家に帰りシャワーを浴びていた。そしてその一時間を、真春の意識はスキップした。でなければ駅前にいたはずの真春が今全裸でいる事の説明がつかない。


 スキップは決まって一日一回一時間。しかしそれがどのタイミングで起こるかは、本人にもわからないし、スキップから戻った瞬間自分がどこで何をしているのかもわからない。


 この現象は時々こういった弊害を生む。真春は強打した左肩を押さえて、一人風呂場でうずくまる羽目になった。しかし、スキップが生んだ弊害が物理的な痛みだけならばまだ良い方だ。それよりも、美姫の事のように知らないうちに何かに巻き込まれている場合の方が厄介だと思う。


 ――美姫を止めるにはどうすればいいだろうか。

 まずは美姫が瀧生の殺害を計画するに至った動機を知らなければ始まらないだろう。彼女はただ追い詰められているだけだ。それは喫茶店での様子からも窺える。彼女はまだ揺らぎの中だ。殺人者ではない。


 二度目かもしれない洗髪を済ませて、真春は浴室を出た。スキップが起きようがちゃんと用意されていたタオルを頭から被る。タオルが濡れ髪の水分を吸い上げる。それと同時に喫茶店で感じた美姫への恐怖も吸い上げられていくようだった。

 迷いはない。これからは美姫を助ける事に全力を注ごう。彼氏彼女宣言をされたからではない。彼女が殺人者ではなく人間だからだ。


 自室に戻ると、机の上の日記に目が止まった。毎日の出来事を思い出して文字に起こすことは、きっと脳に良い刺激を与えるからと、医者にすすめられて退院後から書き始めたものだ。

 ――昨日の分、書いていなかったな。


 ふと、一つの事実に気が付いた。むしろ何故今までそこに思いが至らなかったのだろうか。

 毎日の終わりに日記を書いたところで、スキップ中の出来事まではわからない。逆に言うならば、常に手帳を持ち歩いて事あるごとにメモを取るよう習慣づければ、スキップ中に起こった出来事でもメモを取るはずだ。スキップ中の真春は普段の真春と何一つ変わらない生活を送っているのだから。それは今までの経験からわかっていた。


 ――何か丁度いいメモ帳はなかっただろうか?


 まず学校用のカバンを漁る。ノートならあるが、肌身離さず持ち運ぶには大きすぎる。次にプライベート用のカバン。これは今日も使っていたものだが。同じく漁る。

 ――あった。手のひらサイズのメモ帳。


 それは近所の雑貨店で買われたようで、その店の名前が印字された袋に、黒のボールペンと一緒に入っていた。封は開いている。今朝デートの準備をした際にはなかったものだ。


 今日購入されたと思われるそれに、真春は全く覚えがなかった。となると、このメモとボールペンは今日、スキップの最中に真春が買ったものだろう。スキップ中の真春も、今と同じようにメモを取る事を思いついたようだ。


 使い勝手はどうだろうかと中身を覗く。その一ページ目にはすでに、明確な強い意志を感じさせる文字で、ある言葉が書かれていた。


 『三城を殺す!』


 目を疑った。ついでに頭も。

 この筆跡は真春自身のものだ。

 美姫を助けると決意したはずなのに、その帰り道に一体何があったのか。何があれば俺はこんな言葉をメモに残すのだろうか。


「やっぱり撲殺が一番自然かしら」


 喫茶店で美姫が言った言葉と共に、金属バットを持って目をギラつかせる自分の姿が頭に浮かんだ。

 こんな言葉をメモに残す人間に、彼女の事をとやかく言う資格があるものか。


 これまでスキップによっていろいろな災難を体験した。人前で盛大に転ぶ事など日常茶飯事、自転車で田んぼに落ちた事もある。怪我は尽きない。いちいち怪我の理由など気にしなくなるほどに。しかし、今ほど自分が信じられなくなるようなスキップはなかった。


 このままでは美姫を助けるどころではない。かといって諦める訳にはいかない。

 美姫を助けるために自分自身の揺らぎをなくす。まずは高徳真春という人間を知らなくてはならない。


 自分の知らない自分を知るには他人に聞くしかない。明日はまた学校だ。真春は唯一の友人であり親友の守谷秋羅もりやあきらに相談しようと決めた。

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