猫とカレーライス

 目を覚ました時、部屋に充満した熱気に殺されるのではないかと思った。昼過ぎの太陽が放つ熱線を窓越しに受けつつ、冷房さえつけずに眠っていた。体に汗を吸った制服がまとわりついて気持ちが悪かった。一度シャワーを浴びて、汗と一緒に晴れない気分も洗い流してしまおうと思った。


 結局汗だけしか洗い流せなかった真春は、以前美姫と待ち合わせをした時に歩いた道と同じ道を歩いていた。道は同じでも心持ちはまるで違っていることが何だか不思議に思えた。つい二日前はキラキラしたものしか目に入らないような心境だったのになと考えているうちに、目的の場所に到着した。駅前に独特な雰囲気を醸し出して建っている【喫茶ア・アロハ】である。


 店内に入ると、相変わらずの多国籍な置物達が出迎える。続いて老人店主のか細い声。真春は「お好きな席へどうぞ」という声に従い、店主と向かい合うようにカウンター席に腰を下ろした。


「カレーライスを一つ」

「かしこまりました」

 注文を聞いた店主は真春に背を向けて鍋の相手を始めた。

 ふと、猫のミィミィ鳴く声が聞こえたかと思うと、置物の一つだと思っていた陶器のように白い猫が、真春の方へトコトコと歩み寄ってきた。


「お客さん猫は大丈夫ですか?」

「ええ、大好きです」


 猫は真春の側で鼻をクンクンと動かすと、「撫でる許可をやろう」と言わんばかりに、上品な目を真春に向けながら頭を寄せてきた。


 真春は猫の我が道を行く性格が好きだ。頑固で大胆で撫でてやりたくなる。頭を何度か撫でた後、今度はその手を顎の下へ移し指でくすぐるように触れる。猫は気持ち良さそうに目を閉じて寝転がり喉を鳴らした。


「その子が体を触らせるなんて珍しいことですよ。きっとお客さんの匂いを気に入ったんでしょう」

 店主は顔の皺をより深く刻む笑顔を見せると、カレーライスの盛り付けを済ませた。

「お待たせしました」


 真春は猫から手を離し、出されたカレーライスを観察し、一口食べる。――間違いない。その瞬間一つの仮説が確信へと変わった。


「おじいさん……いえ、青原さんですよね?」

 店主が不思議そうな顔で真春を見つめる。

「ええ、青原登治とうじですが、お知り合いでしたかな? どうも歳をとると忘れっぽくて」


 やはりこの老人の名は青原だ。今目の前にいる人物こそ、美姫のおじいさんだった。自分のおじいさんの店で殺害計画を話題にするとは、本当に美姫は大胆な性格をしているなと、ある種の関心を覚えた。


 昨夜美姫が作ってくれたカレーライス――おじいちゃん直伝だと言っていた――その味は、今口にした【喫茶ア・アロハ】のカレーライスとほぼ同じだった。違うのは真春の好みに合わせた辛さくらいだ。統一感のない店内の置物の数々は、全国各地、世界各国を旅してきた美姫の両親からの土産だと考えると納得がいく。極め付けは美姫の家の表札を見た時の既視感だ。その正体はこの店の窓に描かれたローマ字表記の店名『A・AROHA』だったのだ。奇しくも美姫のあだ名を考える時に使ったアナグラムで、AOHARAを並び替えるとAAROHAになる。


「俺は青原美姫さんのクラスメートです。あなたは美姫さんのおじいさんですね?」

 真春は確信を持って登治に尋ねた。しかしその答えは意外なものだった。


「ミキ――ですか? 何だか懐かしい名前のような気はするのですが、最近どうも記憶が曖昧でして」

 登治は首をかしげてみせた。

「私にはミキと言う孫がいるのでしょうか?」


 質問に対する答えが思っていたものと違っていたどころか、逆に聞き返される始末で、真春は言葉を失ってしまった。

 いくら忘れっぽいからと言って、普通孫の存在を忘れるだろうか? しかも美姫の話を聞いた限りでは多くの時間を共に過ごしたはずなのに。


「えと、このカレーの作り方を誰かに教えた覚えとかもないでしょうか?」

「カレーですか……。カレーと言えば、何ヶ月か前にこのカレーを出してクレームを受けた覚えはありますが。何でもルーの中に虫が入っていたとかで、近くの高校の制服を着たお客さんがお怒りになりまして」

「近くの高校って言うと宇治舘高校ですね」

「おそらくそうでしょう。とにかく、その少年には悪いことをしました」

 登治は悲しそうな顔で、カウンター内に並んだグラスを磨き始めた。


「お店の評判は大丈夫だったんですか?」

「それまでは駅前という立地もあってそれなりに盛況でしてね。常連さんと毎日会話をするのが日課になっていたくらいなんですが。その件以降は寂しいもんですよ。飲食店でその手の騒動は致命的ですから」


「こんなに美味しいカレーが食べられるんだから、また賑やかになりますよ。きっと常連さんも、もう一度ここの料理が食べたくなるんじゃないでしょうか」

「しかしあれ以来物忘れが激しくなりましてね。今では毎日顔を合わせた常連さんのことも、どんな名前と顔だったか全く思い出せなくなってしまいました」

 登治は寂しさを含んだ笑顔を見せた。


 ここまで登治の話を聞いて、真春はまた一つの仮説を組み立てた。この店でクレームを出した宇治舘高生が瀧生なのではないだろうか。店で常連と毎日会話をするのが生きがいとなっていた登治は、クレームが原因で生きがいを失い痴呆の気が現れた。そしてそれは大切な孫である美姫のことを忘れるまでに至る。その結果美姫は瀧生に恨みを持ち、殺害計画を企てた。こう考えれば筋が通る。


 真春は自分の推理をメモに記入しつつも、同時にどこか釈然としない気持ちも抱えていた。結果的に登治が苦しんだものの、料理に虫が入っていたことを申告した瀧生の行為に、責めるべき要素はないのではと思う気持ちもあったからだろうか。


 気持ちが原因不明のもやに覆われている理由が、推理を記入しているメモ事態にあるのだと、真春はレジでカレーライスの代金を支払う際に気が付いた。


「またミーコのこと撫でてやってくださいね」

 出口へ向かう真春に登治がニコニコと声をかけた。真春は驚いて振り返る。


「この子、ミーコって言うんです」

 見ると登治が先程の白猫を優しく撫でている。


「この店の名前を決めたのは登治さんですか?」

「ええそうですよ」

「そうですか。……その子はいつから?」

「先週拾った野良猫です。獣医にもちゃんと診てもらったので、病気の心配はありませんから安心して可愛がってやってください」

「大切にされているんですね」

「私の生きがいです」

 登治の顔に幸福が色付いて、皺をよりいっそう深く形作った。


 真春は登治に別れを告げ、ミーコに手を振ってから店を出た。

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