青原

 目を覚ますとそこに美姫の姿はなかった。ただその場所に微かな温もりだけが取り残されている。彼女が目覚めてからそう時間は経っていないのだろう。

 真春は容赦なく降り注ぐ朝日に目を細めつつ、一度大きく伸びをしてから昨日着てきた服に着替え、部屋を出た。階下を目指しながら、鼻が香ばしい空気を取り込んだことに気が付いた。その香りに誘導されるようにキッチンへ向かうと、そこには美姫の姿があった。


「おはようハル。丁度今起こしに行こうかと思ったところよ」


「おはよう……」

 真春は力なく答えると、壁に掛けられた時計に目を向ける。秒針の代わりに、金色に輝く振り子が左右に規則正しく揺れていて眩しい。


「まだ六時半か。随分早いな」


「これくらい普通でしょ。ハルが遅いのよ」

 別に早起き勝負をしていたわけでもないのに、美姫はやけに誇らしげな顔をした。


「ほら、トーストとサラダ用意したから食べましょう」

 テーブルの上には二人分の朝食が並べられていた。うちでは朝食にトーストが出てもサラダまで出ることはない。


「今日は何か予定はあるの?」

 トーストにバターを塗りながら真春が尋ねた。今日は平日だが、高校の創立記念日のため授業は行われない。


「ちょっとね。ハルは?」

「俺もちょっと行くところがある」

 美姫が「そう」と気のない返事をする。早くから朝食の準備をした美姫はすでに化粧も済ませている。昨夜のすっぴんも無防備でいいものだったが、今の美姫には完成された美しさがある。


「いろいろもてなしてくれてありがとう。ミーコの説得に来たつもりだったのに、俺普通に楽しんじゃってたよ」

「言ったでしょ。今の私はハルのための私だから」

 その言葉を聞いて、真春は心臓を細い針で刺されたような、あるいは糸状の物で縛り付けられたような胸苦しさを覚えた。昨夜腕の中に美姫の体温を感じながら、何故自分が今こうしていられるのかを考えたことを思い出した。考えた結果、知りたくなかった結論に辿り着いてしまったことを……。


「なあ……一つ聞いてもいいか?」

「急に改まってどうしたの?」

「ミーコってさ……俺が毎日一時間記憶を失うことを、知ってたんじゃないか?」

 真春の言葉に、ただでさえ大きな美姫の瞳がさらに大きく開かれる。


「……やっぱりそうなんだな。思えば駅前で待ち合わせた時も、昨日この家に来た時も、君の第一声は『来てくれたのね』だった。約束をしているんだから来るのは当たり前なのに、君は僕が約束を忘れる可能性を考慮していたんだ」


「……ごめんなさい」

 それだけ言うのがやっとであるかのように、美姫が小さな声を絞り出した。真春はさっきまで以上の胸の苦しみを感じた。自然と表情も険しくなり、嫌な汗が背中を伝う。


 スキップの事を知ったうえで近付いてきたというのなら、それは利用しやすい相手だと思ったからだろう。簡単に騙せると。そのために付き合いまで……いや、それも嘘でいいんだ。嘘でも恋人だと宣言さえしてしまえば、真春にその真偽を探るすべはないのだから。


「ごめんなさい」

 もう一度、今度はさっきよりも幾分か大きな声で美姫がつぶやいた。


「いいんだ。君が偽りの恋人だったとしても、君を守りたい気持ちに変わりはない。最初から君のことが好きだったんだから」

 強がりで言っているつもりはないのに、次々と溢れる感情に視界がぼやける。


「俺が事故で何ヶ月も入院して、やっと学校に戻れた初日のこと覚えてるか? あの時、クラスのみんなからって花束を貰ったり、みんなが退院おめでとうって言ってくれたりしたんだ。でも、『おかえり』って言ってくれたのは君一人だけだった。君を好きになるのは簡単だったよ。たったそれだけの理由なんだから」

 真春は鼻をすすり口から大きく息を吐いた。


「だから今度は、俺が君におかえりって言おうと決めたんだ。復讐にとらわれた君を連れ戻した後で。恋人でもそうじゃなくても同じことだ」


 美姫は背中を丸めて涙をこらえていた。昨日までの真春なら心配してその小さな背中を擦っていたかもしれない。しかしそれは恋人のすることだろうと真春は思った。


「じゃあ、俺もう行くよ。他にも気になることがあるから。ありがとう――青原」


 そのまま真春は振り返ることなく美姫の家を出た。玄関の戸を閉めるまで、彼女の鳴き声が真春の背中を叩いていた。




 太陽は容赦なく照り付ける。照らされる人間が笑っていようと泣いていようと、その心境を理解したり配慮したり、そんな気の利いたことをする気配は微塵もない。日光を浴びると脳内のセロトニン神経が刺激され、抗うつや不安を抑えるなどの効果がみられると聞いたことがあるが、今の真春にはそんな日光でさえ煩わしかった。


 真春は家路を力なく歩いていた。公園の脇を通ると、水場で戯れる二羽のスズメが目に付く。心の模様とはまるで違うまぶしくきらめく朝の光景に、ただただ嫌気がさした。視界に入るものが微笑ましく爽やかであればある程、心の中にドス黒い何かが広がっていくような気がした。美姫の手前強がってはみたものの、暖かく幸せに包まれた時間が、全て美姫の自己犠牲の精神の上に成り立っていたのだと思うと、自然と涙が溢れてくる。


 自分が美姫を抱きしめている間、呑気に落ち着くなどと感じていた間、いったい美姫はどんな心境だっただろうか。目的のために仕方なく体を預ける行為は、ただひたすらに苦痛だったことだろう。美姫は瀧生を殺すためにまず自分自身を殺したのかもしれない。きっと今の彼女に心の安らぎなどないのだろう。それなのに自分は彼女を心の安らぎにした。彼女の気も知らないで実に間抜けだ。


 ――そう言えば美姫は間抜けの意味でハルと呼んでいたな。


 皮肉のこもったそのあだ名はまさに今の自分にぴったりだと思った。しかしそんなあだ名ももう耳にすることはないだろう。もう演技はしなくていいと伝えるために真春がミーコを青原と呼んだように、多分次に美姫に会う時そこにハルはいない。いるのは高徳君だ。そう思うと家路をぼやけさせる涙の勢いが増した。


 家に着いた真春はそのまま自室のベッドへ倒れ込んだ。このまま一度眠り、今の負に満ちた感情は夢の中へ置いてこよう。目を覚ましたら美姫を助けることだけを考えるんだ。そう決意した真春は、温もりなどどこにもない夏用シーツの上で目を閉じた。

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