拳一個分の勇気
キッチンから、軽快なリズムで包丁とまな板のぶつかり合う音が聞こえる。耳にするだけで、日常的に料理をしていて包丁の扱いに慣れているであろう事がうかがえる。
真春はリビングに通され、美姫が夕飯を作り終えるのを待っていた。
「適当にくつろいで待っていて」と言われソファに腰かける真春だったが、緊張のせいでとてもくつろげたものではなかった。どうやって落ち着いたものかと考えているうちにも料理は順調に進んでいくようで、今度は何かを煮込む音が聞こえる。点いているテレビの音はまるで耳に入らなかった。
「カレーは甘口と辛口とどっちがいい?」
リビングとキッチンを繋ぐドアのわずかに開かれた隙間から美姫の声がする。
「普通くらい……中辛かな」
「わかった。あとルーだけ入れたらできるから」
土日に家でも見るような、母が夕飯を作り父が待つ姿。そんなよくある光景に、こんなにも胸が高鳴るとは知らなかった。
家での光景を思い出したせいか、少し落ち着きを取り戻した真春は、テレビでアナウンサーが話す内容に頭が追いつくようになった。
『〇〇県で高校三年生の男子生徒が川で溺れて死亡した事件で、被害者はイジメにあっていたとの証言が――――当時現場には複数の少年がいた事が目撃されており――――橋から突き落とされたのではないかとの見解が――――』
ふと背後に気配を感じる。真春が振り向くと、リビングとキッチンを繋ぐドアのわずかに開かれた隙間から、美姫がテレビ画面をジッと見つめていた。――無表情。均衡のとれた美しい顔から表情を取り除くと、それはまるでマネキンのようで温度を感じさせない。
「ミーコ?」
真春が恐る恐る声をかける。美姫がマネキン状態のままで目線だけを真春に合わせた。
「やっぱり、川に落とすのが一番事故らしく見えると思わない?」
「そううまくいくとは限らないよ。犯人が捕まるのも時間の問題だ」
「私は捕まらないわ」
そう言った美姫の顔に感情が戻ってきた。まず悲しそうな表情。次に笑顔。
「夕飯、できたわよ。早く食べましょう」
美姫の作ったカレーは絶品以外の言葉が思い浮かばない程美味しかった。大きく乱切りされた野菜がゴロゴロと入っていて、昔ながらの家庭料理特有の優しさを感じさせる味だ。
「何だこれ、めちゃくちゃ美味い!」
「ありがとう」
真春の感想を聞いて美姫もカレーを食べ始める。
「お店で食べるより全然美味いよ」
「おじいちゃん直伝なのよ」
そう言った美姫は、嬉しさと悲しさが混ざり合った顔をしていた。
「おじいちゃんって、さっき寝てる時も言ってた」
少し間を置いてから美姫が話し始めた。
「両親が娘を置いて旅行ばかり行っていたから、私はおじいちゃんと過ごす時間が一番長かったの。小さい頃はたくさん遊んでもらったし、大きくなってからは料理を教わったわ。だから、私はおじいちゃんを傷付ける者は誰だろうと許さない」
「それが、瀧生を憎む理由?」
「……そうよ」
それ以降夕飯を食べ終えるまで、始終うつむいたままの美姫が言葉を発する事はなかった。
その後順番に入浴を済ませ、真春は美姫が用意したTシャツとハーフパンツに身を包み、美姫の部屋にいた。
「ベッドは一つしかないけどいい? もし嫌なら下の両親の部屋を使ってもらってもいいけど」
肌触りの良さそうな白いシルクのパジャマを着た美姫が真春に尋ねる。
「えっ? 一緒に寝るってこと?」
「ハルがそれで良ければね」
「やっぱりミーコって大胆だよな」
「大胆でなければ人を殺そうだなんて思わないわ。それに、計画を実行するその時までは、ハルのための私でいたい」
「じゃあもし計画を実行しなかったら、その時はずっと俺のためのミーコでいてくれるのか?」
「悪いけど実行は決定事項よ」
そう言いながら美姫がベッドに入った。シングルベッドの奥側に体を追いやって、真春が入れるだけのスペースを開けている。そのまま顔だけを真春に向けて「どうする?」と言うような目で見ている。真春は無言でベッドの空いた部分に横たわり、その後美姫が枕元のリモコンで部屋の電気を消した。
昨日の夜までは片思いの相手でしかなかった美姫と、今一つのベッドで一緒に寝ている。何故そこまでの関係になれたのかはわからない。わからないだけに今こうしていることが不思議でならない。
これまでにも、何故こうなったのかわからないという状況は何度かあった。もちろんスキップのせいである。しかし今ほどもどかしい思いをしたことはない。もしもちゃんと自分の力で美姫と付き合いそれを覚えていれば、今頃堂々と美姫のことを抱きしめていただろうか。そんなことを考えている真春の体に、白くで滑らかな腕が絡みついてきた。
「……ハル」
腕に力が込められる。
「私は何を言われても計画をやめるつもりはない。でもその反面、ハルが何とか止めようとしてくれて嬉しいと思う私もいる。感謝もしているし、こんなことに巻き込んでしまって申し訳ないとも思ってるの。ありがとう……ごめんね」
「……ミーコ」
真春は静かに美姫の手を握る。
「俺はさ、こうやってずっと君と一緒にいられたらと思っているだけなんだよ、きっと。殺人計画なんて実行してしまったら、もし仮に事故で片付いてもその後に残る君はきっと今の君とは違う。今と同じように一緒にはいられなくなるのかも。それが怖いだけなんだよ」
そこまで言って寝返りをうち、真春と美姫が向き合う。
「俺は正義の味方でもヒーローでもない。ただミーコのことが好きなだけだ」
電気の消えた部屋の中に、窓から星の明かりが優しく注ぎ込んでいる。やわらかな光に照らされた美姫の顔を見ると、瞳が普段よりもわずかに潤んでいる。
「ハルとは……こんな出会い方…………したくなかったな」
美姫は片手で前髪をとかし、かろうじて涙を引き留めている瞳を隠した。
「……ミーコ」
「……ハル」
お互いの背中に回した腕に力を込めて、体を寄せ合う。拍子に前髪が垂れ、目が合う。許容量の限界を超えた美姫の瞳は、とうとう涙を溢れさせた。真春は「夕方あれだけ泣いたのに、その細い体のどこにそれだけの涙が収まっていたのだろう」と考え、直後「それだけのものを背負わされているんだな」と結論づけた。
夕方寝ている美姫にしたように、真春は指の背で涙の軌跡をなぞった。今度は指が濡れる。
「ミーコって、やっぱり猫みたいだな」
「やっぱりって何よ」
「頑固で大胆。あと、寝ている姿を見ると撫でたくなる」
「そういうことサラッと言うのね。もうちょっと緊張とかしない訳?」
「それも猫っぽいって話に繋がるんだけどさ、ミーコを抱きしめていると不思議と落ち着く」
「……ヘンなの」
「……君のせいだよ」
すでに美姫の涙は止まっていて、二人はお互いの顔を間近に見ながら笑っていた。二人の顔と顔の距離は拳一個分程で、真春の視界いっぱいに美姫の笑顔がひろがっていた。これだけ近ければ、何かの拍子に唇同士が触れ合うかもしれない。真春はその何かがほんの少しの勇気だったことを、やわらかな感触を確認しながら理解した。
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