罪悪感よ、なくなれ

 その家はローマ字の表札に似合うおしゃれな洋風の家だった。表札自体もフォントが流れるような形で、こだわりを感じさせるものだ。真春はその表札を見て何かを思い出しそうな感覚にとらわれたが、それが何なのかまではわからなかった。


 玄関の道沿いの部分に数段の階段があり、そこを上った所にあるこれまたおしゃれな門扉が開いていて、その向こうに人影がある。


「来てくれたのね。どうぞ、入って」

 真春に声をかけたその人物はまぎれもない美姫であった。美姫はそれだけ言って花の形をしたレリーフが施された戸を開けて家の中に入っていった。ここは美姫の家だ。


 真春は慌ててメモ帳を取り出す。そこには秋羅から聞いた瀧生の話の後に『美姫を説得するため電話する→美姫の家に呼ばれる』とあり、その下に美姫の家周辺のものと思われる簡単な地図が書かれていた。


 美姫を改めて説得したい。これは秋羅の話を聞いた後に真春が考えていた事と一致した。スキップが起ころうとも、考え行動するのは真春自身なのだから当然の事だ。それよりも、真春はそう思った理由の方に疑問を持った。

 ――秋羅の話を聞いても真春は瀧生を殺したいとは思わなかった。


 確かに直接関係の無い秋羅に手を出されたとなれば怒りの感情は湧く。しかしそれ以上の暴力をぶつけるという選択を、本当に自分がするのだろうか? あのメモの内容については、まだ真春の知らない真実が隠されているように思われた。


 いつまでも美姫を待たせる訳にはいかないと、真春は駆け足で家に入った。

「先に部屋で待ってて。私はお茶を用意してから行くわ。部屋は二階の右側だから」

 恐らくキッチンがあるのだろうと思われる方向から美姫の声がした。


 言われた通り真春は階段を上ると右側のドアを開け中に入った。ドアを開けた瞬間から柔らかな香りが真春の鼻をくすぐった。瀧生殺害の話をしている時にもこの香りが漂っていた。これは美姫の香水かシャンプーか、はたまた着ている服に使われた洗剤の香りだろうか。何にせよ美姫自身からほのかに漂っていた香りに包まれ、今自分が美姫の部屋にいるという夢のような状況が現実であるのだと実感させられた。


 どこに腰を下ろすべきか少し迷って、やっと部屋に敷かれたカーペットの隅に座ったところで美姫がトレーを持って現れた。


「お待たせ。紅茶とお茶菓子よ」

 座卓の上に二人分の紅茶と、やけに派手な包みのお菓子が並べられた。


「お茶もお菓子も何だかおしゃれだね。うちなら麦茶と饅頭だよ」

「両親が旅行好きでね。いろいろな国のお菓子とかをよくお土産に買って帰ってくるの。昔は国内が多かったんだけどね」

「お土産にって……君は行かないの?」

 まだ美姫の呼び方を確認していなかった事を思い出し、真春の質問は何ともぎこちない形になってしまった。


「両親は子供を平気でおいていく人たちなの。ところで今の、彼氏らしからぬ呼び方ね」

 美姫はからかうような笑顔を見せた。やはり笑顔の方が何倍も魅力的である。


「何て呼べばいいかな? ……美姫とか?」

「それはやめて。アイツと同じ名前何て嫌なの」

 つい先ほどまでの美姫の笑顔が、その鋭い眼光の奥に消え去った。が、戸惑う真春を見て、少し表情を緩めた。


「ごめんなさい。名前以外なら何でもいいから、好きなあだ名で呼んで」

「急に言われてもな」

「いろいろあるでしょ。似てるものの名前を付けるとか、名前の文字を並び替えるとか」

「アナグラムか……じゃあMIIKでミーコとか?」

「何だか猫みたいね。それでもいいけど」

「じゃあそう呼ぶよ」

「高徳君は真春でいいのよね?」

「せっかくなら俺もあだ名の方が」

「贅沢ね。じゃあハルって呼ぶわ。『マ抜け』って意味でね」

 そう言った美姫は今まで見た中で一番の笑顔を浮かべていた。


 ――この場面だけを切り取ってみれば、今俺は何て幸せな状況なんだろうか。

 しかし今は幸せに浸っている場合ではない。


「間抜けでも間抜けなりにミーコの事は守るよ」

 自分に幸せを与えてくれる彼女に宣言をする。――いや、宣戦布告か。


「瀧生の事なら考えは改めないわよ」

 美姫の目つきが変わる。


「殺して何になるんだよ。それに仮に瀧生が殺されるに値する奴だったとして、バレずに殺すなんて無理だ。警察の目はそんなに甘くない」

「その点は考えがあるわ。問題は私にその覚悟があるかだけ」

 そう言った美姫の表情は険しいままだが、やはり目の奥にはどうしても揺らぎが見えるように感じた。


「ミーコがそこまでしなくちゃいけない事か?」

「私の昔からの唯一のよりどころを奪われたんだもの。絶対に許せない」

 美姫は声を震わせる程に怒りをあらわにしていたが、美姫の目元を見て声の震えは怒りだけが理由ではない事に気が付いた。


 目の前で彼女が泣いている。彼氏ならこんな時どうするべきだろうか。その答えはすでに頭に浮かんでいた。浮かんでいるにも関わらず、それを行動に移す事には若干の抵抗を感じた。それは、付き合った経緯を知らないせいで自分が美姫の彼氏であるという実感がないからだ。手を出してはいけない相手に触れようとしているかのような罪悪感を覚えた。


 そんな事を考えている間にも、美姫の涙は勢いを増して声まで漏れ出し始めていた。彼女の中で何かが決壊したようで、母親を探す迷子のように一度流れ出した涙は止まらない。


 美姫の姿を見て、真春の葛藤はどこかへ行ってしまった。気が付くと美姫の肩を抱き寄せ、頭に手を置いていた。やましい気持ちなど微塵もない。守るべきものを守っている。ただそれだけだった。


「ハル……ごめん……ごめんね」

 腕の中で泣きながら謝る美姫を、真春はより力を込めて抱きしめた。


 泣き疲れて眠ってしまった美姫の頭をそっと持ち上げ、その下にクッションを入れ込んだ。窓を見るともう日が落ちかけている。すっかり冷めてしまった紅茶を口に含みながら考える。――この状況、俺はどうすればいいんだ?


 ふと美姫の顔を覗き込んでみると、頬にまだ涙の跡が残っていた。すでに渇いたそれは、ちょっと触っただけでは拭えないようにも思えたが、手持無沙汰てもちぶさただった真春はそれを指の背でなぞってみた。


「んん……」

 美姫がくすぐったそうに声を漏らす。ミーコというあだ名が猫みたいだと言った美姫の言葉が蘇り、今の反応と相まって美姫が子猫のように愛くるしい存在に感じられた。指から伝わる柔らかさが真春の心を幸福感で満たす。いろいろあって薄れていた喜びが蘇ってきた。ずっと憧れていた青原美姫が恋人で、そして今目の前で眠っている。


 しばらくそのまま美姫の寝顔を見ていた。まるで美術館で彫刻や絵画を眺めるようで、洗練されたそのフォルムは見ている者を飽きさせない。このまま朝までだって眺めていられそうだと思ったところで美姫が寝言を発した。


「んー……おじい……ちゃん」

 まるで自分の寝言にハッとしたように美姫が目を覚ました。

「あれ? 私……」

「おはよう」

「あ、ハル。ずっといてくれたの?」

「勝手に帰ったら玄関の鍵閉められないしね」

「ごめんね。今何時かな」

 美姫が腕時計に目を向ける。


「もう六時だね。良かったら夕飯食べてく?」

「えっ? いや、でも」

「いいじゃん、付き合ってよ。親は今頃ヨーロッパだから一人で退屈なの。ていうか泊まっていきなよ」


 泊まったからといってどうこうなどと考えたつもりではないが、自然と心拍数が上がるのを感じる。

「ミーコって結構大胆だよな」

「そうかな? 普通だよ。じゃあ決定ね」


 美姫の勧めで母に「友達の家に泊まる」とメールを送り、真春にとって人生で二番目に忘れられない夜が始まった。

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