穢れなき純白

「……おばさん、呼んでくるわね」

 真春の目覚めに驚いた様子の美姫はそう言って病室を出た。しばらくして真春の母親が一人でやってきた。


「真春! 良かった」

 母親の目元は涙に濡れて、窓から差し込む陽射しをキラキラと反射させていた。息子が病院に運ばれるのはこれで二回目だ。心配も人一倍だっただろう。


「ごめん母さん、心配かけて」

「あんたは無事で良かったよ」

「え? あんた?」

 母親の言い方に引っかかった真春が尋ねると、母親は気まずそうに説明を始めた。

 真春は宇治館橋で気を失っているところを発見された。その場には真春以外にクラスメイトの一組の男女がいた。さらにもう一名のクラスメイトが五十鈴川の下流で遺体となって発見されたそうだ。


「じゃあ先生呼んでくるから」

 そう言って母親が病室を出た。そしてそれを見計らったように再び美姫が病室にやってきた。美姫は真春の反応をうかがおうとしているのか、慎重に手探りするように声を出した。


「まだ痛む?」

「痛むってどこが?」

 自分の頭に包帯が巻かれていることにも気が付いていないのか、真春は本気で疑問を抱いたような表情をしている。


「覚えていないならいいの」

「さっき母さんに五十鈴川でクラスメイトが死体で見つかったって聞いたんだ。俺と関係あるのか?」


 一瞬間を置いてから、悲しみや寂しさを彷彿とさせる笑顔で美姫が答えた。

「関係ないわよ。あなたはただ橋で転んだだけ。そして彼も事故で橋から落ちただけよ。誰も悪くないの」

 最後の一言はまるで自分に言い聞かせているようだった。


「それで、橋から落ちたクラスメイトっていうのは……?」


美姫は口を糸で縫いつけられたみたいに開き辛そうにしながら、死んだクラスメイトの名前を告げた。

「――守屋秋羅君よ」


 守屋秋羅。その名前を聞いた瞬間真春の頭の中に一気に膨大な量の記憶が流れ込んできた。頭に流れる映像の中にはあの夜の橋での出来事もあれば、真春にメモ帳を持たせる秋羅、美姫と電話をしている真春など、今まで記憶にはなかった場面があふれていた。それらの映像のいくつかは秋羅が笑っているシーンで始まっていた。


 一番古いと思われる映像では、真春が交差点を曲がってきた車にはねられていた。それは当時の真春の目にも映っていたはずなのに記憶から抜け落ちていた場面――一番初めの一瞬のスキップだった。


 ――はね飛ばされた真春を間近で目撃した秋羅が笑っている。

 真春は理解した。事故に遭った自分を見て笑う知人に恐怖を覚え、それを忘れたい衝動と頭への衝撃が重なってスキップが生まれたのだと。


「大丈夫?」

 言葉を発さずにただ脳内の映像に思いを巡らせる真春に、美姫が声をかけた。


「ああ、大丈夫」

 真春は宇治舘橋で秋羅に殴られる直前、美姫に助けを呼んでくるよう頼み、断られたことを思い出していた。そして、その後消え入りそうな意識をなんとか繋ぎとめて、地面に横たわりながら見ていた光景を。


 あの後瀧生にも手を下そうとした秋羅だったが、彼の計算は実にあっけなく崩れ去った。暗闇の奥から自転車のライトが迫り、それに気が付いた秋羅の手が止まった。


「その必要はないわ。深夜十二時半に宇治舘橋で何かが起こるとすでに警察に連絡してから来たから」

 それが美姫が真春に言おうとしていた言葉だった。もし瀧生を殺していたら、真春の読み通り美姫は自らの命も絶つつもりでいた。そして万が一自殺に失敗した場合は大人しく然るべき罰を受けようとも。


 計画の失敗と、美姫への思いが届かなかったことに追い詰められた秋羅は、歪んだ好意の末に宇治舘橋から飛び降りた。重力に飲まれ橋の下へと落ちていく秋羅の目は、どす黒い恨みの色に染まって真春を睨んでいた。

 必死に開いていた真春の目は、意識と共にそこで閉じられた。


「辛そうな顔してるわ。体が痛む? それとも何か思い出したの?」

 美姫がまた反応をうかがうように、真春の顔を覗き込みながらたずねた。


「思い出したよ」


 美姫が悲しそうな顔をした。何も思い出さなければ真春の中で秋羅はずっと友達でいられたかもしれない。


「――思い出したよ。全てが終わったら君に言いたかった言葉を」


「えっ?」


 辛く悲しい真実をすべて思い出したうえで、真春は優しく微笑んでいた。開け放たれた窓から真っ白な病室にやわらかな風が吹き込んで、美姫の長い髪を揺らす。花瓶にささった病室と同じ白のカーネーションの香りが鼻をくすぐっていた。

 穢れなき純白の花の香りを精一杯吸い込んで、真春は口を開いた。


「お帰り、ミーコ」

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忘却スキップ 長良 エイト @sakuto-3910

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