青原美姫
青原美姫は三城瀧生を憎んでいた。
瀧生のせいで彼女の祖父――青原登治は痴呆を発症し、生きがいだった店の常連のことも、多くの思い出を共有した彼女のことももう思い出せなくなってしまった。
日常生活には問題がないのに、何度あなたの孫だと自己紹介をしても、次に会った時に登治は美姫に初対面の挨拶をする。ドラマの中では、大切な人との時間を過ごすうちに記憶がよみがえるなんて展開が定番だが、彼が店を再開しても、美姫が何度彼に会いに行っても、登治の記憶はよみがえる気配を見せなかった。
おじいちゃんは本当は最初から私のことなど忘れてしまいたいと思っていたのだろうかと、美姫はつい考えてしまう。そんな思いを抱きながらも、美姫は祖父に会いに行くことは欠かさなかったし、病院での定期検査にもついて行った。
検査には結構時間がかかるそうだ。美姫は検査室の外で待つのも退屈だと思えて病院内の散歩を始めた。
そういえばこの病院に交通事故に遭ったクラスメイトが入院していると学校で聞いた。特に知り合いではなかったが、いい暇つぶしになるのではないかとの思い付きで、美姫は彼の病室を訪ねることにした。ナースステーションで確認するとすぐに部屋の場所を知ることができた。
病室のドアをノックする。渇いた音が病室の中で反響するのが外からでもわかった。返事はない。
誰にというわけでもなく断りの言葉を囁きつつ美姫はドアを開ける。
広い個室に置かれたベッドの上に目的の人物、高徳真春はいた。
美姫はベッドの横に置かれた椅子に腰かける。収まりのいい位置を模索して椅子を動かした拍子に椅子の足が床をこすって、再び室内に音が反響する。
彼女の気配からか単純に椅子が鳴らした音からか、とにかく夢の世界から戻ってきた真春は、美姫の姿を見付けて目を丸くする。
「青原さん、どうしてここに?」
「ちょっと暇つぶしに寄っただけよ」
真春は嬉しいような恥ずかしいような顔をしている。
「怪我の具合はどう?」
「怪我の方はもう大丈夫だよ」
「怪我の方は?」
「あ、いや……なんでもないんだ」
「そう。じゃあもうじき学校に戻ってくるのかしら?」
「うん、きっとそのうちね」
彼に特に何かの感情を抱いたわけではないが、さっきまで祖父の回復を願っていた余韻のせいか、美姫はなんとなく真春の回復も願っていた。彼の母親が病室にやってきたので、軽く挨拶だけして美姫は病室を出た。
あれ以来お見舞いにはいっていないし、たったあれだけの時間で距離が縮まったとも思ってはいないが、学校に復帰した真春に対して美姫は親しみを込めて「お帰り」とほほ笑んだ。
事故に遭った同級生は復帰したが、相変わらず登治の記憶が戻る兆しは見当たらなかった。日に日に瀧生への怒りが増していく。ある日、瀧生を刺殺しそうなほど鋭い美希の視線に気が付いたクラスメイトが声をかけてきた。
「瀧生のことが憎いのか?」
突然のことに驚き、返事を返せなかったが彼は構わずに続けた。
「知ってるよ、あいつのやったことも、あの店のことも。君のおじいさんの店なんだってね」
「どうして?」
緊張で縮こまった喉がかろうじて霞んだ声を押し出した。
「瀧生の悪事は有名だし、俺って結構情報通なんだ。君のおじいさんの店の方はほとんど推測だったけど、その反応を見る限り当たってるってことだよな」
彼は推測が当たったことに対して別段喜んだりする様子はない。表情を変えずにただ淡々とルーチンワークをこなすように口を開く。
「瀧生のことは殺したいほど憎いけど、実際行動には移せなくて頭を抱えてるんじゃないか?」
これまでまるで会話もしてこなかった相手に、いざ言葉を交わして一分ほどで心中を見透かされているようで気分が悪かった。いや、今行われているのはただの答え合わせで、私の心など彼はとっくに見透かしていたのだろうと美姫は思った。そして渋々頷く。
「俺に考えがある。うまく利用できそうなやつがいるんだ」
そう言って彼は真春の名前を挙げた。なんでも記憶障害を抱えていて、一日に一時間記憶を失うらしい。その失った一時間の記憶の中で、美姫と近しい仲になって瀧生の殺害に協力することに同意したことにしてしまおうという計画を彼は説明した。そして瀧生の死が事故ではなく事件だと発覚してしまった際には、全ての罪を真春に背負わせようと。
「そんなの高徳君に悪いし、うまくいくなんて思えない」
「一度覚悟さえしてしまえばやり遂げられるさ。それに俺もサポートはするよ」
「でもどうしてあなたが?」
これまで崩れなかった彼の表情が、少しだけゆるんだように見えた。
「ずっと君を見てた。だから君の異変にも気が付いたし、今君の力になりたいと心から思ってる」
彼の好意を歪んでいると普段の美姫なら思ったかもしれない。ただ、今はそれを歪んでいると思えないほどに美姫自身が歪んでいた。
「ありがとう」
こうして瀧生殺害計画は静かに幕を開けた。
計画の進行において一つの誤算が生じた。初めは罪悪感を押し殺して真春を巻き込んだものの、自分が巻き込まれたことへの恐怖よりも、美姫を人の道から外れさせまいという意志をその目に宿した彼に、彼女はいつしか惹かれていた。計画を持ち掛ける歪んだ好意とは違い、真春のそれは眩しいほどに真っ直ぐだった。
罪悪感を払拭するために彼のそばで彼の望む自分でいようとする気持ちと、自らの幸せのために彼と共に時間を過ごしたい気持ちとが胸の中で窮屈そうに共存していた。
どちらにも正直になれず宙ぶらりんだった美姫の前から、真実に気が付いた真春が姿を消した。――かに思えた。
美姫と別れた後も真春は彼女のために動き、登治の中に眠る美姫の痕跡を見つけ出してた。初めから彼を信じていれば良かったのだと今になって気が付いたことが、ひどく情けなく申し訳なく思えたようで、深夜十二時宇治舘橋を背に、美姫は真春の顔を直視できずに佇んでいた。
「誰だ!?」
忍び寄る何者かの気配を感じ取ったのか、真春が背後の暗闇に叫んだ。
真春の問いかけに返ってきたのは、暗闇が醸し出す雰囲気とは不釣り合いな笑い声だった。心の底から楽しくてしょうがないというその声は、学生でにぎわう教室やカップルや家族であふれる遊園地で聞くには自然だが、今この場で聞くにはなんとも不気味だった。真春もその不気味さにあてられたのか、右手を側頭部に当てて一瞬ふらついたように見えた。
真春の肩に美姫が手を添えている間に暗闇から足音と共に誰かが迫ってきた。その誰かはついに街灯のもとに姿をさらした。
「お前は――秋羅!」
真春が驚嘆の声を発した。しかし美姫の表情に驚きの色はなかった。秋羅がこの場にくることは想定していたからだ。美姫に瀧生殺害計画を持ち掛けたのは他でもない彼なのだから。
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