忘却スキップ

長良 エイト

スキップがもたらす物は幸福か

「それじゃあ明日、一時に駅の東口ね」


 高徳真春たかのりまはるは通話が切れた携帯電話から耳を離せずにいた。


 ――今の声はクラスメイトの青原美姫あおはらみきのものだ。しかし美姫の連絡先など知らなかったし、なぜ今自分が彼女と話していたのかもわからない。


 真春は一年前に交通事故に遭った。勢いよく交差点を曲がってきた自動車によって、横断歩道を渡る真春の体は宙に浮き、叩き付けられる。硬いアスファルト。意識の喪失。


 目が覚めたのは一ヶ月間生死の境をさ迷ってからの事だった。以来、真春はある後遺症に悩まされている。医者もこんな症状は見た事がないらしく、真春の脳が自力で回復するのを待つほかなかった。


 『一日に決まって一時間、記憶を失う』


 真春の体は一日を正常に過ごすが、その中の一時間だけ、真春には自分が何をしていたのか全く思い出せない。だから今も、なぜクラスで一番の美少女である美姫と電話をし、待ち合わせの約束をするに至ったのかがわからなかった。一時間前に自室でゴロゴロと過ごしていた記憶のすぐ次が真春にとっては今なのである。


「明日、つまり土曜日一時に駅で……もしかしてデートか?」


 もともと学校でも目立つ存在ではない真春。事故の後数ヶ月の空白期間を経て学校に戻った真春は、その間に同級生全員に置いて行かれたような気分になって、三年に進級してからもクラスになじめなかった。そんな浮いた存在の自分がクラスのマドンナとデートをする事などあり得るのだろうか?


 真春がやっと耳から離した携帯電話の画面を見ると、通話履歴の一番上にしっかりと青原美姫の名前がある。声だけでわかってはいたが、やはり通話の相手は美姫で間違いなかった。声だけで美姫だとわかった理由は、それだけでわかる程に彼女に好意を持っていたからに他ならない。


「俺、いつの間に連絡先交換してたんだ」


 真春が覚えていないということは、これまでの一時間の記憶の喪失の最中に連絡先を交換していたという事だろう。


「スキップ中の俺、ナイス!」

 真春は一時間の記憶の喪失の事をスキップと呼んでいた。実際には、真春はちゃんと意識を持った状態で時間を過ごし、その後に一時間遡った分の記憶を失っているのだろうから、意識や時間が飛ぶ――即ちスキップするという表現は間違っている。しかし真春の主観で見れば、時間が急に一時間後に飛ぶように感じられるため、表現の間違いは承知の上でそう名付けた。


 ――経緯はわからないが明日はデートだ。

 その日真春は、明日着ていく服を入念に選んでから眠りについた。


 デート当日、真春は緊張に全身を支配され、結局ぎこちない動きはほどけないままで待ち合わせ場所に到着した。午後一時の三十分も前の事である。


「高徳君、お待たせ」

 二十分程待った真春の耳が、美姫の声を捉えた。


 待ち合わせ場所である駅の東口、小さなロータリーの中心にはこれまた小さな噴水がある。水飛沫が空中に舞って、その周囲だけは六月の熱気がいくらか和らぐ。改札口から小走りで真春に駆け寄る美姫の表情は、そんな噴水前にいた真春よりも涼し気だった。


「ちゃんと来てくれたのね。それにしても高徳君早いわね。だいぶ待たせてしまったかしら」

 美姫が、ノースリーブからすらりと伸びる白い腕に巻かれた時計を見ている。

「お昼は食べてきたわよね? そこの喫茶店で飲み物だけ頼んで話しましょうか」

 緊張で食べ物が喉を通らなかった真春は、お昼ごはんはおろか、朝から何も食べていなかったが、水を差すのはどうかと思い、首を縦に振った。


 爽やかな笑顔の美姫とは対照的に、真春は緊張に包まれ硬い表情が顔からはがれない。主導権は完全に美姫が握った状態で、言われるがまま駅前のレトロな雰囲気の喫茶店【喫茶ア・アロハ】のドアをくぐった。


 薄暗い店内には片手で数え切れる程度の数のテーブルがあり、二人はその中で一番カウンターから遠い角の席に腰を下ろした。アロハという名を掲げながら、店内には提灯や信楽焼の狸、ライオンのはく製、大きなサボテンの鉢植えなどがあちこちに置かれていて、コンセプトがはっきりしない異様な空間が繰り広げられていた。


「アイスコーヒーを一つ。高徳君はどうする?」

「じゃあ僕も同じ物を」

 注文を聞きに来た立派な髭を蓄えた老人の店員が「かしこまりました」と言って席を離れた。


「この店、前にも来た事があるのよ。あのおじいちゃんが一人で経営しているの。お客がほとんど入らないからいつ潰れてしまうかわからないけれど」

「そうなんだ」

 ――店の事よりも美姫の事が知りたかった。


「おじいちゃんもだいぶ耳が遠くなっているみたい」

「そうなんだ」

 ――おじいちゃんの事よりも美姫の事が知りたかった。


 ――連絡先を交換してこうやってデートまでこぎつけているくらいだから、スキップ中の俺は美姫の事を今の俺よりは知っているのだろう。そもそも俺と美姫はどういう関係なのだろうか? 俺は美姫の事を何と呼んでいるのだろうか? 青原さん。青原。美姫ちゃん。美姫。


 頭の中で美姫の正しい呼び方を模索しているうちに、それが声に出てしまっていた。

「……美姫」

 その事に自分で気が付き、慌てて口を閉じる。そして目を向ける。美姫に。


「高徳君」

 美姫は別に先程までと変わらない表情で口を開く。


「まだ飲み物も来ていないのにさっそく本題? やっぱり高徳君も相当溜め込んでいるのね」

 ――どういう事だろう。本題という事は、今日はデートではなく何かの話をするのが目的なのだろうか。


「いいわ。でも内容が内容だから、おじいちゃんがコーヒーを運んで来たら一時中断よ」

 内容については依然わからないが、とりあえず同意の合図として軽く頷く。真春の同意を確認すると、美姫が話を続けた。


「じゃあミキについて……三城瀧生みきたきおの殺害計画について話を進めましょうか」


 今日のデートについて、昨夜布団の中で色々なパターンの妄想を繰り広げたが、そのどれからも程遠い美姫の意外すぎる言葉に、真春は言葉を失った。


 老人がコーヒーを運んで来る気配に美姫が口を閉じる。

 テーブルに置かれたグラスの中で、黒い液体に浮かんだ氷が静かにカラリと鳴いた。

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