秋の章 書道ボーイのワンコイン文化祭
書道。
それは墨で字を表現するだけのものでなく、自分自身を映す鏡だ。
墨で書く字は旅のセーブポイントであり、今まで辿った形跡はリセットできない。俺は今も、自分だけの字を探し迷いながら旅を続けている。
その旅の途中、二つの字に出会い迷っている。
それは恋と愛だ。
俺には付き合っている彼女がいるのだけど、もう一人別に気になるカノジョがいる。彼女達に対する思いが恋か愛なのかがわからないのだ。
俺がずっと信じてきた『恋愛』感情が彼女達の声によって崩れていく。どちらを選んでもいいのだろう。だがその選択によって何を失うかわからないことが怖いのだ。
俺は愛を願っている。恋は一度経験しているため、別のものを知りたいと考えているのだ。だがどちらに対する思いが愛なのか、未だわからず暗闇の深海へと飲まれていく。この問いの答えは墨よりも黒く、深い所まで潜らなければならないだろう。
どちらをも手に入れようとも考えたこともあったが、それは難しい。光を求めただ明るい未来を求める彼女と、影を求めただひたすら過去に縋る彼女達が合うわけがない。彼女たちは表と裏のように同じものを扱っても別の道へ向かう、始めから背を向け合って歩いているのだ。
彼女たちを合わせる方法があるとすれば、それは表裏一体のコインだろう。そうすれば、彼女たちと上手く付き合えるのかもしれない。
自分自身の願う結末は未だ見えないが、それでも辿り着くために泳ぎ続ける。
いつか見る旅の終着地点を目指すためには、ここを超えなければならない――。
◆◆◆
「よ、はかどってる? りょう」
「お、花鈴。ああ、だいぶな」
俺は筆を下ろして肩の力を抜いた。
「それにしても凄い量だね。一文字なのに、ここまでやるかね、普通」
「一文字だからだよ」
俺は深呼吸して言う。
「自分の字を見つけるためには百枚以上描かないと見えて来ないからね」
「そう、あたしには百枚以上描いているように見えるけど」
花鈴はそういって書道教室を眺めている。教室の机に二枚ずつ並べ、教壇、ロッカールーム、全てが俺の字で埋まっている。それでもまだ納得できていない。
「101枚描いたからってできるもんじゃないからな。後はどこまで自分と向き合えるかだ」
書道は一瞬の煌きにあり、そこに達するまでに時間が掛かる。10分で納得できることもあれば、数日掛かっても納得できないこともある。今のものに関していえば、二週間以上になり、スランプ状態と言っていいだろう。
書き始めた頃の紅葉はまだ青かったのに、今、外に見えるものは仄かに赤い。
「……最近のりょう、字が上手くなったよね。妬けるくらいに」
「……そうかな。全然だよ。まだ先は見えない」
きっと迷いながらも何度も描いているせいで、上手く見えているだけだ。本当の俺は醜く、どうすれば二人の彼女を捕まえることができるか、そればかり考えている。
「ねえ、りょう。今回のテーマはどうして『愛』なの? りょうが決めたんでしょ」
「……誰から聞いたんだ?」
「『愛』、染さん」
花鈴から彼女の名前が漏れると不思議と体が硬直する。俺の心にやましい部分があるのだろう。事実、隠しているのだから何もいえない。
「……ねえ、りょう、キスして」
彼女は小さい手で俺の腹をつまむ。決して自分から唇を近づけない所に愛おしさを感じる。
彼女の要求に応えるため、一つだけ軽くするが何も感じない。前までの気持ちが嘘みたいで、ただの儀式のように思えてしまう。
彩華との口づけはもっと熱く、魂を揺さぶるようなものだったのに。
「ねえ、もうちょっとだけ……」
「ごめんな。これが終わったら、ちゃんとお疲れ会をしよう。な?」
「……お別れ会になったりしないよね?」
花鈴の言葉が俺の心に刺さる。
「ごめん……答えなくていいから」
「なるわけないだろう。俺はお前のことが好きなんだから」
この気持ちは本心だ。ただこれが幼馴染に対する『愛』なのか、恋人としての『恋』なのか、わからない。
「……ありがと、あたし、りょうのこと、信じてるから」
「……ああ」
……俺は一体どちらに恋をして、愛を感じているのだろう。
再び筆を置き、鉢巻を外す。それすらもわからずにいるから、俺は俺の字を描けないでいる――。
◆◆◆
「まだいたのか、愛染さん」
「ああ、涼介」
教室に戻ると、彩華がまだいた。チョコレートコスモスを掴み、枝ぶりを確かめている。
「苦戦してるみたいだな」
「あなたほどじゃないわ。どうせまだ完成してないんでしょう」
「……ばれたか」
俺は再び肩の力を抜いた。
「愛染さんは愛と恋はどういう違いがあると思ってる?」
「愛は後ろを振り返るもの、恋は糸の絡まった様子でしょ」
「字の原型じゃない。君の見解が知りたい」
「愛はたくさんあるけれど、恋は盲目よ。一人の相手しか見えていないわ」
確かに彼女のいうことは理解できる。愛には様々な形があり、恋には一つの答えしかない。俺の恋はどちらにあるのかを考える。
「涼介、どうしてあなたはこの字を選んだの?」
「理由はないよ。ただ、俺が知りたいのは愛なんだと思っただけだ。恋は一度知っているから、愛を知りたいと思ったんだよ」
「花鈴さんに恋をしたということ?」
「……それには答えられないな」
「答えられないのなら、私という風に解釈してもいい? 私の初恋はあなたよ。だからあなたも同じ気持ちだったら嬉しい」
彼女が近づいてくるが、距離を取る。これ以上、近づかれたら再び爛れた関係になってしまう。
「駄目だ、俺には花鈴がいる」
「どうして花鈴さんがいたらだめなの? 愛は一つじゃないのよ。一人にこだわる必要はないわ」
彩華の声が脳を柔らかくしていく。彼女の細い指が首筋に迫り、俺の背に根を這っていく。
「まだ途中なんだろう。俺もまだ終わってないから、止めよう」
「作業が終わったらしていいということになるけど、それでいいの?」
「……よくないな」
両手をあげて降参のポーズを取る。俺の心は彼女の牢獄に囚われている。
この魔力には抗えない。
「私はいいのよ、あなたが花鈴さんと結婚したとしても、あなたを愛せるから」
彼女の倫理観はやっぱり歪んでいる。華道の家元にいたせいなのか、吸収できるものは全て吸い尽くし、自分の養分へと変える。それは純粋に花を見ているようで美しい。
だが花鈴の悲しむ顔は見たくない。
「それは本当に愛なのか?」
「愛に形はないのよ、涼介」
彩華は再び耳元で呟く。
「この世に溢れているものは全て愛よ。愛があるから形があるの、生きている花だって、人だって、全て愛があるから生きられる」
彼女の体が俺の体に繋がり、心臓の鼓動が聞こえてくる。
「だからね、涼介。お願い」
彩華は首筋を舐めるように吐息を這わせながら告げる。
「私の体があなたを欲しているの。だから……あなたの体だけでいいから……私を満たして」
◆◆◆
文化祭、当日。
彩華の生け花展示に目を惹かれたのか、大勢の客で賑わい、俺達の教室は展示室としての機能を果たせずにいた。
ユキヤナギにチョコレートコスモス。テーマに違わぬ作品で、会場の客達はうっとりして見惚れていた。花を扱わない俺が見ても、そのテーマは充分伝わる。
二つのチョコレートコスモスが体を捻り合わせて、一つになろうとして同じ方向を向いている。これは『恋』ではなく、『愛』だと直感が教えてくれる。
「……よかったよ、愛染さん」
俺は自分の書を片付けながら告げた。
「これが愛染さんの『愛』だね。純粋に見入ったよ」
やはり彼女には叶わない。彼女の目指す地点は俺の遥か先にある。それは光を受けてまっすぐに伸びる植物のように逞しさと純粋さを合わせ持っていた。
「涼介の字もよかったわよ」
「……ああ、ありがとう」
結局、俺は自分の満足した字を描けず、これまでに書いたものの中から選んで提出した。たくさんの愛の中から一つ選んだだけだ。
「どうしてあなたがあの字を選んだか、教えてあげましょうか?」
俺が何も答えないでいると、彼女は愛の『心』の部分を指した。
「心の語源には様々な説があるけど、この言葉は目に見えないから裏と呼ぶことがあるわ。あなたの心は正直で、裏がない。だから点がきちんと離れているのよ」
彩華にいわれて改めて自分の字を眺める。確かに今まで意識していなかったが、きちんと心の点を離して書いていた。
「私なら繋げて書くけど、あなたのはごまかしがない。この点は表と裏、二つの心をさしているともいうわ。だから、あなたは正直に思ったことを伝えればいいと思う」
彼女の言葉に納得する。直感を信じると言い続け、自分を信じることができず、スランプに陥ったと勝手に決め付けていた。
俺は自分自身で病気になりたいと願っていたのだ。
「これが……愛か」
自分で描いた書を再び眺める。表裏一体でなければならないと思っていた。表には表の解釈があり、裏には裏の領分がある。合わせなくてもそれは一つの愛であり、恋だ。
どちらかである必要もなく、どちらであってもいい。
「何だか吹っ切れたよ、ありがとう。お疲れ会、しないか? 花鈴も合わせて三人で」
「もちろん、いいわよ」
「その時に話しておきたいことがある、だから覚悟しておいてくれ」
俺が強くいっても、彩華は再び口元を緩めた。
「うん、いい知らせだと嬉しいわ」
◆◆◆
文化祭を終えて一週間後、紅葉は完全に染まりきり、
俺達三人は俺の家の庭で月見をしながらぼんやりとくつろいでいた。意を決して立ち上がりコインを掴む。
「ずっと考えていたことがある……その結果、俺には二人とも必要だ。だからこのコインで決めようと思う」
「決めるって何を?」
「どちらか一人を選ぶということね」
彩華は冷静に継げた。
「涼介が考えたことなんでしょう、私はいいわ、それで」
「愛染さん、本気でいってるの?」
花鈴は彼女を見て目を大きく開ける。
「りょう、冗談でしょう? コインで決めるって、そんな博打であたし達と付き合うってこと? そんなの最低だよ」
「じゃあ、あなたは降りたらいい。始めから私達が決める権利なんてないわ」
「降りる訳がない。あたしがどれだけりょうのことを想っているかなんて……あなたにわかるはずがない」
「わかっていないのはあなたの方よ」
彩華は花鈴に鋭くいった。
「あなたは彼に求めすぎなのよ。愛してもらえなくて終わりなら、それは自分に恋しているだけよ」
「好きな人に対して、そんな決め方をされて嬉しいの? 本当に好きならお互いのことを考えるのが愛だよ。そうじゃないと崩れちゃう。あなたの方が一方的よ、それこそ恋だよ」
「私は選んで貰えたらそれでいい。全てを知る必要があるの? 愛とはそういうもの? あなたの愛で彼が字を書けなくなってもいいの?」
「……りょう、どういうこと?」
「すまない、いきなりこんなことを言い出して」
俺は彩華を止めながら花鈴を見た。
「非難されるのは最初からわかってる。愛染さんが言うことも、花鈴の言うこともわかる。ただ俺はこれをしないと、字が掛けない」
「どうして?」
「ずっと鳴り止まない音が聞こえてる。お前は俺の字をいいと言ってくれるが、俺は自分の字を認められてないんだ」
書道は墨の旅だ。旅をすることに思い悩んでいて行き着く先なんて見えるはずがない。まして俺の旅はまだ始まったばかりだ。
「二人から離れようと思った。だけどそれは無理なんだ。切り離した世界で、俺は成長できない」
愛から切り離せた所へ行けるのならそれでいい。だがそんなところは存在せず、この世界には愛が溢れすぎている。誰かが作った筆で、紙で、墨で、俺は書を描いている。その思いを無駄にして、書が続けられるはずがない。
「……あなたは本当に不器用ね。私はそれでいいけど、あなたどうするの?」
「……りょうがそう言うのなら、私も納得する」
花鈴は泣きそうになる目を抑えながらいう。
「仮にりょうがあたしを選ばなかったとしても、あなたのことが好きだから……それで気がおさまるのなら、それでいいよ」
「……ありがとう、二人とも」
俺はコインをポケットに入れ直して再び取り出した。
◆◆◆
「りょう、こっちにいい波があるよ。行かない?」
「ああ、先に行って来ていいよ」
紅葉が終わり季節は冬を迎えようとしていた。俺と花鈴は再び半尺の距離で、風の音を聴きながら波をぼんやりと見ていた。
「りょうが行かないなら、あたしも行かない」
花鈴は嬉しそうに俺の背中をウェートスーツ越しにぺたぺたと触る。
「もう離さないよ。離してって言っても無理だからね」
「はいはい、んじゃ俺が行ってこようかな」
「だめですぅ」
花鈴は俺の背中に抱きついたまま体重を掛ける。
「あれだけ驚かせたんだから、りょうに言う権限はありません」
「悪かったって。何度も謝ってるじゃないか」
「そんなの駄目に決まってるじゃん。一生償って貰わないと、消えないよ」
あの時、俺はコインを投げる前から俺の気持ちは決まっていた。それを彼女は見抜いたのだ。
「だってあのコイン、どっちも表だったでしょ。最初からわかってたんでしょ。この、この」
俺の頬をつねりながら花鈴の口元は緩んでいく。
「ああ、俺が好きなのはお前だけだよ。でもけじめをつけるためにああするしかなかった」
俺が掴んだコインは両方表のコインだったのだ。だからこそ、コインをはじいた時点で花鈴を選ぶことは決まっていた。
「りょうなら、あたしのことを選んでくれると思ってたよ。うんうん」
花鈴はそう言って頬ずりする。動物のような求愛をされても困るが、彼女の気持ちがそれでおさまるのならそれでいい。
俺はあの時、二人の顔を見て直感を信じた結果、花鈴を愛しているのだと思った。彼女の泣き顔を見て、チョコレートコスモスが浮かび、俺を必要としてくれているのは彼女だと悟ったのだ。その後、二枚のうち、表だけしかないコインを掴みそれを弾いた。
後悔はない。初めに『恋』をして『愛』された人物を思い続けることこそ、恋愛だ。俺にとってはその流れが重要で、旅を続けるにはそれだけでいい。
「りょう、来たよ! 綺麗な曲線、見せてね」
「おう、任せとけっ!」
書道に二度目はない。俺は先に見える人生を自分で切り開いていく。
その答えの先に、自分を満たしてくれるものがあると信じて――。
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- つるよしの《受賞歴》カクヨムコン9【エッセイ・ノンフィクション部門】短編特別賞・第二回角川武蔵野文学賞ラノベ部門大賞。 コロナ禍を機に執筆開始。“作品は鈍器。物語とは「静と動」「喜怒哀楽」どの方向でも感情を激しく揺さぶるものでありたい”という性癖の物書きです。 または、たとえ短編であっても、読了後には映画1本見終わったくらいの充足感を与えたい。 なのでそういう作品を書きがち&読みがち。でも重い作品も多いですが全てをエンタメのつもりで書いています。 本業はギャラリー店主。リアル小説イベントも主催。
- 無名の人「愛される老人」を目指している自由人 (星の王子さまになりたかった元少年) です。 必要な人のもとへ、メッセージが届くことを願っています。
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