口づけの意味

 時々考える。父さんが生きてたら、ぼくとシキせいさんの関係は違ったろうか。

 ぼくは父をアルバムでしか知らない。ぼくが物心つく前に事故で亡くなったからだ。写真で見る限り父と誠司さんはそっくりだと思う。従弟いとこだけど一卵性の双子みたいなんだ。

 今よりもっと自分がわからなかった頃にぼくは調べた。エレクトラコンプレックスと言われるもの。父親に恋がれる不毛な王女から名付いた感情さ。そんなので誠司さんを好きになったのじゃない。ぼくは否定するけど、完全に否定しきれない。だからずっとぐるぐる回ってしまう。どうしてこの人を好きなんだろう。どうしてこの人は、ぼくにキスするんだろう。



 九月に入ったからって、暑さがすぐに和らぐわけじゃない。うんざりする熱気が陽炎かげろうになって、あざわらうようにアスファルトから立ち上ってる。こんな時間に外を歩くなんてごめんだけど、休み明けのテスト期間だ。学校は早々に生徒を追い出し、暑くて湿った不快な空気の中を、ぼくらは帰宅するはめになる。

 ぼくの通学路はビルが多くてたいして日陰もないから、歩いてるうちに照り返しでくらくらしてきた。

 ああ今すぐカキ氷が食べたい。口の中が真っ赤になるいちごシロップのがいい。汗まみれのセーラー服なんか脱ぎ捨てて冷たい畳に転がったら、冷房をうんときかせて惰眠をむさぼりたい。

 よろよろと歩くぼくを銀色のセダンが追い越していく。左ハンドル車だ。名前は知らないけど、きっと高い車だよ。ぼんやり見送ったぼくの視線の先で、車はウィンカーを出した。ピタリ。路肩に止まった車の窓ガラスが、音もなくスルスルと下りていく。

リョウ

 よく知ってる声が、半ばふさがったようなぼくの耳に滑り込んだ。うんと体を伸ばしてサイドシート越しに車の窓から誠司さんが頭を突き出している。

「今帰りかい?」

「うん。テスト期間だもの。誠司さんは?」

 ぼくは暑さで気が遠くなるのをこらえて笑顔を向ける。ああ暑い。暑いよ。早くこのしゃくねつ地獄から脱出したいな。

「友人の店へ行って戻ってきたところだ。すぐ近くなんだ」

「そう。忙しいんだね」

「まあまあだよ。このところ少し控えてるからね」

 答える誠司さんの声がぼわぼわする。おかしいな、明るいはずなのに目の前が暗いんだ……。


 ぼくはたぶん日差しにあてられたんだ。気付けば誠司さんに抱えられて、後部シートに寝かされるところだった。

「大丈夫かい、諒。顔色が真っ青だ。貧血かな、脈が速いね」

「気持ち悪い……」

 ぼくは冷汗をハンカチでぬぐう手を押しのけ、スカーフを抜き、セーラー服とスカートの脇をゆるめる。誠司さんがたじろぐけはいがしたけど、これで少し楽になった。

「ごめん、少し涼ませて」

 ぼくは目を閉じたまま誠司さんにねだる。

「かまわないよ。家まで送ろう」

「駄目。今車に揺られたら、ぼく絶対に吐いちゃうよ」

「とは言っても、ここは長く駐車できるような場所じゃないし」

 困ったなと誠司さんがうなる。困らせるつもりはないよ。けど本当に無理なんだ。まだぼくの体は内臓を吐き出したがってムカムカしてる。

 ぼくの顔をのぞいていた誠司さんのけはいが離れて、運転席へ移動する。

「一分だけ我慢してもらえるかい。そっと運転するよ。僕の友人の店に行って休ませてもらおう」

 本当は若い女の子を連れて行く所じゃないんだけどね……。静かに唸るエンジンの音に紛れて、誠司さんのつぶやきが流れていく。



 数日後にぼくは生徒指導室に呼び出された。色にも連絡が行った。

 あの後誠司さんがぼくを連れて行ったのは、怪しげなかいわいにある店だった。飾り窓には誠司さんの作品でも一番いかがわしい姿の人形が飾られている。掲げられた看板を見て、誠司さんが連れて行きたくないってつぶやいた意味もわかったよ。布の少ないドレスの女性が男性をもてなす店なんだ。

 ぼくらは誓ってやましいことはしてない。体調の悪いぼくが誠司さんの友人の所で休ませてもらっただけだ。だけどぼくらが店に入っていくのを、お節介な誰かが見ていたらしい。学校に電話があって、店に入った生徒がぼくだってつきとめられてしまった。

 ぼくは生活指導の関にネチネチいじめられた。侮辱だ。端からそういう目的で店に入ったって決め付けてるんだ。いくら真実を話したって全く耳を貸しやしない。一時間にもわたってありもしない罪で責められて、ぼくの苛々イライラは最高潮だ。あげく呼び出されて来た色に関が吐いた科白、失礼ですがって前置き通り本当に失礼でさ。

「お父様はおられませんし、お母様もお若くて随分華やかでいらっしゃると耳にしております。そういうお宅で育ったお嬢さんですから、教育に欠けている部分が有るのではと学校側ではしてるのですよ」

 これが仮にも教育者の言うことなの? 信じられないよ、品性の教育が欠けてるのはどっちなんだい!

 憤死寸前のぼくと違って色は冷静だった。色は少女の見た目をしてるけど、長年画商として海千山千の人たちを相手に世間を渡ってきた大人の女性だ。色はぽってりと厚い唇を開いて言った。

「桜川の家は代々続く画商です。ビジネスの関係で色々な方とお付き合いがありますの。時々それを勘違いなさってうわさする方がいらっしゃるのですわ、困ったものですわね」

 それでにっこり笑った色のあでやかさ、迫力といったら!

「もしおっしゃるような事があったとしても、様子を聞く限り相手は桜川を継ぐ婿。わたくしも認めた諒子の夫ですわ。桜川の女子は十六で結婚しますのよ。夫と妻の間の話に目くじらを立てるのは、おかしなことでございましょう?」

 二の句を継げない関は、口をパクパクしている。胸がすくね。



「ごめんね、呼び出しなんて受けるはめになっちゃってさ」

 隣を歩く色に、ぼくは声をかける。夕方の風が涼しさを運んでくれたおかげで、灼熱地獄だった通学路も今は随分歩きやすい。

「でも本当に何もないんだよ。ぼくが体調が悪かったから休ませてもらっただけで」

 ぼくは続けて弁解する。誓ってぼくと誠司さんはキス以上のことはしていない。どんなに誘っても、いつだって誠司さんはキス以上はしてくれないんだ。それはぼくを女として見てくれてないからだと思うから、ぼくは苛々してひどく不安定になる。

「謝らなくていいわ、わかってるもの」

 交差点で車を確認するついでに、色はチラとぼくを見た。いつも通り黒つるばみの着物を着てすまして歩く横顔は、怒るでもなく悲しむでもなくただれいだ。

「でも誠司さんとは一度ちゃんと話さなくちゃね。私の娘に手を出すなら筋は通してもらわないと」

「色、それは!」

 ぼくは声を上げた。やっぱり色も信じてないってことなの?

 色ははんなりと笑う。違うわよ、と。

「あの人、遊んでるように見えて実は堅物なのよ。本気で好きな相手には簡単に手を出さないの」

 それって――。ぼくは目をみはった。

「つまり、色にはぼくらのことばれていたの? でもそんなけはいはちっとも見えなかったのに」

「見ればわかるわ。あの人、キス以上は諒にしなかったでしょう? 本気なのよ。昔からずっとそういう人なの」

 少しだけあきれているような色の言葉が、じんわりと鼓膜に染みこんでいって、ぼくは舞い上がる。

 ぼくは色の代わりじゃない。女として見られてないわけでもなかった。両おもいだってうぬれていいのかな。本当に?

「帰ったら電話するわ」

 隣で色がつぶやく。

 とっちめてやるんだからとその後に聞こえたけど、きっと空耳だよね?




   - 了 -



※女性の婚姻可能年齢は現在では18歳ですが、この作品では舞台となっている昭和末当時の法律に合わせて16歳にしています。



続編:『つばきのあかの』 https://kakuyomu.jp/works/1177354054894811200


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面影も口づけも 若生竜夜 @kusfune

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