面影も口づけも

若生竜夜

面影

 ぼくはどうしてこの人が好きなんだろう。

 どうしてこの人はぼくを好きなんだろう。


 キシキシと床板が鳴った。猫のように静かに、白すぎる素足が廊下を歩く音。帰って来たんだ。微かな安堵を覚えながら、ぼくは耳を澄ます。

 間もなく障子が開き、黒つるばみの着物とたん色のペディキュアのつま先が見えた。

リョウ、もう眠った?」

 機嫌良げな女性の声が、ぼくに呼びかける。

「まだ起きてるよ。お帰り、シキ

 ぼくはとんから身を起こし、常夜灯の淡い灯に浮かぶ色と目を合わせた。

「ただいま」

 色はかがんで、いつも通りぼくのほおに触れた。冷たい指がくすぐったい。ぼくは首をすくめる。

 お酒の臭いに混じる微かな香りをぼくはぎあてた。記憶を探る。ややアンバリーな男物。思い当たる顔はない。

「飲んできたんだね」

「少しだけね」

「新しいお客さん? 恋人の方?」

「新しい恋人よ。よくわかったわね」

「だって、知らない香りがするから」

 正直に答えると、敏感ね、諒は、と色が笑う。

 シキ。漢字一文字で、色。フルネームならさくらがわしきだ。ぼくの母親で、たった一人の家族である彼女を、物心ついて以来ぼくは色としか呼んだことがない。色がそう望むからだ。

 画商桜川の当主である色には何人も恋人がいて、今日みたいに遅くまで帰ってこない日がしょっちゅうある。ぼくは色が多くの恋人を作るのは寂しいからだと思う。この家は二人では広すぎるから、ぼくだって人恋しくなるもの。

 昔から色はもてる。れいだからだ。肌はきめこみ人形みたいに真っ白だ。肩の下で切りそろえた黒髪は真っ直ぐ。スッと刷毛で掃いたようなまゆ。黒目がちの切れ長な目。かんぺきに整った鼻は小さめで、紅をさした唇は誘うようにぽってり厚い。キスしたくなるのがわかる、と以前せいさんに言ったら苦笑されたよ。小さな頭と黒橡の着物に包まれたきゃしゃな体は少女みたいで、実年齢より色を十以上も若く見せる。大きな目で手足ばかり長い日焼けしたぼくとは正反対だ。それで色はよくぼくの姉だと勘違いされるけど、気にする様子はない。

「誠司さんから連絡があったよ。明日来るって。仕事が一段落したみたいだ」

 ぼくは昼間受けた誠司叔父さんからの電話を伝えた。叔父とは言っても、本当はぼくの父の従弟いとこ、つまり従弟叔父にあたる。ややこしいから、ぼくは色にならって誠司さんと呼んでるけど。

「あら。ご用事かしら?」

「顔を見たいんじゃないかな」

 色の、とは続けずにおく。言わなくても分かりきったことだ。

「そう……」

 色は小さく首をかしげ、立ち上がる。いつも通り興味がないらしい。

「諒、相手してあげてね」

「寝るの?」

 廊下の先へ消えていく背中に、ぼくは声をかける。

「お湯を浴びるわ。人のにおいをつけたまま眠る気はないもの。……おやすみなさい、諒」

「おやすみなさい」

 ぼくは布団に潜り直し、目を閉じて床板が鳴るのを聞く。障子を二度開け閉めする音。おに続く引き戸の音。ボイラーが動き出し、それから青いタイルを打つ雨に似たしずくが……。



 ちりん、ちりりん。軒先の風鈴を風がもてあそんでいる。行く夏を惜しむせみの声。ウィングチップの靴底が飛石を踏んでやってくる。

「やあ、宿題かい?」

 縁側から上がってきた誠司さんは、座敷中に散らかったノートを見てぼくに声をかけた。ぼくは冷たい畳に寝そべって文字を追っていた。読んでいるのは教科書じゃない、今朝買ってきた雑誌だ。

「勉強してるように見える?」

 ぼくは首を回し、ぼくよりも随分天井近くにある彼の顔を見上げた。

「ちっとも。でも何かのレポートに使うのかもしれない」

「アイドルの動向調査だよ。最新のをインプット中なんだ」

「流行を追いかける主義なのかな?」

「全く。でも友だちに無視されるのはうれしくないから、やっておかなくちゃね」

 なるほど、女子高生は大変だとつぶやいて、誠司さんは風を強くした扇風機の前に胡坐あぐらをかいた。シャツのボタンを外して胸元に風を入れる。松葉の香りに混じって、淡くかいた汗の臭いが流れてきた。

「冷たいお茶が一杯歩いてこないかな」

 ぼくは無言で立ち上がってキッチンへ行き、氷を浮かべた緑茶をくんで戻ってきた。誠司さんはおいしそうにのどを鳴らして冷茶を飲み、ぼくはグラス越しに動いている喉仏をながめる。

「ごちそうさま。最近はどう?」

「変わりないよ、色もぼくも。誠司さんこそどうなの? お仕事また雑誌に載ってたね」

「僕の方も変わりないよ。作品を見てくれたんだね、どうだった?」

「綺麗だったよ」

 誠司さんの口元がほころぶ。

「色に似てた」

 途端、眉が落ちた。

「今回のは違うと思うんだけどなあ」

 仰向いて嘆息する。流し目でチラチラ見てきても撤回してあげないよ。

「無理だよ、誠司さんは色の顔しか作れないもの」

 誠司さんはガックリと肩を落としてうなだれてしまった。かわいそうだけど本当のことだ。誠司さんは色の崇拝者だもの。

 一見実業家風に見える誠司さんは人形作家だ。彼が作る少年少女の人形は、冷たくてあやしい雰囲気が魅力だと愛好家の間でとても人気がある。死体みたいでぼくは苦手だけど、雑誌などに載っているのを見かけるうちに、どれも色の顔に似ていると気付いた。あからさまに似てるのから微かな面影があるのまで。ぼくにはわかる、色を写したってことが。

 昔から通ってる家政婦さんが言ってた。誠司さんは若い頃、色に熱を上げてたって。何度振られても懲りなくて、ぼくが生まれるまですごかったらしい。

 そもそも色とぼくの父、父の従弟にあたる誠司さんは、おさなじみだ。お互いにオムツの頃から知っていて、代々続く画商の桜川家を継ぐために、父さんと色が選ばれて結婚した。誠司さんは傍目にもずっと未練たらたらだったそうだけど、ぼくが生まれてようやくあきらめたらしい。でもぼくは誠司さんは今も色をねらってると思うんだ。だって家に来るたびに、色は? てぼくに聞くんだよ。色は全然相手にしていないけどね。

 ぼくはまた寝そべって文字を追い始める。

 手持ちぶさたに空のグラスを玩んでいた誠司さんが、ショートパンツから伸びるぼくの素足をつっついてきた。

 何? とぼくは顔を上げる。誠司さんは、スカート、と言って畳へグラスを置く。水滴で畳に青い染みができるのが見えて、ぼくは少し眉をひそめた。

「前に買ってあげただろう。あれははいていないの?」

「はいてない。制服のだってうんざりなのに、はくわけがないよ」

「もったいないね、諒に似合うデザインなのに。髪を伸ばしておしゃすれば、諒はもっとかわいくなるよ」

 ぼくは苛々イライラしてきた。お洒落だって? ぼくは色に似てない。色みたいに綺麗じゃない。ひょろ長い手足の男の子みたいなぼくに、かわいい服は似合わないのに。どうして貴方はそんな風に言うの。

 むくむくと嫌な感情が首をもたげる。ぼくは起き上がって誠司さんをにらんだ。

「髪を伸ばして化粧をさせて。それで色に似れば喜ぶんだね、誠司さんがさ」

 意地悪な気分で口にした言葉に、りょうくん、と誠司さんの眉がはねた。

「僕をそんな風に思ってるのかい?」

 言いすぎた。大人の迫力にすぐさま後悔する。

「ごめんなさい。暑くて苛々してるんだ。誠司叔父さんがそんな人じゃないって、よくわかってるよ……」

 いや、と誠司さんは口ごもった。

「僕も変にむきになった。大人げないね」

 ぼくの頬を、なだめるように乾いた指の背がなでていく。

「怖い声を出して悪かったよ、諒」

「うん。……ねえ、誠司さん」

 ぼくは目を閉じて淡く唇を開く。温かく湿った感触が口をふさぎ、冷茶のにおいが舌をなぞった。

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