わたしを育ててくれたもの

犬飼鯛音

わたしを育ててくれたもの

 雨の日が嫌い。傘を差すのがヘタクソで、体が濡れてしまうから。


 遠足が嫌い。人と仲良くするのがヘタクソで、楽しい場所でもひとりぼっちだから。


 誕生日が嫌い。生きることがヘタクソで、生まれてきた喜びを感じることができないから。



 幼い頃のわたしは、嫌いなものが多かった。うまくいかないことが多くて、そのたび何かを嫌いになった。嫌いになり続けることで、毎日少しずつ自分の世界を狭めていった。

 そうしないと、わたしは生きていけなかった。


 子供ながらに生きづらさを感じていて、世の中のほとんどが嫌いだった。大きくなるにつれて、その生きづらさの原因が、世の中ではなく自分の中にあるのだと薄々感づいていた。でも気づかないふりをした。

 そうしないと、わたしは生きていけなかった。


 誰にも分かってもらえないと思っていた。毎日がひどく苦しかった。着々とひねくれ続けていく心を、どうすることもできなかった。どうなっても知らないと、諦めていた。

 だけどお母ちゃんの気持ちに気づいたとき、居心地の悪かったこの世界が百八十度、回転した。




 はじまりがいつだったのかは忘れてしまったけど、雨の日には、特別なおやつが用意されるようになった。焼きたての、手作りクッキー。


 学校から帰ると、家の中が甘い香りでいっぱいだった。いつもは割烹着なお母ちゃんが珍しくエプロンなんかをしちゃったりして、頬には白いお粉がついていた。

 きっとわたしを笑わせるために、お粉を顔にシュッと塗って待っていてくれたんだよね、お母ちゃん。



 ランドセルを置いて、手を洗って、キッチンを覗くと、お母ちゃんは鍋つかみのミトンをつけたままの手で、おおげさに手招きをする。学校から帰る時間なんていつもバラバラで分からないはずなのに、クッキーはちょうど、焼きあがったところだった。

 お母ちゃんの手で、オーブンの中からプレートが引き出される。家中に漂っていた甘い香りが正体を現した。茶色くなったクッキングシートに並んでいたのは、桜の花びらの形をしたクッキーだった。

 この形、わたしは知っている。お客さんが来るときに出す煮物のニンジンが、いつもさせられているおなじみの形だ。それでもふっくらとしたクッキーはニンジンよりもやわらかな花びらに見えた。何より、ニンジンなんかよりずっとおいしそう。


「あっついから、まだ触っちゃダメよ」


 そういいながらもお母ちゃんは、ミトンをつけていないほうの手で、ひょいっとクッキーをひとつ、掴みあげる。熱心に息を吹きかけてから、その小さな花びらをわたしにくれた。

 まだ少しあたたかい。花びらの一片に前歯を立てると、ほろり、とすぐに崩れた。口の中でもあっという間に溶ける。甘くて香ばしい味だけはいつまでも消えなくて、舌の上に広がり続けた。こんなクッキー、はじめて食べた。


「ね、美味しいでしょ? 秘訣はこのバターなの。見て、普通のバターと違って白いでしょ? ミルクの味が濃くって、いい味が出るのよ」


 お母ちゃんが冷蔵庫から出してきたバターはとても高級そうで、ホワイトチョコレートみたいに真っ白だった。だけどお母ちゃんのにこにこ顔を見ていたら、おいしい理由はもっとほかにもある気がした。


 雨の多い梅雨の時期は、クッキーの味がころころ変わった。メープル、シナモン、ココア、紅茶、抹茶。

 次第に、中に具を入れるようになった。チョコチップ、ナッツ、チーズ、青海苔、納豆……迷走していく味に文句をいうのも、何だかんだで楽しかった。


「雨降りだとお洗濯ができなくて、お母ちゃんとっても暇だから」


 お母ちゃんが語ったクッキーを焼く理由は、たったこれだけ。

 主婦は気楽でいいなぁ。雨の日も学校へ行かなきゃいけない小学生は、なんて大変なんだろう。……なんて思ったりしていた生意気なあの頃の自分が懐かしい。


 いつからかわたしは、雨が降るのが待ち遠しくなっていた。雨の日にしか食べられないお母ちゃんの手作りクッキーが楽しみで、濡れるのもお構いなしで走って帰った。家につくと、傘をたたむのも邪魔くさかった。早くお母ちゃんの顔についたお粉が見たかった。




 遠足の日には、とびきりのお弁当を作ってくれるようになった。エビフライの挟まった、色鮮やかなサンドイッチ。


 前日から憂鬱で眠れなかったわたしは、お弁当を作るお母ちゃんをぼんやりと見ていた。家族でお出かけするときのお弁当はいつもおむすびなのに、お母ちゃんは食パンの袋を手にしていた。

 半分に切った長方形の食パンを、どんどんオーブントースターで焼いていく。こんがり焼けると、食パンの断面に包丁を入れて、中を開く。完成したポケットに、いったい何を入れるんだろう。


「もうちょっと早く起きてきたら、味見させてあげたのに」


 残念そうな声を出したお母ちゃんは、たくらむように笑っている。意地悪をいわれた気分で、わたしはプイッとキッチンを出て行ってしまったけれど。

 きっとお弁当箱を開いたときのお楽しみを、取っておいてくれたんだよね、お母ちゃん。



 原っぱに敷いたビニールシートの上で、リュックからお弁当を取り出す。パン屋さんで買うサンドイッチみたいに、紙でできたオシャレな箱に入っていた。

 少しだけわくわくしながら箱を開くと、たくさんの色が目に飛びこんでくる。食パンにできたポケットには、尻尾をはみ出したエビフライがドーンと居座っていた。エビフライにかかったタルタルソースは、白と黄色で二色に分かれている。タルタルソースのクッションの上でくつろぐ輪切りのきゅうりとプチトマトから、栄養のバランスにこだわるお母ちゃんらしさが伝わってきた。


 ひとくち、頬張った。ぷりっとしたエビフライが、固まっていた頬をほぐしてくれる。細かいピクルスの食感が楽しい。ピクルスの酸っぱさを、甘いソースが追いかけてくる。こんがり色の食パンはふわふわで、遠くにいるお母ちゃんが手を繋いでくれているみたいだった。

 あっという間に食べ終えて、ふたつめに手を伸ばす。だけどまだ、六つもある。お母ちゃんは張り切りすぎだ。いくらおいしくたって、こんなにいっぱいは食べきれない。


「うわぁ、豪華なサンドイッチ!」

「本当だ、おいしそう!」

「ねぇどこで買ったの? もしかして、デパートのパン屋さんで売ってるやつ?」


 離れた場所にシートを広げていたクラスメイトたちが、わたしの周りに集まってきた。急に賑やかになって、わたしは慌てて口の中のパンを飲みこんだ。


「ち、違うよ……わたしのお母ちゃんが作ってくれたんだよ。い、いっぱいあるから、みんなも食べる?」


 恥ずかしいような、嬉しいような、誇らしいような。お母ちゃんのサンドイッチみたいに、今日だけのとびっきりの気持ちだった。気がついたらわたしは、ひとりぼっちじゃなくなっていた。


 それからは、遠足前夜もちゃんと眠れるようになった。一番好きな学校行事が遠足になった。家に帰ってお母ちゃんに空っぽのお弁当箱を見せるまでが、わたしの中の遠足だった。

 食べきれないほどの量がしっかりなくなっているのを見て、お母ちゃんは何もいわずに笑ってくれた。




 誕生日には、数少ないわたしの好物がここぞとばかりに集結した。

 皮がパリパリの焼き餃子。甘くてきれいな厚焼きたまご。季節外れのあったかいお雑煮。

 いつもは豚肉なのに、年に一度だけ牛肉で作ってくれる肉じゃがが、わたしは一番好きだった。

 お誕生日が特別なものだって教えてくれるために、きっと普段は豚肉を使っていたんだよね、お母ちゃん。



 食べ終わったあとに、いつもケーキが登場する。毎年イチゴがたっぷり乗ったショートケーキなのに、十四歳の誕生日は少し違っていた。

 イチゴの代わりにパイナップルが乗ったまん丸のケーキは、色合いがもっさりとしていて、彩りを大切にするお母ちゃんらしくなかった。赤くないバースデーケーキなんて、とわたしは少し、がっかりした。


 だけどひとくち食べて、びっくりする。パイナップルが好きだったなんて、口に入れるその瞬間まで、自分でも気がついていなかった。驚くわたしを見て、お母ちゃんは「ね、美味しいでしょ?」と満足げに笑った。どうしてお母ちゃんは、何でも分かってしまうんだろう。


「しょうちゃんはね、そこに居てくれるだけでいいのよ。それだけでお母ちゃん、他に何もいらないくらい、幸せなのよ。だから、しょうちゃんも覚えておいてね。こういう気持ちを大事にするために、お誕生日があるんだよ」


 わたしの寂しさも不安もやるせなさも、すべて知っているみたいな声だった。そうしてお母ちゃんは、わたしの隠れたパイナップル好きを見抜いたみたいに、わたしの心の闇もあっさりと見透かした。


 あぁ。お母ちゃんのところに生まれてこられてよかったなぁ。

 ごく自然に、生まれてきたことへの前向きな感情がわいた。はじめての気持ちを確かめるように、わたしはもう一度、心の中で繰り返す。

 お母ちゃんのところに生まれてこられて、本当によかったなぁ。

 そう繰り返すたび、わだかまり続けていた心のしこりが溶けていくのを感じた。


 生きるのがヘタクソなわたしは、ずっと自分のことを不幸な人間だと信じていた。だけど、そうじゃなかった。わたしは最初から、かけがえのない幸せを手にしていた。だって、お母ちゃんの娘に生まれてこられたんだから。




 お母ちゃんはいつも手料理で、わたしを勇気づけてくれた。愛のこもった手料理で、お母ちゃんはいつだってわたしを守ってくれた。そうやって根気強く、ひねくれたわたしを真っ直ぐに育ててくれた。

 気がついたら、嫌いものだらけだった世の中が、好きなもので溢れていた。大人になったわたしの人生は、好きなものばかりで嘘みたいに輝いていた。


 お母ちゃんの手料理を食べて育ってきたわたしは、今や無敵だ。

 だから大丈夫。心配しないでお母ちゃん。お母ちゃんがいなくても、わたしはきっと大丈夫。

 大人になったわたしは、お母ちゃんの手料理だって、自分で簡単に再現できる。今はまだどうしてもしょっぱくなってしまうけど、きっとわたしは大丈夫。だから心配しないでお母ちゃん。


 好きなものだらけのこの世界で、一番の好きな人を失ったわたしは、今日も前を向いて生きていく。料理と共にわたしを育んでくれた、途方もない愛を反芻しながら。



(了)

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