広がるクロムイエロー
青空が高く濃くなり始めた10月初め、
寒さに弱いこの花は、10度を下回る北の夜を越すことは不可能に近い。簡易の温室を作ってはみたものの、じめじめとした環境は好まず、風を通さない場所では病気にかかりやすいとも言われている。そのため、温かい昼間には風を通す時間を設け、温度や湿度の管理には慎重になった。
まだ膨らみの足りない蕾を眺めながら、僕は考え込む。
「
ふと、温室に恭が姿を見せる。
「うん、ちょっと育ちが遅くて」
恭は白衣を翻し、僕の隣で膝を折った。
「肥料の配合は問題ないな」
「うん、病気にもなってないよ」
恭の手借りて成される温湿度の管理は完璧だった。
「考えられる問題はひとつだろ」
「日照時間……だね」
僕たちはふわりと天井を見上げた。
硝子体手術は眼科領域では最も難易度の高いものだそうだ。成功率自体は80%を越えるものの、術後の視力回復は症例によっての差違が大きく、予測不可能であることが現実だった。
それでも、清花は真っ直ぐに前を見据え続けていた。
「絶対に大丈夫だから、待っててね」
そう、強かな言葉を僕に告げて彼女は手術室へと姿を消した。
光る黄色い花を優しく握り締め、僕は白い扉の前に立った。ほんの僅かな緊張を隠しながらその扉をゆっくりと叩く。
はい、と高く澄んだ声が耳に届くと、一息を置いて扉に手をかけた。
その先には私服に身を包む清花の姿があった。
「夏樹!」
僕の姿を見つけた彼女は、子供のように瞳を輝かせながら大きく手を振った。近くまで歩み寄ると、彼女は嬉しそうに笑う。
「来てくれるって思ってなかったから、凄く嬉しいよ」
そう、照れくさそうに微笑む彼女の頭を優しく撫でた後、僕は背中に隠し持っていた花をゆっくりと差し出した。
「清花、退院おめでとう」
花を受け取った清花は、「ありがとう」と柔らかい笑顔で告げる。
彼女が受けた2日間の手術は大きな問題もなく成功を遂げた。直後はぼんやり霞んでいた視界も、雨雲が晴れるようにどんどんとクリアになっていった。その変化に喜びながら、彼女は何度も涙を流し、何度も花のような笑顔を見せていた。
そして今では、発症前と寸分も変わらない視力を取り戻していた。
僕が贈った花を見つめながら、清花は怪訝な表情を浮かべる。
「大きい向日葵だね」
「うん、今度はちゃんと見えると思って持ってきたんだ」
「ありがとう、見つけるの大変だったでしょ?」
「まぁこの季節だからね、苦労はしたよ」
重い花を咲かせる向日葵は、彼女の手の中でふわりと揺れる。
「実はもうひとつ、君に見て貰いたいものがあるんだ」
向日葵を抱えたままの清花は、茶色い大きな瞳を瞬かせながら僕を見遣った。
10月中旬を過ぎた大学のキャンパス内は、すっかりと秋の景観を見せていた。夏に青々と茂っていたはずの木々も緩やかに彩度を落とし、一部は紅葉を始めている。建物の間を抜けていく風も、いつの間にか触れる肌から体温を奪っていくようになっていた。
鮮やかな太陽は高度を下げ、やや南に傾いている。
それでも、青い空は変わらず僕たちの頭上に広がっていた。
「たった2ヶ月だけなのに、凄く懐かしい気がするね」
清花は僕の隣で穏やかな口調で告げる。
病で倒れた8月の初めから、目の手術を受けた9月の終わりまで、彼女はずっと暗闇を彷徨っていたのだ。
「2ヶ月間何も見えなかったから、どこかに夏を忘れてきちゃったような、不思議な感覚がするの」
彼女はどこか寂しそうな表情で視線を落とす。
「それなら、僕が夏を取り戻してあげる」
「え?」
その言葉と同時に足を止めた場所は、薬学部が所有する薬用植物園の前だった。
ゆっくりと銀色のフェンス扉を潜り、乾いた土を踏みしめていく。
「僕が手を引くから、目を閉じて」
僕の指示通りに、清花は静かに目を閉じる。その手を引きながらゆっくりと足を進め、僕たちは小さな花壇の前に辿り着いた。
7月の末日、僕は彼女と交わした約束を簡単に破ってしまった。
何度も後悔を繰り返し、何度も自分を呪った。それでも消えない罪を、僕はどうしても償わなければならなかった。
たった2ヶ月間、親友の恭と二人で零から造り上げたこの景色を、彼女に届けることで。
僕は深く息を吐き出した。
「目を開けて」
そう彼女に向かって囁くと、閉じていた瞼をゆっくりと開いていく。
目の前の景色を捉えたその瞬間、彼女は驚いた様子で大きく目を見開いた。
「すごい……!」
そこに広がる景色に彼女は口元を覆う。
たった2メートル四方の小さな花壇には、大きな向日葵の花が太陽に照らされながらキラキラと鮮やかに咲いていたのだ。
冷たい北風が、向日葵を揺らしながら秋澄んだ青空に抜けていく。
あの日、僕は恭と共にこの花壇を囲む小さな温室を作り上げた。彼女の目が再び見えるようになることを信じ、果たせなかった約束を実現させたいと僕が望んだことだった。
きっと彼が居なければ成すことはできなかっただろう。何度も頭を抱えながら、漸く大輪の花を咲かせることができたのだ。そして清花が退院する今日、僕たちは早朝から温室を解体した。
美しい青空に映える、鮮やかな黄色い向日葵を仰ぐことができるように、と。
「本当は、視界いっぱいの向日葵を見せてあげたかったんだ。でも、どうしても出来なくて」
「ううん、これだけでも十分凄いよ」
彼女は泣き出しそうな表情で首を振る。
そして、滲む涙を指先で拭い、ゆっくりと足を踏み出した。
花壇の直ぐ目の前に立つと、大きな向日葵の花に静かに顔を近付けていく。
「こうやって近付けば、視界いっぱいに見えるから」
その距離は、僅か15センチだった。
二人で愛情を紡いだ15センチの内側で、彼女は遠い夏の日の願いを叶えていく。
溢れ落ちそうになる涙を堪えながら、僕は空を見上げた。そして、彼女の姿を真似るように、大輪の向日葵に顔を近づける。
「……本当だね。凄く綺麗だ」
その言葉を耳に、清花はまた花のように微笑んだ。
僕の視界には、高く澄んだ青と、それを覆う鮮やかなクロムイエローがどこまでも美しく広がっている。
きっとこの景色は、僕たちにとって忘れられない夏の記憶となるだろう。
秋澄む空にクロムイエロー 泉坂 光輝 @atsuki-ni
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