ビビッドサンセット
僕は毎日のように彼女の病が癒えることを祈り続けていた。虚ろに開かれる瞳を覗き込みながら、その目に再び色が灯ると信じていたのだ。
入院日から約2週間、恐ろしい合併症が起こりやすい期間を脱出し、漸く
少しずつではあるが、彼女の体調は回復に向かっている。長期安静に伴う筋力の低下は認めるものの、手を引き誘導することで、ゆっくりと歩行も出来るようになっていた。
その日、僕が病室を訪問すると、彼女はベッドに腰を掛け窓の外を真っ直ぐに見つめていた。
「清花」
僕が声をかけると、彼女ははっとして小さく身体を震わせる。
「何をしてたの?」
「こっちに大きい窓があるって聞いたから、空を眺めてたの。ずっとこうしてたら見えるかもしれないって思って」
彼女は目を細めながら、穏やかな口調で言った。
「でも全然駄目だね。明るいのかどうかも分かんないや」
「そっか……」
少し残念そうな声色で、その感情をはぐらかすように再度にっこりと笑う。そして、彼女は大きく右手を伸ばした。
「
彼女に導かれるまま、僕は探るように伸ばされた手を握り締め、隣に腰を下ろす。すると、清花は僕の腕をそっと掴んだ。その手を目で追っていくと、両手は腕を上がり肩へと移動する。まるで目の前にあるものの正体を確かめるように、彼女はゆっくりと僕の身体に触れていく。
「今日は半袖なんだね」
「うん、外は暑いから」
やがてその冷たい手は、僕の首筋を這うように頬へと移る。変わらずひたひたと形を確かめながら、その両手は僕の顔を優しく包み込んだ。
僕はゆっくりと目を閉じる。彼女の柔らかい指先は僕の瞼をしなやかになぞり、鼻筋に触れる。そして、唇の感触を確かめたあと、最後に髪をくしゃくしゃと撫でた。
「よかった、ちゃんと夏樹の顔だ」
「当たり前だよ、僕だもん」
彼女の些細ないたずらに苦笑しながら、乱れた髪を手櫛で直す。困った僕の様子を感じ取ったのか、彼女は小さく肩を揺らして笑った。
その姿が愛しくて、思わず僕は彼女の身体を抱き締めた。
「夏樹? 急にどうしたの?」
「ううん、何でもないよ。ただこうしたかっただけ」
僕は強く彼女の身体を締め付ける。
痛いよ、とこぼしながらも彼女は僕の腕の中で涼やかに笑った。その優しい声、花のような笑顔は少しも変わらなかった。
それでも、何気ない目線はどうしても僕のそれとは重ならず、ふわふわと宙をさまよい続けていた。それを見ると、彼女の瞳には僕が映っていないのだと現実を突き付けられるようで、胸が痛くなった。
吐息を感じるほどすぐ近くにいるはずなのに、どうして僕の姿は見えないのだろうか。
僕の目にははっきりと見えるのに。
清花は僕の背中に腕を回す。
「先生には15センチ先の光しか感じられないって言われたけど、ぼんやりとした形くらいならわかるの」
そう、僕の背中を撫でながらゆっくりと囁きかける。
「だからね、少しだけだけど夏樹のことも見えるんだよ。どこを見て、どんな顔をしてるかまでは分からないけど、ちゃんとそこにいるってことは分かるの」
15センチの内側で、彼女は優しいせせらぎのような声で呟いた。
「清花は僕の心が読めるの?」
「そんなわけないよ」
くすりと清花は笑う。
「――そういえば、夏樹がくれた向日葵は元気?」
その問いかけに、僕は部屋の隅に置かれた花瓶に目を向けた。
しっかりと水を変えた花も、時間の経過と共に萎れてしまうものなのだろう。昨日2度目の湯揚げをしたばかりだというのに、向日葵は元気を失い、くったりと項垂れていた。
「うん、元気だよ」
僅かな間を置いて僕は返答する。
「嘘だよね」
そう、清花は凪いだ瞳で僕の嘘を簡単に見破った。
「夏樹は嘘が下手だから、声だけでもすぐに分かるよ。それに、向日葵の切り花は茎が腐りやすいの。浅水でしっかり水揚げしても、きっと10日くらいしか持たないよ」
それは、きっと僕を確かめるための質問だったのだろう。故に、同時に牽制という意味を持つ。
「もうひとつ、聞いてもいい?」
うん、と肯定すると彼女は再度口を開いた。
「夏樹は、私の目が治らなくても良いって思う?」
「僕は――」
少しでも早く鮮やかな色を取り戻して欲しいと思っていた。
だから本当は、早く手術を受けてほしい。そして、約束通りに一緒に向日葵畑に行って美しい景色を望みたい。
心の中の言葉を絞り出すように、ゆっくりと告げた。
「今朝、目の手術のことを先生に聞いたの。やっぱり知ってたんだね」
「……うん。黙っててごめんね」
清花は静かに首を横に振った。
「夏樹が黙ってたのは私のことを思ってでしょう」
彼女は視線を落とす。
「私も視力は取り戻したいと思ってるの。来年でいいから、夏樹と一緒に向日葵畑にも行きたい。でも、今はまだはっきりと決められないの……。やっぱり手術は怖いよ……」
苦しそうな声で呟くと、彼女は両手で自身の顔を覆った。その手の隙間からは大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
研究室に入ると、珍しい訪問者の姿があった。
白衣を纏った彼は、まるで実験のように院生たちの前で怪しげな飲み物を淹れている。手にした真っ赤な液体と、室内に広がる甘酸っぱい香り。それだけで、彼がここにやって来た理由が分かった。
「ハイビスカスティー、出来たんだね」
「あぁ、飲みやすいようにブレンドしてみたんだ」
そう返答した
それを見て、僕はあることを思いついた。
「恭、仕事の後、時間ある?」
「例のことか」
「うん、一応関係はあるかな」
いつも通りにんまりと笑うと、彼は僕の誘いを緩やかに承諾した。
午後6時前。傾く太陽が照らし出す広場を、涼やかな風が吹き抜けていった。
僕は彼女を乗せた車椅子を押して、病院の敷地内にある公園を訪れていた。少し大きめの鞄を下げた恭は、僕たちを見守るように後ろをゆっくりと歩く。
「先生が優しくてよかった。こんな時間に外に出てもいいって許してくれるなんてね」
「本当だね」
久しぶりに外の空気に触れた清花は、楽しそうに笑っていた。
「そう言えばあの先生、僕たちの2つ先輩なんだって。若いのに、凄いよね。それに、格好いいし」
「えっ、格好いいの?」
「うん、でも清花には見えないんだもんね。残念だね」
少し意地悪く言うと、彼女は口先を尖らせる。
「見えるようになったら、ちゃんとお礼言いにくるから」
「それ、お礼じゃなくて絶対顔が目的だよね」
「だって気になるもん」
それを聞いていた恭が、くすりと笑った。
真っ直ぐに車椅子を押し進めていくと、木陰が開け、鮮やかな花の色が瞳に飛び込んでくる。その中心に建つ屋根のある休憩スペースに、白い木製の机と椅子が並んでいた。
僕の手を握りしめながら、彼女は立ち上がる。そしてゆっくりと車椅子を離れ、僕の誘導に従いながら慎重に椅子へと腰を下ろした。
「……本当に、見えないんだな」
その様子を見ていた恭は、少しだけ視線を手元に落とし、清花に聞こえない程小さな声で呟いた。それは恐らく誰に向けられたものでもなく、彼が咄嗟に溢した独り言だったのだろう。それに続く言葉はなく、恭は手にしていた荷物を机の上に置いた。
「今から何をするの?」
「ハーブティーを淹れるんだ、少し待っていてくれるか」
彼は白いシャツの袖を捲り上げ、滑らかな手つきで鞄から様々な物を取り出していく。一通りの物を並べ終えると、いつもと同じ実験器具のような小瓶の蓋を開けた。
そこに入ったハーブを別の器に掬い出し、少しずつ調合していく。
「いい匂いがするね」
「先週、ローゼルを摘んだんだ」
ティーポットに熱い湯を満たす。
「ハイビスカスティーだね」
そう彼女が言うと、恭は「あぁ」と小さく頷いた。
一足先に僕は甘いロールケーキを乗せた皿を清花の前に置き、フォークを添える。
それと同時に、恭は透き通るグラスに氷を落とし、約半分程度までオレンジジュースを入れた。そこに、蒸れた赤いティーをゆっくりと注いでいく。最後にミントを飾り、出来上がったそれを清花の前にゆっくりと差し出した。
それは美しい赤と橙色のグラデーションを作り上げていた。まるでグラスの中に鮮やかな夕焼けの空があるように、混ざり合った色がとても幻想的な景色を見せる。
「ねぇ清花、これが見える?」
僕がグラスをすぐ目の前に持ち上げると、彼女はしっかりと手を添えた。
オレンジジュースの中に浮かぶ果実の粒が、沈んでいく夕陽の光を反射させてキラキラと光る。そして夕陽の赤と、ローゼルの赤が深く重なり合った。
「凄く、赤い……」
清花はその鮮やかな景色を見つめながら、小さくを声漏らす。
その言葉に、僕と恭は同時に立ち上がった。
「本当?」
「見えるのか?」
「うん、うっすらとだけど夕焼けみたいなグラデーションが見えるよ、凄く綺麗……」
目の前に広がる淡い夕焼け空に、彼女は心を奪われたように涙を溢す。
彼女の視力は僅かながらに回復を見せていた。
夜が肌寒くなり始めた頃から、彼女の目線は少しずつ僕を捉える事が多くなっていた。
恭の作る鮮やかなこの夕焼け色であれば、彼女の目に映るかもしれないと感じたのだ。きっとこれは清花自身も気付いていない可能性だった。
「ほんとうに、久しぶりに綺麗な色を見ることができたよ。ありがとう、二人とも」
清花はハイビスカスティーを口に含む。そして、ゆっくりとグラスを机に置いた。
涙を拭い、口を開く。
「……私、目の手術を受けるよ」
強く、覚悟を決めた口調で告げる。
「もう一度、ちゃんとこの目ではっきりと鮮やかな景色を見たいから」
彼女の瞳は、まるで美しい花を映したように、とても澄んでいた。
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