塗り潰される


 

 その瞬間まで、約束の日は必ずやって来るものだと思っていた。

 当然のように日々は巡り、変わらず愛情を重ねていく。それがどれだけ幸せな事なのか、考えたこともなかった。当たり前の日々に埋もれた幸せが、ずっとそこにあるとばかり錯覚していたのだ。



 約束の日の前夜、僕は教授より電話を受けた。要件はごくシンプルなものだった。どうしても片付けなければならない仕事があり、僕に手を貸してほしいという依頼だ。それを断るわけにもいかず、僕は大学に行くことを選択した。

 そのため、向日葵畑の約束は翌週へ持ち越しとなった。余りにも唐突なキャンセルであり、普通なら怒らせてしまっても仕方のない状況だっただろう。それでも彼女は、「頑張ってきてね」と笑顔で僕を送り出してくれたのだ。



 広がる鈍色の空が、零れ落ちそうな大粒の水滴を抱え込んでいた。

 駅前のショーウィンドウに並ぶ花を眺めながら、僕は花屋の扉を潜る。いらっしゃいませ、と唱える店員に向かって緩やかに会釈をすると、僕は迷うことなく明るい店頭に咲く向日葵の花を手に取った。



 あの日と同じ午後1時の約束の時刻通り、僕は指定された場所を訪れていた。歩行に合わせ、左手に携えた向日葵が瑞瑞しく揺れる。

 白い壁が続く廊下を進んでいくと、ある扉の前に清花さやかの母の姿があった。その表情はどこか憂いを含んでいる。僕の姿を捉えた母は、険しい表情のまま小さく頭を下げた。



 清花が緊急入院をしたと報せを受けたのは、再度約束を交わした日から、僅か2日後のことであった。


 詳しい病状も告げられないまま、面会制限が解除されるまでの1週間、僕は不安を抱えながら毎日を過ごしていた。仕事すらも手につかず、始まって間もない研究は足踏みを繰り返すばかりであった。

 それでも僕は祈り続けていた。

 彼女が元気な姿で、笑いかけてくれることを。



 硝子窓のある壁で区切られた病室で、彼女は静かに眠っている。頭元には大きなモニターが設置され、そこに心拍数や血圧数値が表示されていた。それを見れば、彼女の心臓は確かに脈を打つ。しかし、ぐったりと伏せる清花の姿は僕を不安にさせた。


 清花は、クモ膜下出血という脳の病気だった。検査の結果、脳動静脈奇形というものが見つかり、その異常な血管が出血を起こしたことが原因であった。このままでは再度出血を起こす可能性が高いと判断され、翌日に異常な血管を取り除く摘出術が施行されたそうだ。


 僕は机上に向日葵の花を置いて、彼女の冷たい手を優しく握り締めた。

 白く細い指先が僅かに動く。

 

「清花、遅くなってごめんね。夏樹なつきだよ、僕の声がきこえる?」


 出来るだけ届くようにと、一言ずつゆっくりと彼女の耳元で声を掛けていく。しかし、彼女の表情は変わらない。


「僕のせいで約束果たせなかったから、代わりにって思って向日葵の花を持ってきたんだよ」


 そう、たった一輪だけの向日葵を彼女の目の前で揺らして見せる。


「ねぇ、ほんとうは僕の声、聞こえてるんでしょう? だったら、ちゃんと目を開けてよ。おねがい、清花」


 抱く希望に縋りつくように、僕は何度も何度も繰り返し彼女の名を呼び続けた。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。あの日、僕が約束を守ってさえいれば、彼女は変わらず笑っていたのかもしれない。きっとこれは、僕への天罰なのだ。そんな、理論的ではない考えばかりが浮かんでは消えていく。

 力なく伏せる彼女から目を逸らすように、僕は柔らかいシーツに額を埋める。そして、空しさと共に零れ落ちそうになる涙を堪えながら、握る手に強く力を込めた。


「い……たい……」


 突然、弱く響いた声に僕は顔を上げた。

 そこには、虚ろに目を開く彼女の姿があった。僕は勢い良く立ち上がる。


「清花! 僕のこと分かる?」


「なつき……? いるの……?」

「うん、ここにいるよ」


 精一杯の力で声を絞り出す彼女に、僕は滲む涙を拭いながら言葉を返す。しかし、彼女の茶色い瞳はいつまでたっても僕の姿を捉えようとはしなかった。


「見え……ない……」

 

 掠れた声で紡がれた言葉を聞いて、僕は返す言葉を失った。たったそれだけを告げると、彼女の意識は再度とろりと沈んでく。

 心が黒く塗り潰されていくような感覚と共に、ふわふわと泳ぎ続ける彼女の瞳が、脳裏に焼き付いていつまでも消えなかった。






「詳しく眼科の検査をした結果、今の仁和にわさんは15センチ先の光しか感じることが出来ない状況です」


 テルソン症候群。

 おそらく、と医師が告げた聞き慣れない名前に僕は頭を抱えていた。

 それは、クモ膜下出血の発症時、急激に頭蓋内圧ずがいないあつが上昇することによって、網膜もうまくの毛細血管が破綻し出血を起こすというものらしい。出血は眼の硝子体しょうしたいという場所に広がり、霧視むしや視力全体の低下を来す。

 そう、医師は説明する。


「それは治るものなんですか?」

「えぇ、約6ヶ月から1年の経過で自然に吸収されていくと言われています」


 1年。その膨大な時間に、僕は目眩感を抱く。

 たった15センチ、それも光だけしか感じられない状況がずっと続いていく。色も、景色も、大好きな花でさえも見ることができない環境が、1年も続くのだ。

 そう考えるだけで、握り潰されるように胸が痛くなった。


「幸い仁和さんは運動神経麻痺などの症状はありません。まだお若いので、社会復帰も十分可能だと思います」


 けれども、その視力障害が社会復帰を阻む。そう続けていく。

 状態が落ち着き次第、眼科の手術を受けることを勧めると医師は静かに言った。手術さえ乗り越えれば、殆どの確率で早期の視力回復を望めるそうだ。


 ただ、今すぐにこの話を伝えてしまえば、彼女はどう感じるだろう。頭の手術を受けたばかりの彼女に、もう一度手術を受けろと言えるだろうか。彼女を傷付けてはしまわないだろうか。

 漠然とした不安が、次々と溢れ出す。


 それでも間違いなく、手術は彼女にとっての光であった。

 僕は心の中で医師の言葉を反芻しながら、ゆっくりと病院を後にした。


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