秋澄む空にクロムイエロー
泉坂 光輝
アジュールブルーの下で
頭上に広がる深い青空を見上げると、層を成した入道雲が太陽の光に縁取られ、燦然と輝いていた。これ見よがしに照り付ける夏の鮮やかな日差しが、降り注ぐ蝉時雨と相まって8月の体感温度を上昇させていく。
立ちはだかる銀色のフェンス扉を抜けた先には、眩しい緑で彩られた花壇が広がっていた。
ゆっくりと土を踏みしめながら足を進めると、温室の前に見覚えのある後ろ姿があった。彼は捲り上げた白衣の袖口から覗く骨ばった手で、目の前の植物を摘み取っているようだった。
「
僕が名を呼ぶと、長身の彼はふわりと振り返った。その動作に合わせ、太陽光に透き通る淡い茶髪が揺れる。
「なんだ、
彼の左手に握られた小瓶には、摘み取ったばかりの赤いものが収められていた。それは花弁ではなく恐らくは肥大した
「ローゼル?」
指を差しながら問いかけると、恭はにんまりと笑う。
「そう、ハイビスカスの一種で生薬名は
「ハイビスカスティーだね」
「あぁ、ビタミンCも豊富で美容に良いし、クエン酸は夏バテにも効果があるって学生たちにも人気でね」
彼の言う学生とは、薬学部で薬用植物学を学んでいる大学院生のことだ。優秀な研究者である恭は、若くしてこの薬用植物園の管理を一任されている。学部は異なるものの僕たちは学生時代の同級生で、同じように植物の研究をしていたことがきっかけで、いつの間にか行動を共にするようになった。
彼は先ほどと同じように、ローゼルの萼を一つずつ摘み取っていく。
「
「それ
「え、何で」
僕が笑いながら答えると、彼は理解できないと言わんばかりの怪訝な表情で首を傾げていた。
僕たちには仲の良い人物がもう一人いた。それが、
そういえばと、僅かな間を置いて恭は口を開く。
「――必要なら、そこの花壇を使ってくれても構わない」
唐突に紡がれた台詞を耳に、僕は顔を上げた。
彼の示す先には、僅か2メートル四方の真っ新な花壇がある。驚く僕の顔を見つめながら、恭は植物のような佇まいで静かに微笑んだ。
「夏樹がここに来たのは、俺に敷地を貸してほしいって頼むためだろう」
それは紛れもない事実だった。
ここに来る5日前、僕は大学が所有する植物園に足を運び、園内の敷地を使用するために申請書を提出した。農学部生物資源科学科の教員として研究を続けている僕にとって、植物園はとても長い付き合いのある馴染み深い場所であった。そのため、許可は簡単に降りるものだと思い込んでいた。
しかし、その期待を裏切るようにその申請はあっさりと打ち捨てられたのだった。理由は簡単だった。その使用目的が有益なものではなかった、ただそれだけなのだ。
「どうして、その事を知ってるの」
「生物資源の教授が話してるのをたまたま聞いたんだ」
そう、恭は眩しく光る太陽に目を細めながら言葉を続けていく。
「ただし、貸せるのは2ヶ月間だけだ。期限が来たら、お前の研究が途中であっても敷地は返却してもらう。それでも良いなら、好きにしていい」
それだけを告げると、彼は乾燥させていたブルーマロウの花を抱え上げた。その彼の示した条件は、僕に負い目を感じさせないための配慮なのだろう。
僕の反応を待たず、彼は白衣を翻しながら颯爽と歩き出す。
「恭、もう一つお願いがあるんだ」
蝉の鳴き声に掻き消されないように、僕は彼の背中に向けて大きく声を放った。彼は歩む足を止め、僕を見遣る。
「2ヶ月で完成できるように、君にも手伝ってほしい。絶対に成功させなければならない大事な計画なんだ」
「……それは、一体何をするんだ?」
彼は真剣な声音で僕に問いかける。
「そこに、温室を建てるんだよ」
そう右手で花壇を指し示すと、恭は何かを察した様子で「面白い」と言わんばかりに再度笑みを携えた。
油絵の具で描かれた絵画のような美しい青空には、いつの間にか一直線に飛行機雲が駆け抜けていた。それは、僕たちを導く一筋の光のようだった。
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