カラーパレットの花たち
同じ大学院を卒業した僕と彼女は、それぞれに別の形で植物に携わる職業を選択した。僕は大学の教員となり、変わらず研究を重ねている。彼女は市立植物園に就職し、そこで大好きな花の健康管理を行っていた。
暇を見つけては互いの元を訪問し、自慢の植物について語り合っていた。それがどんな出来事よりも楽しい時間であった。大好きな花について話す彼女の楽しそうな笑顔は、いつも僕の心に潤いを与えてくれていた。
そんな穏やかな生活が数年間続いた今年の4月、漸く僕たちは婚約を交わした。
柔らかい陽射しが注ぐ、7月の末日。本日の最高気温は31度、美しい青空が広がる文句なしの快晴であった。
前日に交わした約束の時刻通り、僕は待ち合わせ場所である市立植物園に到着していた。休日である故か、いつもよりはるかに来園者が多い。出来るだけ分かりやすい場所にと、僕は入園口の前に立った。
暫くぼんやりと佇んでいると、少し離れた場所で周囲を見渡す彼女の姿が見えた。
「清花、こっちだよ」
涼し気な花柄のブラウスを纏った彼女に手を振ると、清花はふわりと僕に視線を向ける。漸く僕の姿を瞳に映した彼女は、咲く向日葵のようにぱっと表情を綻ばせた。
「やっと見つけた!」
そう明るく弾んだ声を上げ、緩くウェーブのかかった茶色い髪を揺らしながら駆け寄って来る。
そのまま差し出した僕の手を握りしめると、ゆっくりと歩き始めた。
「ずっとそこに居たのに、全然気づいてなかったね」
背の低い彼女を見下ろしながら、僕は微笑みかける。
すると、彼女は大きな目をしばたたせた後、くすりと笑った。
「
「それ、影が薄いってことをやんわりと言ってるだけだよね……」
返された言葉にわざとらしく口先を尖らせると、清花は否定もしないまま滑らかに笑い声を立てた。
「夏樹は私と同じ研究室にいたとは思えないくらい優秀なひとでしょう」
そう、僕の顔を瞳に映す。
「それほど凄いひとなのに、素朴で飾らないところが魅力的だと思うの」
唐突に呟かれた甘い言葉を耳に、僕は無意識に頬を赤らめていた。
彼女との会話はとても穏やかで心地が良いものだった。握る白い手はひんやりとしていて夏の暑さも忘れさせてくれる。時々見せる花のような笑顔は、この世の全ての花よりも鮮やかで美しく感じられた。
その透き通る白い肌と眩しい笑顔さえあれば、僕はどんな場所でも彼女の姿を見つけられるような気がしていた。
植物についての解説を交えながら、僕たちはじっくりと園内を回っていた。
見ごろの睡蓮の池を抜け、続くイングリッシュガーデンに足を踏み入れる。煉瓦の小道を進んでいくと、左右には様々な種類のハーブや花が植えられていた。優しい紫色のラベンダーや、ジギタリス。色とりどりのペチュニア、華やかな薔薇のアーチ。
彼女はこのイングリッシュガーデンの手入れの手伝いもしているそうだ。ハーブが好きな清花にとって、ここが一番のお気に入りの場所でもあった。
庭の隅のラベンダーを見つめながら、彼女は口を開く。
「そう言えば昨日、
「
珍しいよね、と彼女は僕の顔を見上げて笑う。
「ブルーマロウとサンフラワーペタルがベースのブレンドティーでね、凄く綺麗なエメラルドグリーンの
ブルーマロウとは、和名は
清花曰く、市場に出回る殆どはシングルハーブで、ブレンドされたのもは珍しいらしい。闇雲にブレンドすればその特有の鮮やかな水色が損なわれてしまうため、色を楽しむのであればシングルが良いといった理由なのだろう。
しかし、恭のブレンドは一味違うのだという。
「櫟井くんのブレンドしたブルーマロウはね、『夜明け』っていうよりも『青空』ってくらい綺麗な青なの」
清花はゆっくりと立ち上がり、ローサンダルを鳴らしながら僕の前を歩く。
「でも櫟井くんってちょっと意地悪だから、レシピを聞いてもニタァって笑うだけで教えてくれないんだよねぇ」
薔薇のアーチを一足先に抜けた彼女は後ろを振り返り、口角を上げて恭の真似をする。その悪人面が想像以上に彼の笑顔と似ていたために、僕は思わず吹き出した。それにつられ、清花も同じように肩を揺らす。
一歩ずつ彼女の傍へと歩みよるようにアーチ抜けると、降り注ぐ太陽光の眩しさに思わず目を閉じた。やがて順応した目をゆっくりと開くと、清花は東側を見つめてた。
肌を撫でる爽やかな風を感じながら、その視線の先へと目を向ける。
そこには、鮮やかな花で彩られた小さな丘が広がっていた。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫とラインを作るように並べられた花は、まるで虹のようだった。
「凄い、こんなところがあったんだ……」
圧倒的な風景美に、僕は息を飲む。
「やっと完成して、公開されたばっかりなの。どうしても夏樹に見てもらいたくて」
眩しい程の青天井の下で、清花は少し照れ臭そうに笑った。
透き通る茶色の瞳で色とりどりの花畑を見つめながら、彼女は僕に問いかける。
「ねぇ、夏樹は深い青空に映える花ってなんだと思う?」
それは、単純なようでとても難しい質問だった。
静かに目を閉じて、鮮麗な青を想像する。
――心を癒すブルーマロウに、映えるサンフラワーの花弁。その繊細なブレンドを脳裏に浮かべながら、青と黄のコントラストを描いていく。
甘い花の薫りを吸い込むように深呼吸をすると、僕はゆっくりと目を開いた。
「黄色い向日葵なんてどうかな」
そう告げると、彼女は驚いた顔で僕を見遣る。
「私も向日葵がいいって思ったの。ブルーマロウみたいな青空に、黄色い向日葵って、櫟井くんがくれたハーブティーみたいでしょ」
「うん、僕も一緒のこと考えてた」
「私たちって凄く似てるね」
清花はキラキラと瞳を輝かせながら、柔らかい髪を揺らす。
何気なく紡がれる彼女の言葉は、いつも僕の心を捉えていた。
どんな些細な不安でさえも消してくれるそれは魔法のようで、どんな時でも穏やかな気持ちにさせてくれる。
「私ね、一度でいいから視界いっぱいに咲く向日葵が見てみたいの」
だから、僕はいつも彼女に幸せをあげたいと思っていた。
「それじゃあ、来週一緒に見に行こうか」
「ほんとうに?」
僕が頷くと、清花はまた花のように微笑んだ。
約束だよ、と清らかに告げて。
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