第5話(終)

 楓は瓦礫の上に尻餅をつくような形で地下に落ちた。痛い。提灯は消えていた。暗くて何も見えない。楓は手探りで壁際まで移動した。天井の穴から仄かな光が漏れていた。

「この穴に落ちたか?」

「ああ」

「岩月の子じゃ、生きとるか?」

「よく見えんな」

「降りる場所を探さねぇと」

 村の人たちの声が穴から降ってきた。楓は息を潜めて声が聞こえなくなるのを待った。汗と雨と埃でドロドロだった。苦しい。もう嫌だ、帰りたい。だけど、草介が。まだどこかにいるかもしれない。楓は浅い呼吸を繰り返した。千歳は。千尋君は。どうしよう、どうしよう。

 暗闇の中で、楓は考える。これからどうすればいいのだろう。いつまでもここに隠れてはいられないだろう。千歳が、あのままの状態で現れたら、きっと逃げられない。今頃まだ狂った笑いを浮かべて、人を襲っているのだろうか。そして、このままずっと?

 ――そんなの、あんまりだわ……。

 千歳のことを思うと、胸が締め付けられた。怖くても我慢して楓の後ろを付いてきていたのに、弟が見つからないまま、壊れてしまった。もう元には戻れないのだろうか。たとえ千歳がこのモリから出ることが出来ても、このままならきっと病院に送られ、閉じ込められ、隔離されてしまうだろう。キラキラと笑って自己紹介をしたあの表情が忘れられない。泣き言を零す横顔も、拗ねた口元も。笑うと光る八重歯や、灰色の瞳も。楓は溜息を吐いた。ああ、もう本当に、どうすればいいのか分からない。楓は膝を抱えて座り込んだ。

 朝はいつも通りの時間に起きた。みんなで朝ご飯を食べて、山祭の手伝いをした。神下の人たちと一緒に、鳥居から仲塚まで春の神輿を担いで歩いた。屋台で焼きそばを買ってお昼ご飯に食べた。ベビーカステラも買った。山祭の後片付けも手伝って、それから家に帰った。テレビでドラマの再放送を見て、和室でくつろいだ。そこへ純太が来て。

 今日の出来事が走馬灯のように楓の頭の中を駆け巡っていた。

 どれくらいの間、そうしていただろう。不意に眩しい光が楓の顔を照らした。楓は目を細めて光のほうを見た。少しの沈黙のあと、白い光の奥から気の抜けた声が楓に届いた。

「姉ちゃん?」

 その声は、ずっと探していた声だった。懐かしささえ感じた。しゃがみ込んでいた楓に、光と足音が近付いてきた。

「姉ちゃん!」

 草介だった。紺と白のボーダーのTシャツを着て、手には懐中電灯を持っていた。二階からここへ落ちた時に無くしていた楓の懐中電灯だった。

「草介、草介!」

 楓は縋り付くように草介を抱きしめた。温かい。

「姉ちゃん、どうしてここに?」

「馬鹿、草介のことをずっと探していたのよ。アンタがいなくなったって純太が教えてくれて、それで、ずっと……! とにかく、無事でよかった」

 楓は深い溜息を吐いた。よかった。楓は草介から体を離した。草介は疲れた表情をしていた。草介も同じようにずっと旅館を彷徨っていたのだろう。楓は草介にスニーカーを渡した。草介は恥ずかしそうに笑いながらスニーカーを履いた。

「それにしても、今までどこにいたのよ?」

「あちこち。ここの地下って、すごいんだよ。忍者屋敷みたい」

 草介は靴紐を結びながら答えると、懐中電灯を楓とは反対側に向けた。そこにはどこかへ続く暗い廊下があった。楓が最初に落ちた時にはなかったはずだ。

「ずっと千尋と一緒だったから、寂しくはなかったよ」

「千尋? 待って、千尋?」

 思いがけない名前を草介は口にした。楓は聞き返した。草介は頷くと、廊下に向かって手招きをした。暗がりから少年が姿を見せた。

 ――……白。

 たしかに、街を歩けばみんなが振り返るような見た目をしていた。千歳とは全く似ていない。神々しいと言った千歳の言葉を楓は思い出していた。

 白い肌、白い髪、赤い瞳。懐中電灯の光に照らされて、白い少年が立っていた。浮き出ているように見えるほどの白だった。楓は尋ねた。

「あなたが、千尋君?」

 千尋はコクリと頷いた。真一文字に口を結んだ表情は、どこか千歳に似ている。

「あなたのお兄ちゃんと、さっきまで一緒にいたんだけど」

「千景君でしょうか、それとも千歳お兄ちゃんでしょうか?」

「ああ、千歳のほう」

 それ以上続けることは憚られた。言ったほうがいいのか、黙っているべきか。千歳がおかしくなってしまったことをどう説明すればいいのだろう。楓が迷っていると、千尋が口を開いた。

「千歳お兄ちゃんは、どこに?」

「それが、その……はぐれてしまって」

 千歳から逃げてきたとは言えなかった。楓は視線を逸らした。

「姉ちゃんも村の人に見つかっちゃったの?」

 草介の問いかけに楓は頷いた。おじさんを蹴り飛ばして逃げてきたのだ。岩月の家の子供だということも、ばれてしまっている。そのうちボイラー室の奥に扉を見つけて、ここにやってくるだろう。悠長に再会を喜んでいる場合ではない、はやく逃げなければ。時間がない。

「とにかく、ここから出なきゃ」

 楓の言葉に草介は頷き、暗い廊下を進んで行く。草介の後ろに千尋が続き、楓は一番後ろを歩いた。一見すると何もない壁を草介が押すと、壁が動いて通路が出来た。

「ね、忍者屋敷みたいですごいでしょ」

「どうして旅館の地下がこんなことになっているのよ」

「さあ、アトラクションだったんじゃないの? おもしろいじゃん、好きだよ」

 草介はそう言ったが、楓は納得できなかった。座敷牢は、誰かを閉じ込めておくためのものだ。隠し通路は、見つからないようにこっそりと移動するためのものだ。ヤマガミ様に捧げられる神の子を、美森山荘は客寄せのために利用していた。千歳はそう言っていた。もしかすると、座敷牢に閉じ込められていたのは神の子だったのかもしれない。人知れず連れてこられ、ここに閉じ込められたのではないか。楓には推測することしかできなかったが、他に理由が思い当らなかった。

 千尋は白い髪を軽やかに揺らしながら黙って歩いていた。雪のような白に楓は思わず見とれていた。村の人がヤマガミ様を信仰してきた気持ちが分かる。生まれつき白髪の人を楓は初めて見た。赤い瞳も。今では遺伝に関係することだと仕組みが解明されているが、昔の人にはそんなこと分からなかっただろう。きっと、特別な存在だと思ったに違いない。

「千尋君。千歳とは仲が良いの?」

「千歳お兄ちゃんは、いつも僕のことを気にかけてくれます。僕に心から優しくしてくれるのは千歳お兄ちゃんだけです」

「そう……」

「つまり千歳お兄ちゃんが僕の世界の中心にいるわけです」

「……素敵ね」

 楓は前を歩く二人からは分からないように小さな溜息を吐いた。どうしよう。千歳の異変を切り出せなかった。悪い人ではないと分かっているからこそ、つらい。遠くで誰かの悲鳴が聞こえる。

 ――もう戻れないの?

 千歳はどこにいるのだろう。このまま千歳を残して自分たちだけ逃げることは心苦しい。どうにかして一緒に逃げ出したい。だが、その方法が楓には分からなかった。悲しい。悔しい。胸がきゅっと痛んで、息が苦しくなる。


 廊下は数回曲がって、少し広い空間に出た。染みが広がる壁に梯子が取り付けられていた。上に続いている。ここから一階のどこかに上がれるのだろう。

 草介が梯子に上り、天井を少し押し上げた。隙間から外を窺って、周りを確認する。大丈夫、と手招きした。千尋を先に行かせて、楓は最後に梯子を上った。外に出ると、そこは本館の玄関の近くの廊下だった。ちょうど草介の靴跡が消えたあたりだった。草介は地下に下りたから、靴跡が残っていなかったのかもしれない。廊下は静まり返っていた。さっきまで楓を追いかけていた村の人たちの提灯の明かりも見えない。声も聞こえない。千歳の姿もなかった。草介は玄関の右側のほうへ向かおうとした。それを楓が止める。

「待って。私、アンタたちが使っていた穴は通り抜けられない」

「姉ちゃんはどこから入ったんだよ?」

「玄関を壊して」

「やるね、姉ちゃん」

「瓦礫をどうにかすれば出られるはずよ」

 懐中電灯を持つ草介が先頭を歩いた。千尋は相変わらず黙ったままだった。嘘みたいに静だった。気味が悪い。

 玄関の瓦礫は楓が壊した時よりも随分と片付けられていた。村の人たちはここから中に入ったのだろう。草介は瓦礫を乗り越えた。千尋と楓も続いた。あれほど降っていた雨は止んでいた。雷の代わりに虫の声が聞こえていた。楓はふっと息を吐いた。

「姉ちゃん、後ろ……」

 草介が楓の背後に懐中電灯の光を当てた。楓は振り返った。

「……千歳」

 瓦礫の向こう側に千歳が立っていた。千歳は玄関の板の間に立って楓を見ていた。懐中電灯の光に照らされた頬に血が付いているのが分かった。赤黒い血痕がぬらぬらと鈍く光った。楓は千歳をじっと見つめたままそこから動かなかった。千歳は首の後ろの髪をバサバサと掻きあげた。

「楓ちゃん」

 その声は出会った頃の千歳の声だった。表情も落ち着いている。

「もうすぐ夜が明けるよ」

 楓は空を見上げた。雨上がりの綺麗な夜空の端が白み始めていた。夜が明ける、影祭が終わる。視界の隅を白い影が通った。

 ――ああ、あの時見たのは千尋君だったの。

 千尋が楓の脇をすり抜けて瓦礫の向こう側へ、屋敷の中へと走り、勢いよく千歳に抱き付いた。千歳は千尋の頭を撫でた。

「千尋、ああ、やっと見つけた」

 優しい声で千歳は言った。ほっとした表情を浮かべていた。今まで見た中で、一番穏やかな顔をしていた。

「ずっと、思っていたのです」

 千尋は千歳の胸に顔を埋めたまま言った。その声は凛と澄んだ鈴の音のような声だった。けれども、ゾッとするほどに冷めた声だった。

「全部なくなってしまえばいいのだと。この家も、思い出も、何もかも消えてなくなれば、何も苦しいことなんてない。もう逃げ続けなくてもいい」

 千尋の手にはマッチ箱が握られていた。楓は自分のポケットに手をやった。

 ――……ない。

 ポケットに入れていたマッチ箱がなくなっていた。千尋は千歳の後ろに手を回したまま、マッチに火をつけた。止める暇もなかった。けれども、すべてがとてもゆっくりと動いて見えた。

 千尋は火のついたマッチを床に落とした。

 乾いた床に炎が一気に広がった。ロウソクよりも、もっとずっと強い炎が勢いよく燃え上がる。火の粉が舞った。火は一瞬にして美森山荘を飲み込んで行った。あちこちからバチバチと弾けるような音が上がる。熱風が吹き付けて楓の体を包んでいく。

「姉ちゃん!」

 草介が楓の腕を引っ張って、炎に包まれた屋敷から離す。楓は茫然と炎を見つめていた。炎は勢いを増して辺り一面を照らし出す。炎の中に、千歳と千尋は立っていた。

 千歳が笑っていた。笑いながら、泣いていた。

「楓ちゃんなら、大丈夫」

 炎の中の千歳が楓を見た。笑った口元に八重歯が覗いていた。火の粉がキラキラと輝く。千歳の涙もキラキラと光っていた。

「ここで見たことも聞いたことも、全部忘れて」

 ずっと、何もかもおかしかった。出会ったときからすでに、歪み、すれ違っていた。千歳が見ていたのは明らかに別の世界だった。

 どうして今まで気が付かなかったのか。もっと早くに気が付いておくべきだった。いや、本当はずっと気が付いていたのかもしれない。だが、どうしても真実を認めたくなかっただけだ。認めていたとしても、何かが変わったわけではない、けれども、もしかしたら、止められたかもしれないのに。楓は思う。その世界から、一緒に……踏み外す一歩を。


 冬のある夜、美森山荘にいた人が一人残らず消えた。

 ――今は夏なのにどうしてずっと冬の制服を着ているの。

 数年後、美瀬村のあちこちから人骨が発見された。

 ――どうして昔の話をそんなに知っているの。

 美森山荘の息子の骨だけは見つからなかった。

 ――どうしてそんなに旅館に詳しいの。

 ヤマガミ様に捧げられるのは、異形の者たちだ。

 ――神々しいほど美しい白に包まれた弟なのね。

 第一子は優先的に捧げられる。

 ――千景というお兄さんが、いた。

 我が子を奪われた女が川に身を投げた。

 ――それはもしかしてあなたたちの……。

 最後の神の子は十七歳だった。

 ――もうすぐ十八歳になるのでしょう。


「楓ちゃん」

 燃え盛る炎の中から、千歳の声が聞こえてきた。バチバチと燃え上がる炎や軋んで悲鳴を上げる建物の唸りが聞こえているはずなのに、その一瞬だけはなぜか、千歳の声しか聞こえなかった。

「俺のことは、どうか忘れてしまって」

 次の瞬間、大きな音を立てて美森山荘は崩れ落ちた。声にならない声が楓の喉から溢れた。楓は力なく座り込んだ。轟々と伸びる炎が辺りを明るく照らし、空を焦がしていた。

「モリが燃えとる!」

 村の人たちの騒ぎ声が近付いてきた。楓の腕を草介が引いた。

「姉ちゃん、人が来た。行こう」

 草介は苦しそうな表情を浮かべていた。楓はふらふらと立ち上がって、両頬をパンパンと叩いた。行かなければ。濛々と立ち込める煙と熱風の中を草介と楓は手を繋いで走った。

「そっちへ逃げたぞ、追え! 追え!」

 村の人たちの声が迫ってくる。鬱蒼と生い茂る木々の間を縫うように走った。白く濁った視界は、煙なのか霧なのか区別がつかない。濃く広がる白い世界の中で、草介の懐中電灯は役に立たなかった。道はもう分からない。自分たちがどこを走っているのか、どこへ向かっているのか。何も分からないまま、それでも楓と草介は走り続けた。

 ――神隠しなんて……。

 ヤマガミ様の仕業であるわけがない。高校生一人で、旅館の従業員や宿泊客を皆殺しにして、その死体を運び、隠せるわけがない。たった一人で、たった一夜で、そんなこと出来るわけがない。神隠しなんてありえない。だけど、それがもし、何人もの人間によって行われたのならば。そしてそれを隠し通すために、記憶とともにモリを封印したのならば。祟りを恐れて毎年の祭事を欠かさないのならば。

 楓の中で、ひとつの結論が導き出された。美瀬村に伝わる不可思議なものすべてに説明がつく。影祭も神隠しも、このモリも。

 ――ああ、こんなこと、酷い、酷すぎるよ。

 大粒の涙が楓の瞳から零れ落ちた。

 肌にまとわりつくような粘り気のある湿度が嫌いだった。悪意のない囁きが、得体の知れない気配が、不気味な夜の祭りが、笑顔の裏の黒い闇が、楓はずっと嫌いだった。大嫌いだった。今まで正体の分からなかった、美瀬村に漂う居心地の悪さが、どうしても受け入れられなかった。

 狂気。

 異常なのは、この村だろうか、それとも楓のほうなのだろうか。狂った人は、自分が狂っていることを認識できない。美瀬村の崩壊した意識の中で生まれ育てば、この村は何一つ狂ってなどいないのだ。たとえそれが外から見れば異常だとしても。間違っているのだと、誰一人として口にはしなかった。暗黙の了解だったとしても、禁じられていたわけではない。ただ誰も、自分たちがおかしいとは思ってもみなかっただけだ。疑うことなく生きてきただけだ。外から移って来た人たちも、嫁いできた人たちも、口を閉ざし疑問を排除することを選んだ。村の一員として生きていくには、外の常識なんて役には立たなかった。

 もう追ってくる声も聞こえない。完全に方角を見失って、楓と草介は立ち止まっていた。何も見えない。踏み出す一歩の先に地面があるのかさえ分からなかった。繋ぐ手を離してしまえば、もう二度と見つけられない気がした。楓は草介と繋いだ手に力を込めた。草介もギュッと力を込めて握り返した。呼吸が白い世界に消えていく。


 その時、楓がずっと握りしめていたランタンの火がボッと点いた。淡いオレンジ色の柔らかな光が白い世界を照らした。次第に、周りの木々の影が濃くなっていく。その中に、薄らと人影が見えた。ぼんやりとした輪郭の黒い人影は手招きした。楓は草介と顔を見合わせた。どちらともなく頷いた。行こう。楓はランタンを掲げ、草介の手を引き、人影に向かって歩き始めた。

 黒い人影はゆっくりと進んでいく。時折、少しだけ振り返って楓たちを待つように立ち止まった。人影は迷うことなく歩いて行く。あれほど騒がしかった人の声は聞こえない。足元の枯葉も音を立てない。虫の声も届かない。息を吸って吐く音も。とても静かだった。別の世界にいるようだった。耳の中に鼓動が響いていた。確かなリズムで、命が動いていた。

 徐々に白い世界が晴れ、周りの景色がはっきりとしてきた。空が明るい。もうすぐ夜明けだ。黒い人影は、黒い服を着ていた。詰襟の学生服だった。両方の手首を鎖が繋いでいた。片足を引き摺っている。けれども凛と背筋を伸ばして歩いていた。

 ――千歳。

 心の中で楓は名前を呼んだ。千歳、千歳。名前を呼ぶたびに涙が溢れて視界が滲んだ。なんで、どうして。そればかりが頭の中に浮かんでは消えた。

 緩やかな斜面の上で千歳は止まった。千歳は手を伸ばした。手首の鎖がジャラリと鳴った。その指は傷だらけだったが、真っ直ぐに伸ばされていた。楓は千歳の指の先を見た。斜面の木々の向こうに三叉路が見えた。村と神社とモリを結ぶあの三叉路だ。千歳は斜面をゆっくりと下り、注連縄の手前で止まった。楓と草介は滑り降りるように斜面を下った。注連縄は新しくなっていた。

 草介は注連縄の下をくぐり抜けた。向こう側はモリの外だ。ここを越えさえすれば、モリから出られる。それは分かっている。しかし、楓は立ち止まったまま動かなかった。足が震えて動けない。前に進めない。あれほど帰りたいと願っていたにもかかわらず、最後になってあと一歩を踏み出すことが出来なかった。

「姉ちゃん」

 外の草介が楓を呼ぶ。はやく、と急かす。それでも楓は動けなかった。もうこれ以上は進めない。

 ――あなたを置いては行けない。

 楓は隣に立つ千歳を見た。顔の右側は酷い怪我をしていた。アザや傷が顔面の右側を覆い、血が流れていた。じゅくじゅくと化膿している傷もある。腫れた右目は閉じられたままだった。意図的に傷つけられた体だった。

 千歳は左目で楓を見ていた。灰色の優しい瞳が、楓をじっと見つめていた。友達ではない。約束があったわけではない。半日ほど行動を共にしただけの赤の他人だった。千歳という名前しか知らない。けれども、それだけで十分だった。楓は頭を振った。

 ――あなたを残しては行けない。

 楓の頬を涙が伝う。千歳は灰色の瞳を細めて笑った。

「いいんだよ、楓ちゃん」

 千歳は疲れたような、諦めたような、けれども穏やかな声で、楓を諭すように言った。

「俺はもういいんだ」

 パックリと割れた右の額の傷から血が流れ続けている。頬を伝って首筋からぽたぽたと赤い雫が零れ落ちる。幾筋かは首から詰襟の中に入っていく。

「千尋が見つかって、草介君も見つかって、楓ちゃんも無事にモリを抜けようとしている。美森山荘は焼けて、これから先、誰も迷い込んだりはしない」

 千歳はモリの奥を振り返った。空が燃えていたが、三叉路は静まり返っていた。

「心残りがあるとすれば、そうだな。少し寂しくなるよ」

 モリを振り返る千歳が笑った気配がした。

「俺には、この村しかなかった。この村が俺のすべてだった。俺は誰も憎んでいないし、恨んでもいない。たとえ、こんな結末になってしまっても、それでも」

 千歳は呟くようにそう言って楓を見た。楓は涙をはらはらと落としながら俯いた。怪我の奥にある澄んだ瞳を見るのがつらい。諦めてしまった笑顔が悲しい。楓は歯を食いしばって泣いた。

「楓ちゃん、草介君。モリのことを誰かに話してはいけない。誰に何を聞かれても、見ていない、知らないと言って。忘れてしまって。モリのことも、俺のことも。そうして生きていくことが、二人のためになるから」

 楓が握りしめているランタンの中から、千歳は火が点いたままのロウソクを取り出し、それをそっと注連縄に近付けた。一瞬にして注連縄が燃え上がり黒焦げになって地面に落ちた。千歳はロウソクをランタンの中に戻した。その一つひとつの動作を、楓は目に焼き付けるようにしっかりと見ていた。

「忘れたくなんかない」

 楓は震える声を振り絞って言う。

「忘れて生きることなんて出来ない、何もなかったように繕っては生きられない。千歳のことを忘れてしまったら、私と、村の人たちの、何が違うと言うの。同じでしょう?」

 ぼろぼろと零れる涙が止まらない。楓は泣きながら千歳を睨みつけた。思い通りにならずに不貞腐れ駄々をこねる子供のようだった。泣いて喚いて、どうにかなるのならば、いくらでも泣こう。けれども、もう自分にはどうすることも出来ないことくらい、楓にも分かっていた。だから泣くしかなかった。それ以外にこの悲しみを表現するすべがない。あまりにも無力だった。どれほど強がってみても、もう何も出来なかった。

「家に帰れば、きっと、みんなから聞かれる。モリで何をしていたのか、何を知ったのか。その問いに、何も知らないと私は答える。何も見ていない、聞いていない、誰とも会っていない。……だけど、私は絶対に忘れない」

 忘れずにいるということだけが、楓に出来る唯一の、そして精一杯の抵抗だった。

「楓ちゃん」

「嫌よ、絶対に嫌。忘れてなんかあげない」

 分かっている。美瀬村のひとりとして生きていくためには、すべてをなかったことにする必要があることくらい分かっている。保たれてきた規律を乱すこと、つまり正気に戻ることが、美瀬村にとっては異常とされる行動なのだ。染みついた狂気はもう元に戻ることはない。信仰、祭事、富、執着心。モリを生み出した環境は何一つとして超自然的なものではない。すべて、人が創り出したものだ。そして創り出した幻を本物に変えたのも、人だ。たとえ楓が美瀬村に二度と帰ってこなくても、楓は美瀬村のひとりだった。そのことは一生、楓の心を縛るだろう。

 影だ。村の一族は皆、影でモリと繋がっているのだ。

 千歳は困ったように笑った。

「夜が明けるよ、楓ちゃん。影祭が終わる。俺も、もう帰らなくちゃ」

 どこへ、とは聞けなかった。千歳にはモリしかない。帰る場所がない。行く場所もない。千歳を自由にする方法が、楓には分からない。

 突然、強い風が吹き、ランタンの炎が大きく揺れた。夏の朝の匂いがした。千歳は傷だらけの手で血を拭うと、右目を開いた。黒い瞳の中に楓が映った。千歳はランタンを持つ楓の手に、自分の手を重ねた。触れ合った千歳の手には実体がない。透けてしまう。そこに千歳がいるという実感がない。けれど、とても優しい手だった。楓が千歳に触れたのは、それが最初で最後だった。気にも留めないような自然な動作で、ずっと千歳は楓に触れないようにしていたのだろう。何もかもが、自分をモリから逃がすための演技だったとしたら。そう思うと、今までのやり取りの中に隠されていた千歳の優しさが楓の体中に突き刺さる。

 千歳はゆっくりと、慈しむように言った。

「あなたがどうか、このモリを抜けられますように」

 それはまるで、お守りのような言葉だった。千歳の手はすぐに離れた。ぬくもりさえ残さずに。

「ありがとう、楓ちゃん」

 千歳は八重歯を見せて笑った。

 ――ずるい。

 楓は上手く笑えなかった。笑顔が歪む。

 千歳は楓の背中をそっと押した。楓の足は焼け焦げた注連縄を越える。

 向こう側の世界へ。


 モリの外へ。


 楓は振り向いた。モリの中に千歳は立っていた。楓は手を伸ばしたが、その手は千歳の体をすり抜けて虚空を引っ掻いただけだった。千歳の顔の怪我はなくなっていた。鎖もない。出会った頃の姿に戻っていた。千歳は微笑んでいた。少し泣き出しそうな、寂しい笑顔だった。

 さよなら。

 千歳の口が別れを告げたのが分かった。千歳は背中を向けると、モリの奥へと帰っていく。楓は去っていく後姿を見送っていた。建物が燃えても、千歳はモリから出られないのだ。どうすればよかったのか分からない。だが、千歳はまたモリに消えていく。楓がモリを抜けても、千歳には抜けられないのだ。見えない境界線を越えることが出来ない。それだけは確かなことで、どうすることも出来ない。向こうはもう、別の世界だ。あの日から時が止まったままの、閉じた世界だ。姿が見えなくなってからもしばらくの間、楓はじっとモリを見つめていた。まるで、何か大切なものを忘れてきたような気持だった。

「姉ちゃん、帰ろう」

 草介の手が楓の腕を引っ張った。楓は草介を見た。楓は尋ねた。

「……泣いているの?」

 楓の言葉に、草介はハッと自分の頬に手をやった。流れる涙に気が付いてなかったのだ。

「すごく……悲しい」

「うん」

 楓は草介の手を取り、ギュッと握りしめた。

「帰ろう」

 手を繋いで帰る。温かい体温を感じながら、誰もいない朝焼けの道を行く。澄み切った風が二人を追い越していった。ランタンのロウソクが倒れてカランと鳴った。

 森がとても静かな夏の明け方だった。


 大人たちは呆れるほど多くの質問をしてきたが、楓と草介は何を聞かれても、知らないと答えた。誰にも会っていない、何も見ていない、聞いていない、覚えていない、分からない。他に誰かいたはずだと言われたが、楓は首を振った。誰とも会っていない。楓が背中を蹴り飛ばしたおじさんをはじめとして、大人たちはとても怪訝そうな顔をしていた。しかし、やがて大人たちは諦めたのか尋ねることをやめた。それに、モリが燃えてしまったことにどう対処するのかを話し合うので忙しそうだった。来年から影祭はどうなるのだろう。

 親戚はみんな楓と草介を怒ったが、母だけは違った。

「仕方がないわ。だって、そこにあるのに何もないふりをしなければいけないなんて、とても寂しいことだから」

 母はモリのことを知っているのかもしれないが、楓にはそれを確かめることが出来なかった。きっと美瀬村と外のズレを認識しているだろう。しかし、母はそれを仕方がないと諦めたのだ。諦めて、美瀬村のひとりとして生きていくことを選んだ。父や一族、そして楓や草介のために。

 純太が何度も謝ってきたので、何もなかったのだと楓は首を振って答えた。さすがに察したのか、純太は謝らなくなった。いつものように竹の釣竿を持って、川へ釣りに行こうと草介を誘って出かけて行った。純太やほかの子供たちの情報によると、怪我人は出たが、火事で犠牲になった人はいないらしい。モリは建物だけが焼け落ちて、周りの木々や枯草には延焼しなかったということだ。夜中に降っていた雨のおかげなのか、不思議な力が働いたのかは分からない。けれども、千歳が関わっていたらいいのにと楓は思う。千歳が延焼を防いでくれたのだと信じたい。そうであれば、とても嬉しい。

 あの夜に何があったのか、楓と草介は互いのことを話さなかった。本館に戻り火をつけた千尋のことを草介はなぜ止めなかったのか、その理由を楓は知らない。草介もまた、楓と千歳の間にどんなやり取りがあったのかを知らないだろう。知りたいとは思っているが、まだ、自分の心の中でうまく整理が出来ていない。


 楓たちは慌ただしさの中で美瀬村を去り、家に戻った。都会の風はからりと乾いていた。突き刺さりそうなほどに乾燥していた。新学期が始まる前に体操服を買い替えた。まだ半年も使っていないのに、一晩中モリを彷徨い続けた体操服は何度洗っても汚れが落ちなかった。楓はボロボロになった体操服をタンスの一番奥に仕舞った。千歳のランタンも、村のみんなには内緒で持って帰って来た。戻ってからよく見ると、とても汚れていて、ロウソクに火をつけてみても、灯りとしては使い物にならなかった。それでも楓はその古いランタンを大切に飾った。千歳が持っていたから、道を照らしていたのかもしれない。そんな想像をしては、濁ったガラス越しの景色を眺めていた。

 新学期が始まっても、同級生たちは相変わらずだった。楓の知らない思い出を楽しそうに話していたが、どこか遠い世界の物語のような気がした。つまらない。楓はそう思う。すべてのことが色褪せているようだった。だが、ニコニコと笑いながら楓は話を聞いて、相槌を打っていた。夏休みを田舎でどう過ごしていたのか尋ねられると、何もなくて退屈だったと楓は答えた。何も、なかったのだ。

 たとえば、美瀬村のことや、あの夜のことを同級生たちに話をしてみても、誰も信じないだろう。けれども、どこかで小さな嫌悪感を抱く。ありえないと笑いながらも、気持ち悪いと思うのだ。そう思われることは悲しい。これは心の中に留めておこうと楓は固く決めた。

 ――キレイなままで思い出を残しておきたい。

 そこに光は要らない。陰湿で、曖昧なままの影の話で構わないのだと、楓は思う。楓は確かに、美瀬村は外の常識とは違うのだと感じている。けれども、世間とのズレを外側から指摘されたくはなかった。美瀬村を知らない人たちが、異常という一言で一括りにしてしまうことが嫌だった。深く暗い、人間の心の闇で出来たモリの中で、千歳だけは、闇に差し込む一筋の光のように見えていたのだ。千歳まで異常だと言われるなんて、楓には耐えられなかった。


「あの夜のこと、姉ちゃんはまだ覚えている?」

 秋も半ばのある夜のこと、草介がぽつりぽつりと話し始めた。

「俺は、モリに入ってすぐに、千尋を見たんだ。窓から俺たちをじっと見ていた。純太たちは気が付いていないみたいだった。だから、中に入ってすぐに、千尋を探した」

 途切れながら話した草介の体験は、こうだった。

 千尋を探しに行くと、床が開いていて、地下に下り、そこで千尋と出会った。千尋は逃げているのだと言った。そして、兄を探しているとも言った。廃墟に一人で置いては行けないと思った草介は、千尋と一緒に行くことに決めた。あとはずっと、逃げながら、彷徨い続けていたらしい。何から逃げていたのかを、結局最後まで、草介は明かさなかった。

「千尋は、お兄ちゃんが自分の身代わりになったんだって、言っていた。もうどうすることも出来ないのなら、全部、消し去ってしまいたいとも言っていた」

 だから、千尋が火をつけた時、ああこれでもう終わるんだなぁと、どこか安心感があったのだと草介は言った。千尋を止めようとは考えなかったらしい。止めてはいけない、そう強く思ったのだと草介は呟くように言った。

 草介はモリで何が起こったのかを知らないままのようだった。神隠しや神返しのことも、影祭のことも、千尋から聞かなかったのだろう。楓は上手く説明できなかった。だから、何も言わなかった。美瀬村はおかしいと、草介が感じるのは、いつのことだろう。

 今はまだ圧倒的な悲しさが残る。寝る前に目を閉じると、欠落感や虚無感が押し寄せてくる。千歳を救えなかったという後悔が楓の心の中に深く刻まれていた。もっと他に方法はあったはずだ。何一つ解決はしていない。村の風習も変わることはないだろう。一生、モリに心を残したまま。モリに帰っていく千歳の後姿が瞼に焼き付いている。頼りない声も、凛とした横顔も、まっすぐな瞳も。時々、人波の中に千歳の幻を見ることがあった。流れる人並みを遡るように、千歳はゆっくりと遠ざかる。やがて見えなくなると、楓の心の奥に千歳の声が響く。楓ちゃん。名前を呼ぶ声が聞こえる。ひとりにしないで。

 いつの日か、これでよかったのだと思える時が来るのだろうか。選択は正しかったのだと思える日が訪れるのだろうか。分からない、と楓は思う。本当に分からない。だけどもし、その時が来たら、いっそのこと。

 ――息を、止めてしまえ。

 楓は薄らと笑みを浮かべた。

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キミガモリ 七町藍路 @nanamachi

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