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ぼくとスピアーの話。


 スピアーというポケモンが好きだ。

 ご存じない方のためにザックリ説明しておくと、スピアーは「どくばちポケモン」というポケモンで、スズメバチをモチーフとした姿をしており、両手の先とお尻の先に槍のような針が付いている。ビードルというイモムシから、コクーンというサナギ姿を経て進化する。また、シリーズによってはメガシンカという特別な進化を遂げてメガスピアーという姿になる。むしポケモンは総じて成長が早いので、ゲーム序盤では頼りになる存在である一方で、ステータスは他の種族に見劣りする傾向がある。

 紹介はこれくらいにしておく。著作権の都合上、ここで画像を紹介することは出来ないので、詳しくはポケモン図鑑を検索していただくか、実際にゲームを遊んでみてほしい。なお最新作のアルセウスの地方には生息していないため出てこない。

 ぼくは、バトルではほのおポケモンを使うためバトルメンバーにスピアーは入れていない。道中はスピアーと共に旅をするものの、ほのおポケモンが充実したらスピアーにはバトルを離れてゆっくりと過ごしてもらっている。
 バトルとは関係なしにスピアーが好きだから、ステータスが少々トリッキーであっても気にならない。もちろん、ステータスがどれほど初心者向けだったとしても、あるいは逆にまったくバトル上級者向けのステータスだったとしても、スピアーが好きなことには変わりないだろう。
 ぼくがスピアーを好きなのは、そのデザインの格好良さ(初代から登場するポケモンなので新しいポケモンと比べてデザインもシンプルだ)でも、わざの格好良さ(ダブルニードルという専用技を持っていた)でも、アニメにおける悪役に適役なこと(森で襲撃されるのはお約束展開だ)でもない。ちなみにメガスピアーの姿になると、なんかもうハチャメチャに格好良い。ぼくの中にある少年の心が騒ぐ。
 だが、ぼくがスピアーを好きなのは、やはり、見た目やステータスといったゲーム的なところとは別にあるのだと思う。

 ここからどうやって創作の話に繋げていくのか? もう少しぼくとスピアーの話に付き合ってほしい。

 ポケモンには「ニックネーム」というシステムがある。デフォルトではポケモンの種族名(ピカチュウやリザードンなど)の名前なのだが、ポケモンをゲットすることにより、自分の好きな名前を付けることが出来る。
 アニメではメインキャラクターたちが自分のポケモンにニックネームを付けていないのでゲームをプレイしていない方にとってはあまり馴染みが無いかもしれないが、たとえば映画ミュウツーの逆襲では、フジギバナにバーナードというニックネームを付けているキャラクターが登場した。
 もうお気づきかもしれないが、ぼくもスピアーにニックネームを付けていた。

 ぼくとスピアーとの出会いは、初代ゲームのポケットモンスター赤だった。兄のお下がりでソフトを貰った。小学生のときだ。
 トキワの森でスピアーの進化前となるビードルを捕まえたとき、ぼくはふと、スピアーにニックネームを付けようと思った。ポケモンをゲットするたびにニックネームを付けるかどうか聞かれるので、たまには付けてみようというのが本当のところだった。要するに、気紛れだ。
 そうして付けた名前は「マドレーヌ」。その日のおやつだったあの洋菓子のマドレーヌだ。

 それはまるで、稲妻の魔法のようだった。
 スピアーが「ぼくのスピアー」になった瞬間だ。

 ほかのポケモンにもニックネームを付けてみたが、スピアーほどの衝撃は無かった。初恋と同じで、最初の一回だけが強烈な印象を持って、いつまでも心に残り続けるのかもしれない。
 とにもかくにも、それ以降、ぼくは新しいシリーズをプレイしてスピアーと出会うたびに、マドレーヌという名前を贈ってきた。
 余談だが、ポケモンには性別という項目があり、選んで捕まえているわけではないが、ぼくがゲットするスピアーはなぜかいつもオスだ。

 ぼくがスピアーを好きなのは、彼が「ぼくのスピアー」だからだ。
 他に説明しようがない。彼はぼくにとって特別な存在なのだ。

 ここで急に創作の話をする。
 ぼくの書く物語には「よく分からない人間」がよく登場する。ここでいう「よく分からない」というのは、親しいはずであるのに考えがまったく読めないといった「掴み所がない」という意味合いだ。ぼく自身が、そういった人間に憧れているのだ。
 よく分からない人間の最たる例は『おいで、ロロ』に登場する「友人」だ。
 この友人は、主人公である「ぼく(清緒景)」の大学時代の隣人である。しかし、作中では性別も不明で、「ぼく」が常に「友人」と呼んでいるため、本当の名前さえ語られない。
 最近で言えば『「明日世界が滅ぶから、人質になってくれ」と君は言った』のサクラもよく分からない人間だ。旧姓の佐倉でずっと呼ばれているが、このサクラもまた、何者であるかがハッキリしない。

 しかしながら、どちらにとっても言えることは、「説明のしようがないものの、特別な存在である」ということだ。ロロの「友人」は「ぼく」の人生に大きく影響を与え続けているし、明日人質のサクラと「俺」の関係も同じだ。
 ここで重要なことは、「ぼく」も「俺」も最終的には友人達からの干渉を受け入れているということだ。どちらも拒絶して友人達の手を振り切ることは出来る状態であったにもかかわらず、そうはしなかった。
 そうはしなかったがために、あんな顛末が待っているわけなのだが。
 しかし、それはなぜか?

 スピアーの話に少し戻る。
 ぼくにとってスピアーが特別なのは、初めて名前を付けたからという理由であることは確かなのだが、だからといってニックネームだけがすべてだとは言えないだろう。初ニックネームはいくつかある理由のひとつに過ぎない、あるいは、理由ではなくただのきっかけに過ぎないかもしれない。
 この話はどこに着地するのか?
 それは「呼び名の特別感」という地点だ。

 ロロの「ぼく」が「友人」と呼び続けることも、明日人質の「俺」が「サクラ」と呼び続けることも、どちらにも根底に特別感が潜んでいるとぼくは考えている。
 これは優越感と似ているのだが、他人より優れているという文字通りの意味というよりも、自分だけに許された呼び方があるということに対する満足感に近い。
 ぼくの「マドレーヌ」も同じだ。
 ここでは相手が自分にとって特別な存在かどうかではなく、相手にとって自分が特別な存在であるということに焦点がある。
 数多くの友人知人がいる中で、自分だけはあなたをその名前で呼ぶ。それはあなたが特別な存在だからではなく、あなたにとって自分が特別でありたいという願望だ。いっそ烏滸がましいほどだ。
 だから、彼らは友人達の手を振り解けなかったのだ。
 ちなみにロロの「ぼく」が「友人」と呼び続けるのは、自分だけはいつまでも友人のままでいるという意味もあるだろうけれど、友人の本当の名前を誰にも明かしたくないという独占欲もあるだろう。彼はそういう奴だし、それを自覚している。

 ぼくは、「よく分からない人間」と「平凡な人間」の友情が好きだ。よく分からないのは人間でなくとも人外であっても良い。
 人間らしきものが人間とは少々異なる価値観で人間をこよなく愛しているつもりだというところも好きだし、凡庸が天才を苦悩しながらもなんやかんやで受け入れるところも好きだ。どうにも離ればなれにはなれそうにないふたりというのも、なかなかどうして興味深いと感じる。
 この関係性は、いわゆるラブというよりは、腐れ縁と呼んだほうが良いかもしれない。だから男ふたりが集っていても、それはBLではなくて友情を煮詰めて焦がしたものだと思ってほしい。女ふたりが集っている物語はまだ無いが、そちらも同じく、だ。
 そもそも人間がふたり居たら必ず愛が芽生えるかと問われたら、そうとは限らないだろうとぼくは思うので、何でもかんでもラブで一括りにするのは違うように感じる。あくまでもぼく個人の見解だ。

 ぼくにとって、スピアーが「ぼくのスピアー」であるように、彼にとってもぼくが「オレのトレーナー」であれば、それはとても幸いなことだと思う。
 ぼくは彼にとって特別な存在だろうか。
 どうかそうであってくれと願う。

 ぼくは今日もスピアーが好きだ。

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