第4話
二階に上がると、正面の窓の雨戸が開いていた。割れた窓から雨が振り込んでいる。窓際に立つと、通って来た渡り廊下の屋根が見えた。楓は近くの部屋に入った。二階の客室は一階よりも広く、部屋数が少ない。内装も少し豪華だ。三階はもっと豪勢なつくりをしているのだろうか。金と暇を持て余した人たちは、ここで何をして過ごしていたのだろう。
部屋に備え付けられているクローゼットを開けようと楓は手を伸ばした。しかし、慌てて手を引っ込めた。
――今の、何。
伸ばした手に、ヒヤリとした感覚があった。まるで冷たい手を重ねられたようだった。氷のように冷たかった。手を見ても、何もついていない。気味が悪いと思いながらも、楓はクローゼットを開けた。カビ臭い。中には紳士もののコートがハンガーに掛けられていた。濃紺のコートは扉を開けた勢いでゆらゆらと揺れた。コートの下にはマフラーが丁寧に畳まれていた。楓は何もなかったかのように振る舞った。気のせいだとは思えなかったが、口にすれば途端に、冷えた手の感覚が戻ってきそうだった。
次の部屋には、子供用の洋服がベッドの上に広げられていた。黄ばんだ薄紅色のワンピースだ。フランス人形を思わせるような可愛らしい服だった。襟元に施されたレースは上品だった。
「草介も」
楓はポツリと呟いた。
「瞳の色が違うの。よく見なきゃ分からないけど」
へぇ、と後ろの千歳が答えた。
「右は焦げ茶、左は黒。怒ったりすると、はっきり分かるの」
「怖い? それとも羨ましい?」
「ちょっとだけ羨ましいかな。私は両目とも黒だから」
何気なくワンピースに触れると、なぜか温かかった。まるで、脱いだばかりの服のようだった。楓は自分の服の裾で手を拭った。
部屋を後にして廊下に出る。雨の音が聞こえていた。ふと窓の外を見ると、明かりが見えた。楓は身を屈めるようにして窓に近付いた。
「外に誰かいる」
楓は小声で千歳に伝えた。背後で千歳が窓から遠ざかる気配がした。ランタンの明かりが弱くなる。楓は目を凝らして外の様子を窺った。提灯を持った人影がいくつか見える。何かを探すように屋敷の周りをウロウロと歩き回っているようだ。しばらく見ていると、人影が集まった。輪になって何か話をしている。オレンジの光に照らされた顔の一つに見覚えがあった。仲塚の酒屋のおじさんだ。村の大人たちだ。
「村の人たち。まだ影祭の途中なのに。私たちのことを迎えに来てくれたのかな」
「いや、多分違う」
振り返ると、千歳は険しい顔をしていた。
「連れに来たんだ、ヤマガミ様のところへ」
「そこへ行って何をするの?」
「分からない、でも、連れていかれたら、もう戻れない」
千歳の顔から表情が消え、口元だけが歪に弧を描いた。楓は外を確認してから立ち上がった。千歳の表情は元に戻っていた。
「……じゃあ急がないと」
楓は足早に歩き始めた。千歳も付いてくる。千歳がまとう空気の変化を楓は感じていた。部屋の隅を見つめていた時も、黒い綿埃を踏みつぶした時も、トイレに行った楓を待っていた時も。少しずつ、不安定になっている。理由は分からない。はっきりとも言えない。しかし、何かがおかしくなってきている。
――そりゃ、ずっとこんな場所にいたら、おかしくもなるけど。
それだけではない不穏な何かが、ほんの少しずつ、けれども確実に、千歳を変え始めている。千歳の中にくすんだ黒がじわじわと広がっているようだった。このまま一緒に行けるだろうか。楓は心の中に広がる不安から逃れるように歩き続けた。
クスクスという笑い声が背後から聞こえてきた。千歳が笑っている。楓は振り向かなかった。もう駄目かもしれないと感じながらも、ランタンを奪って逃げようとは思わない。置いては行けない。千歳を置いて自分だけ逃げたら、絶対に後悔する。もしそんなことをしたらきっと自分を許せない。楓は唇を噛みしめた。
上ってきた階段の前を通り過ぎて、さらに奥へと進んで行く。鍵が掛かっているのか、あるいは中で何かが引っ掛かっているのか、開かない扉もあった。壁はあちこちが崩れて、パイプがむき出しになっているところもあった。扉が開いたままの客室に入ると、タタタタッと足音のような音とともに、風が楓の横をすり抜けて行った。部屋の窓は閉まっていた。
ベッドの布団が床に落ちていた。薄汚れた布団の上に、スニーカーが綺麗に並べられていた。岩月草介。楓が中学生の時に履いていたものと同じデザインの学校指定のスニーカーの内側に、草介の名前がマジックで書かれていた。やっと草介の手掛かりを見つけた。楓はスニーカーを拾い上げた。
――裸足でどこまで行ったのよ。
どうして靴を脱いだのかは分からないが、今頃は靴下の裏が真っ黒になっているだろう。草介のスニーカーを持ったまま、楓は次の部屋へ向かった。閉じた扉の前に立つと、部屋の中から人の話し声が聞こえた。内容を聞き取ることは出来ないが、女の人の声だった。楓は一瞬躊躇したが、勢いよく扉を開けた。部屋には誰もいなかった。シン……と静まり返った暗闇が広がっているだけだった。クローゼットの前に割れた手鏡が落ちていた。別館に来てから、不可解なことが起こるようになった。しかし、引き返すわけにはいかない。楓は千歳に悟られないように深呼吸をして心を落ち着けた。
「ごめんなさい」
背後の千歳が呟いた。
「全部、俺が悪いんです」
その声は泣いていた。楓は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
クスクスと笑っていた千歳は、いつのまにかしゃくりあげていた。もう限界なのだろう。何度も同じ言葉を繰り返している。ずっと強気だった楓も、もう随分と疲弊していた。廊下が永遠に続くような気がしたし、いつまでたっても夜が明けない気分になる。しかし、暗い気持ちを引き摺りたくはない。家に帰りたい。だから早く草介を見つけよう。楓は立ち止まりそうな足を動かし続けた。千歳は泣きながら、それでも楓の後ろでランタンを掲げ続けていた。
――泣かないで。
楓は汗で額に張り付いた前髪を横に流す。髪の毛は埃まみれになり、蜘蛛の巣が引っ掛かっている。千歳のことは心配だ。けれども、労わる声をかけることが出来なかった。言葉が出てこない。泣かないで、心配いらない、もう少しよ、頑張ろう、伝えたい思いは浮かんできても、それが声にならない。口を開けば重苦しい空気に押しつぶされそうだった。
見えない何かの気配を感じながら楓は奥へと進んで行った。二階にもトイレがあった。その前を通り過ぎる。一階は床に穴が開いて進めなかったが、二階の廊下は辛うじて奥まで続いていた。端の部屋まで見て回ったが、草介の手掛かりはもうなかった。楓は二階の探索を終えて、残る三階へ向かおうとしたが、廊下の一番奥には下へ続く階段はあるものの、三階へ上る階段はなかった。仕方なく楓は引き返した。千歳の呼吸は落ち着き、時々鼻をすする程度になっていた。雨は相変わらず降り続いているらしい。窓をたたく音が聞こえていた。
「淵坂は」
千歳が弱々しい声を出した。楓は少し首を捻った。視界の隅の千歳は、ランタンを持っていないほうの手で涙を拭っていた。
「ずっと昔は、濁りのない、綺麗な瀬だったから、この村は、美瀬と呼ばれていたんだ」
楓は前を向いた。
「どうして淀んでしまったの?」
千歳は深呼吸をしてから言葉を紡いだ。
「気がふれた女の人が、入水した。それ以来ずっと、その人が身を投げたあたりだけが深く淀んでしまった」
「……どうして自殺したの?」
「子供を、神返しされたから。無理矢理奪われて、母親は正気を失った。毎日、毎晩、村を徘徊して、そのうちにフラフラと川に入っていった」
楓は本館の廊下に飾られていた絵を思い出した。着物姿の女の人。その人と想像の中の女の人が重なる。つま先から少しずつ、清く澄んだ冷たい水に、そっと浸していく。ゆっくりと進むと、次第に水は深くなる。膝、腰、胸、肩、そして。息を。
「千歳は怖がりのくせに、怖い話ばかり知っているのね」
何気なしに楓はそう言ったが、千歳は返事をしなかった。その代わりに、ケラケラと笑った。同じ言葉を繰り返す子供向けのおもちゃのようだった。無邪気な笑い声が廊下に反響して、重なり合っているように聞こえる。まるで、何人もの人が笑っているように思えた。
――ああ、千歳が壊れていく。
楓は俯いた。段々とおかしくなっていく千歳に対する恐怖心はなかった。むしろ可哀想だと感じていた。同じように弟を探して彷徨っているのに、千歳は廃墟の雰囲気に飲み込まれていく。楓よりも敏感に、見えない何者かの気配を感じ取っているのかもしれない。早く朝が来てほしい。このままだと千歳の心がボロボロになってしまいそうだった。闇に飲まれてしまったら、もう、連れて帰る自信が楓にはなかった。
三階に続く階段を上っていると、雨のせいだろうか、次第に空気がひんやりとしてきた。ゴロゴロと雷の音が遠くで響いていた。三階は二階よりもさらに客室が少なかった。それにL字の縦の部分しかないらしい。廊下の突き当りが両方とも見えた。また上側から調べていく。時折、大きな雷鳴を連れた青白い光が窓や隙間から室内を照らした。
「七歳までは、神のうちだから。十歳までは、うん、十二歳までは、神のうちだから」
千歳はそんなことを呟きながら付いてきた。何のことを言っているのかは察しがついた。ヤマガミ様に捧げる神の子のことだろう。昔は子供が七歳になるまでは神様のものだと考えられていたということは、楓も知っていた。そういう歌も知っている。千歳は囁くように小さな声で、それでいてとても冷たい声で言った。
「十八になるまでに、神返しを」
瞬間、稲光が強く瞬いた。すぐさま叫び声のような雷鳴が轟き、空間を切り裂いた。建物全体が震えた。しばらくしてからも、まだ空気が痺れているような気がした。耳鳴りがする。楓は両手で耳をポンポンと叩いたが、キィーンと甲高い音が雷鳴の余韻のように楓の耳の中にこだましていた。
奥の部屋の前に立つと、扉の隙間から冷たい風が漏れていた。嫌な感じだ。けれども、開けるしかない。おかしいということは、そこに何かがあるということだから。楓は冷え切った扉を開けた。背後で千歳がクスクスと笑った。
むせ返るような異臭が部屋を満たしていた。腐敗臭が鼻をつく。思わず楓は顔をしかめた。そこは広間だった。部屋の隅に少し家具があり、床に朽ちた木材が転がっているだけの、ガランとした空間だった。楓の咳払いが響いた。
「だけど、ね。楓ちゃん」
千歳は立ち尽くす楓の横にランタンを置いて通り過ぎ、部屋の中央に立った。千歳は足元の剥がれた床板を蹴り飛ばした。床板はくるくると回転しながら床を滑り、壁にカツンと当たって止まった。
「何十人もの人が一夜のうちに神隠しに遭うと思う? 村とは何の関係もない外の人間をヤマガミ様に捧げると思う?」
楓は黙ってランタンを手に持った。揺れる炎は部屋におぼろで大きく長い影を映し出す。千歳の声が変わっていた。唸るような低い声だ。千歳の声ではない、知らない人の声。それは千歳の口から出ていた声かもしれないし、影の声だったのかもしれない。
「金で何を買えたのか、信仰心で誰を救ったのか、権威で何を得たのか。何一つとして手には入れていない。見せかけだけの満足感に、すべて、奪われただけだ」
背後でバタンと扉の閉まる大きな音がした。楓は千歳を見つめたまま動かなかった。千歳は壁から突き出た建材の金属の棒を力任せに引き抜いた。脆くなった壁がベキベキと悲鳴を上げる。
「美瀬村のため。そのたった一言で神返しされるボクたちの、悲しみや無念さなんて。影祭でボクたちのこの苦しみが癒えるとでも?」
千歳は鉄パイプを振り下ろした。床に穴が開く。舞い上がった埃が橙色の明かりの中でキラキラと光っていた。吐いた息が白い。夏だというのに、凍えそうな寒さが部屋を包んでいた。
――何。
千歳が、いや、千歳の形をした何者かが何を言っているのか、分からない。楓は唾を飲み込んだ。分からないけれど、感じる。きっとこれが、千歳が隠していることの核心だ、と。鉄パイプの先を楓に向けて、千歳は歪な笑顔を浮かべた。
「言わなかった?」
楓は一歩下がった。
「犯人は、まだ、高校生だったらしいよ」
そう言うと千歳は楓に向かって鉄パイプを振り回した。それを合図に楓は身を翻して扉へと走った。しかし、扉は固く閉ざされていた。おまけに、氷のように冷たい。あまりにも冷たすぎて、触れた手が熱くなる。振り下ろされる鉄パイプを避けながら楓は壁際を走った。
「どこへ行くの、楓ちゃん」
千歳はゆっくりとした動作で楓を追いかけてくる。狂ったような笑みを浮かべていた。だが目が笑っていなかった。鋭い眼差し、牙のように光る八重歯。お面が変わった。ヤマガミ様のお面が。千歳が振り回した鉄パイプは床に穴を開け、家具を壊し、脆くなった壁を崩した。崩れた壁の向こうに隣の部屋が見える。楓は壁に出来た穴を飛び込むように潜り抜けて隣の部屋に逃げた。
「どこへ逃げるの」
ケラケラと笑う千歳を残して、楓は部屋を飛び出した。足がもつれそうになりながら廊下を走り、階段を降りる。振り向く余裕もなかった。まるで、別人だ。千歳の中に、千歳とは違う誰かが入っているようだった。声も表情も態度も雰囲気も、何もかもが違う。輪郭のない気配が千歳を飲み込んでいる。
――誰よ、誰なの。千歳はどこへ行ってしまったの。
楓は抜けた床に片足がはまり込んで転んだ。歌うように楓の名前を呼ぶ千歳の声が近付いてくる。楓は足を引き抜き、走った。二階へ降り、さらに一階へ降りようとすると、下から物音が聞こえた。サッと覗けば、提灯の明かりが見えた。村の人が入って来たのだ。上からは千歳の足音が徐々に迫ってきている。楓は二階の階段横の部屋に入った。空っぽのクローゼットの中に隠れる。足を抱え込む体育座りをして、ランタンのロウソクを消す。こんな状況でも草介のスニーカーはしっかりと握ったままだった。楓は耳を澄ませた。雷の音が近くなっている。クローゼットの隙間から、雷の光に青白く照らされた部屋が見えた。
一瞬の間をおいて、大きな雷鳴が轟いた。その雷鳴に混ざって、人の叫び声が聞こえた。村の人が千歳と遭遇してしまったのだろうか。楓は息を殺した。
――どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
楓は膝に額をくっつけた。どうして? そんなことは分からない。いつから? いつからだろう。いつから千歳がおかしくなり始めた?
――地下に落ちるまでは、怖がっていたのに。
千歳の雰囲気が変わり始めたと思ったのは夜になってからだ。その頃から千歳が話すモリの話が、妙に現実味を帯びてきていた。別館に入ってからは、はっきりと分かった。楓が人ではないものの気配を感じるようになる前から千歳にはずっと、楓には見えないものが見えていたのだろうか。漂う何かが乗り移ったのだろうか。もう駄目だ。千歳と一緒にはいられない。楓は唇を噛んだ。
カカカッ。
ズ……ズ……。
何かを引き摺るような音が廊下から聞こえてきた。キシィキシィ。割れたガラスを踏みしめる音も聞こえた。
「楓ちゃぁん」
千歳だ。ふわふわとした声で、千歳が楓を探している。楓は隙間から外の様子を窺った。廊下に床を這う人影が見えた。人影は提灯を持って、苦しそうに呻いていた。その後ろから提灯を持った千歳がゆっくりと歩いてきた。千歳は人影のすぐ近くの床に鉄パイプを突き立てた。人影はびくりと震えた。千歳は部屋の前で止まった。
「お前、何者じゃ」
床に這いつくばったままの人影が尋ねた。
「モリの化け物か。それはどこの家の子の体なんじゃ」
千歳は人影の問いを無視し、落ちていたガラス片を屈んで手に取る。そしてゆっくりと楓が隠れる部屋に入って来た。またクスクスと曖昧に笑っている。楓が隠れているクローゼットの前を通り過ぎると、ベッドの横に立った。雷光が部屋を青白く照らした。壁に映った千歳の影が、巨大な鬼のように見えた。千歳はガラス片を握る手を高く振り上げた。ガラス片がギラリと鈍く光る。楓は手で口を塞いだ。息を殺せ、存在を消せ。目を閉じてしまいたいのに、千歳から目を逸らすことが出来なかった。
千歳はベッドにガラス片を突き立てた。キュイと鳴き声が聞こえた。あの黒い綿埃の声だ。何度も、何度も。千歳は腕を振り下ろす。薄らと笑みを浮かべた横顔が提灯の明かりに照らされていた。ザクッ、ザブッとガラス片がベッドを切り裂くたびに、綿や羽毛が高く舞い上がった。その中に、黒い煙のようなものが絡まるように混ざっている。ふふふ、と千歳は笑い声を漏らした。虫やトカゲがベッドから逃げ出していく。
「ここにもいない」
千歳は枕も引き裂いた。中に詰まっていた古い綿を引き摺りだすと、叩き付けるように壁に向かって投げた。千歳はクスクスと笑いながら廊下のほうへと戻っていく。叩き付けられた綿はズルズルと壁を滑り、割れた水風船のようにベチャリと床に落ちた。黒い液体が床に広がって消えた。千歳はゆっくりと歩いて行く。
一瞬、楓は千歳と目が合った。黒と灰色の瞳が、確かに楓を捉えた。しかし、千歳は曖昧な笑みのままクローゼットの前を通り過ぎた。千歳が見えなくなり、足音が遠ざかるのを待ってから、楓はクローゼットから慎重に外へと出た。ランタンと草介のスニーカーは忘れずに持っている。廊下を覗くと、奥に提灯の明かりが見えた。深呼吸をする。足元に横たわっていた人影が動いた。
「お前さんは、たしか、岩月の」
誰かは思い出せなかったが、村で見かけたことのあるおじさんだった。おじさんは千歳が残した鉄パイプを掴んで立ち上がろうとした。
「そうか、モリに入ったか。見逃すわけにはいかんの、ヤマガミ様に返さねぇと」
楓は身構えた。
「次は、良い子に生まれてくるんじゃな」
千歳が言った通りだ。モリに入ったことが見つかれば、村の人はもう味方じゃない。逃げなければ。ヤマガミ様のところへ連れていかれる。
楓は立ち上がろうとしたおじさんの背中を精一杯の力を込めて蹴り飛ばした。ぐえっ。おじさんは床に突っ伏した。楓はおじさんの提灯を引っ手繰って駆け出した。
一階から人の声が階段を上ってきていた。降りられない。すぐそこにはおじさん、廊下の奥には千歳がいる。反対側から一階に降りても、一階の床には大きな穴が開いていて渡り廊下のほうへは行けない。楓は振り返った。行くしかない。
楓は窓を大きく開けた。雨の中に村の人たちの明かりが見えた。
――大丈夫。
楓は自分に言い聞かせて、窓枠に足を掛けた。息を吸い込んで、止める。
そして楓は飛び降りた。
渡り廊下の屋根に両足で着地すると、割れた瓦が何枚か滑り落ちていった。雨が叩き付けるように降り、風も強い。嵐のようだ。壊れた雨樋から水が溢れ出している。楓は屋根の上を走った。下から人の声が聞こえてきたが、前だけを見て走った。雨で足が滑る。バランスを崩しそうになりながらも、楓は耐えた。本館へと渡りきると、そのまま壁伝いに屋根の上を進む。楓は壁にしがみつくように進んだ。無我夢中だった。もう振り返ることも出来なかった。
開いていた窓から、楓は中に飛び込んだ。転がり落ちるようにしてタイルの上に着地した。そこは大浴場だった。コの字の右上だ。木の桶や椅子が残されたままだ。鏡はほとんど割れて、提灯の明かりを鈍く反射していた。窓の外から雨音に混ざって、人の叫び声が聞こえた。怒っているようにも聞こえたし、恐怖の悲鳴のようにも聞こえた。楓は大浴場の外に出た。
「いたぞ!」
奥の宴会場のほうから、提灯の明かりが近付いてきた。楓は逃げた。
「そっちへ行ったぞ!」
うまく息が出来ない。体が酸素を求めている。もつれそうな手足を楓は必死に動かした。逃げろ、走れ、逃げろ! 急に体がガクンと傾いた。
――ああ、また。
そう、そこに落ちたのに。楓は自分で開けた穴に足を踏み外した。提灯が手から零れた。それでも草介のスニーカーと千歳のランタンは離さなかった。
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