第3話
暗闇の中から話し声が聞こえる。ざわざわと、人が集まって話し合いをしているようだった。はじめのうちは遠くでぼんやりとしていた声も、しばらくすると近くではっきりと聞こえるようになった。
「……残念だが」
「しかし、このままでは」
「だが下を抑えておくことはもう出来そうにない」
「下の者たちは神の子を差し出せと、ここに押し入ってくるのではないかと思うほどに」
「ヤマガミ様に隠し通せるわけがない」
「このまま何か不吉なことが起これば、それはすべて我々、モリの責任だ」
「この子を、捧げなければ」
「怒りを買ってしまう前に、はやく」
「この子を」
「はやく」
「捧げよ」
「はやく」
「はやく」
「楓ちゃん!」
名前を呼ぶ声に、楓は目を開けた。
体のあちこちが痛い。楓はゆっくりと体を起こした。頭がくらくらする。痛い。薄暗い。草介。痛い。定まらない思考の中で辺りを見回すと、少し離れた橙色の明かりの中に千歳が立っていた。
――落ちた。
楓は一度ギュッと目を瞑った。それからすぐに目を開ける。
――床が抜けたの。
どこかの小部屋に落ちたらしい。天井を見上げてみたが、暗くて見えない。体は痛むが、怪我はなさそうだ。瓦礫と布団がクッションになったのだろう。話し声は夢だったのだろうか。楓と千歳のほかには人影などなかった。
――捧げよ、って何。
会話を思い出してみる。老人の声も若い人の声も混ざっていた。とても焦っているようだった。この子を捧げよと言っていたのは、何のことだろう。変な夢を見た。楓は忘れるように首を振った。
「待って、すぐに開けるから」
千歳はそう言った。楓は立ち上がって埃を払い、千歳に近付く。そこでようやく気が付いた。格子がある。木製の格子が楓と千歳の間を分断していた。楓は振り向いた。窓のない四畳半ほどの畳の間。
「ここ……座敷牢?」
不安な声が楓の口から零れた。気味が悪い。千歳はランタンを床に置いて、格子の入り口の錠前を開けようと苦戦している。ガチャガチャという音だけが薄暗闇に響く。
「地下室だよ。楓ちゃん、二階から地下まで落ちたんだ。怪我はない?」
「ありがとう、平気。運が良かったのね」
楓はランタンの明かりを頼りに、懐中電灯を探した。電池が切れていたとしても、ふとした拍子に点くかもしれない。しかし、懐中電灯は見当たらなかった。楓はボサボサになった髪を結び直し、格子にもたれかかって立った。背中が痛い。千歳は近くにあった石を手に持つと、それで錠前を壊そうとする。楓はその様子をじっと見ていたが、やがて口を開いた。
「さっきの神隠しの話、本当なの?」
「大筋は本当だと思うよ、新聞にも載っていたみたいだから」
「そう……。でも、村の人は誰もそんなこと言っていなかった。不気味な事件が起こった場所だと知っていたら、みんなきっと入らなかったのに。危ない場所なら、ちゃんと本当のこと言ってくれたらよかったのに」
「それでも好奇心に負ける人はいるよ」
そうね、と楓は溜息を吐いた。足元を確認せず、好奇心に負けて踏み出した一歩が、今の状況を招いたことは、嫌と言うほど理解している。
「犯人は? 神隠しなんて、ありえないでしょ?」
「ああ、えー、犯人?」
千歳は石を勢いよく振り下ろした。ガシャンと大きな音を立てて壊れた錠前が床に落ちた。千歳は錠前を拾い上げると部屋の片隅にポイと放り投げた。
「新聞によると、まだ高校生だったらしいよ。あ、そうだ」
格子戸はキーィと高い音とともに開いた。楓はようやく座敷牢の外に出た。
「ロウソク、なんとか補充してきたよ」
千歳はランタンを手に持った。その顔はどこか誇らしげに見える。新しくなったロウソクがランタンの中で赤々と燃えていた。
「ありがとう」
「怖かった、もうひとりは嫌だ」
「ごめん」
「とりあえず一階に戻ろう」
「そうね、そうする」
楓は千歳の後ろを歩いた。狭くて短い廊下があり、突き当りに錆びた鉄の扉があった。千歳は体全体で押すようにして扉を開けた。錆びがポロポロと床の上に落ちた。扉の向こうには急な階段が続いていた。
「さっきは、ごめん。千歳が言う通り、一緒にロウソクを取りに戻ればよかった」
「気にしないでよ。俺だって、楓ちゃんに付いて行けばよかったんだし」
「あれからどうしたの?」
「とりあえず、地下に降りられそうな場所を探してウロウロしていたら、ロウソクを見つけて、そういえば大浴場のほうに階段があったなぁって思い出して……」
階段を上がりきると、また鉄の扉があった。今度の扉は片手ですんなりと開き、ボイラー室に続いていた。大きな機械が並んでいるが、どれも錆び付いて動きそうにない。かつては旅館に湯を供給していたのだろうが、今では蜘蛛の巣が掛かって、ただの金属の塊になっている。
「温泉、入りたい」
楓はドロドロになった掌を眺めながら呟いた。口の中に砂が入ったのか、ジャリジャリする。いつもならこんなに汚れることもない。楓は幼いころを思い出していた。昔はドロドロになるまで遊んで、服を汚して怒られたものだ。
「水は出るよ、地下水か川の水を取り込んでいるみたいだ。でもさすがにお湯は無理かな」
千歳が笑ったのが、声で分かった。ボイラー室を抜けると廊下に出た。どうやらコの字の上側の廊下に繋がっていたようだ。左側には大浴場、右側に続く廊下の先は宴会場で、宴会場の手前に炊事場が見える。
「暗い」
無意識に楓は呟いた。隙間から入っていた外の光が消えている。楓は窓の隙間から外を覗いた。
「どうしよう、もう太陽が沈んでいる」
辺りは真っ暗になっていた。リィーンリィーンと微かに虫の声が聞こえてくる。楓は千歳と交代した。千歳も隙間から外を覗く。
「夜だね」
千歳がポツリと言った。
「影祭が始まる」
楓は千歳の横顔を見ていた。黒い服、黒い髪。まるで影だ。千歳は闇の中に溶けてしまいそうだ。橙色の光が千歳の頬を照らしている。怖がりだが、少しだけ頼りになる人だ。楓は思った。千歳が一緒でよかった。
「ん、どうかした?」
千歳が横目で楓を見た。楓は慌てて目を逸らした。
「なんでもない」
「えー、気になるよー」
「千歳の服は黒いなぁって思って見ていただけよ」
楓がそう言うと、千歳は手を広げて自分の服を見た。それから楓の服を見た。
「楓ちゃんは、なんていうか、その、動きやすそうな服だね」
「それはどうも」
そう答えて、楓はもう一度千歳を見た。千歳は光に集まって来た虫を手で払っていた。
「楓ちゃん、これからどうする?」
「夜明けまでは外に出られないから、このまま草介を探すわ。まだ別館も残っているし」
「俺も、一緒に行くよ」
千歳は微笑んだ。
「行こう、千歳」
楓は歩き始めた。ランタンを掲げて千歳が後に続く。途中、楓が落ちた穴があった。天井にも穴があった。照らしてみても、穴の奥はよく見えなかった。階段の隣には木製の扉があった。千歳の話によると、この向こうが洋館に続く渡り廊下だ。少し力を入れて手で押すと扉は簡単に開いた。新鮮な空気が一気に入ってくる。
外に出ると、渡り廊下の屋根の上に綺麗な星空が広がっていた。都会とは比べ物にならないほど輝く星空だ。宝石箱のようなこの星空が楓は好きだった。都会の光をすべて集めても、この星空にはきっと敵わない。ざわざわと枯草が揺れる音が高い柵の向こうから聞こえてくる。夜風が運んでくる濃い森の匂いを楓は胸いっぱいに吸い込んだ。懐かしい香り。小学生の頃は緑深い森の中を風のように駆け回っていた。何もかもが色鮮やかに見えた日々。夏の木々の香りが、楓の胸にたくさんの思い出を運んでくる。
「見て、千歳。星がとてもキレイよ」
瞬く星空を見上げながら楓が言うと、千歳も隣に立って顔を上げた。
「本当だ。綺麗だね。星の輝く音が聞こえそうだ」
急がなければならないはずなのに、そのひと時だけは、とても穏やかな時間だった。
洋館の扉は錆び付いて重く立ちはだかっていた。千歳が押しても開かない。楓も一緒に押してみるが、びくともしない。二人で押しても開かないのだから、草介が中にいることはないかもしれない。楓は諦めて星空を仰いだ。星空は変わらず、満天の星が瞬いていた。じっと見つめていると、わずかに点滅しているようにも見えてくる。風が吹くとさやさやと森の音が聞こえてきた。楓は気になっていたことを千歳に尋ねてみることにした。
「ねえ、千歳」
「うん?」
「影祭の最初と最後を見たことはある?」
「ない」
「じゃあ、どうしてヤマガミ様のお面が変わるのか知っている? どういうタイミングなんだろう。私の家からは見えないの」
「さあ、知らない。でも影祭が何のための祭りなのかは聞いたことがある」
あっ、と千歳は小さな声を上げた。千歳は何かに気が付いたようだ。
「楓ちゃん。この扉、引き戸だ」
千歳はそう言うと、簡単に扉を開けた。
「何よ、それぇ」
楓は大きく溜息を吐いた。開いた扉から埃とカビの匂いが漂ってくる。楓は咳払いをしてから中に入った。入口の正面には階段があった。本館と同じような木の床は、やはり手入れされていない月日の間に傷んでしまっている。窓の隙間から入った枯葉が風に吹かれて渦を巻きながら隅のほうへ転がって行った。
「草介、千尋君、どこー?」
暗い洋館の中に楓の声が響いた。返事はない。歩き始めた楓の後ろに、ランタンを持った千歳が付いてくる。千歳が口を開いた。
「ヤマガミ様は古くから美瀬村が信仰してきた山の神様だって聞いたことはある?」
「うん、それは私も知っているけど」
「一年に一度、生贄を捧げてきたんだ。よくあることだろう?」
「まあ、昔話にはよく出てくる話ね」
別館の一階は客室が並んでいた。一部屋ずつ扉を開けて確かめていく。部屋は本館とは正反対の洋室で、クローゼットやベッドが残されていた。埃をかぶり、傷んでボロボロになったベッドの上に、荷物が散らばっていた。
「ヤマガミ様は村から生贄を選んでいくんだ。その生贄は神社の奥の風穴に連れられて行く。影祭はそれを表現しているみたいだ。昔は冬だったみたいだけど、いつのまにか夏の行事になっていたんだって」
「じゃあ、神隠しはヤマガミ様のせいなの?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。だけど、そうだったらいいのにね」
千歳は溜息を吐くように言った。
――千歳は何か知っている。
楓は直感した。核心を話さないようにしている。だが、隠しているのは千歳だけではない。村の人たちはみんなモリのことを隠している。楓は、その秘密を暴くことを望んでいるわけではないが、何も知らないままモリを彷徨いたくはなかった。根掘り葉掘り、詮索しようという気持ちは起きないが、最低限のことくらいは知る権利があるはず。そう思いながら楓は手掛かりを探すように部屋を調べた。雨漏りをしているのか、大きな黒いカビが天井から壁を覆っていた。落ち着いたベージュの壁紙が汚れとカビのまだら模様になっていた。カビを見つめていると足元から寒気がした。
「だけど、神隠しの噂があるのなら、心霊スポットとして有名になっていてもおかしくはないのにね」
「怖いもの見たさにここまで来る人なんているのかな。僻地だよ、美瀬村は」
「好きな人は好きなのよ、きっと。廃墟マニアとか、喜びそうなのに」
私は嬉しくないけど、と楓は慌てて付け足した。そんなに必死に否定しなくてもいいのに、と千歳が笑った。
ベッドの上の鞄を開けると、トカゲが飛び出して逃げて行った。千歳は悲鳴を上げない。そろそろトカゲにも慣れてきたのだろう。緑の体をランタンの光に反射させながら、トカゲは暗闇に紛れて消えていった。
怪しい噂が流れる場所は、心霊スポットになる。最近はインターネットですぐに噂が拡大する。検索すれば、すぐに情報が出てくる。噂だけじゃなくて、画像や地図まで紹介されているのだ。美瀬村はちょうど良いはずだ。田舎、山奥、廃墟、不穏な話、奇妙な祭事。条件は揃っている。しかし、モリが有名な場所だとは聞いたことがなかったし、怖いもの見たさに訪れた誰かが入った形跡もない。村で観光客を見かけたことだって一度もない。ボロボロになっているのは、人の手が加えられなくなったからだ。どこを見ても、落書き一つないし、荒らされた様子もない。インターネットにも載らない場所だということだろうか。それほど徹底的に隠されてきたのだとしたら、千歳の話は本当なのかもしれない。村の誰もが口を堅く閉ざすほどの出来事が、この場所で起こったのだろうか。本物は、広く語られずに、ひっそりと伝えられていく。そういうことなのかもしれないと楓は思った。少しだけ、寒気がした。日が沈んだからだと、楓は自分に言い訳した。
日が沈んでしまえば、急いで草介たちを探す必要もない。暗闇の中を歩いて帰るのは、村の出身ではない草介には難しいだろう。きっと純太たち村の子でも無理だ。影祭を避けて帰るということも大変だ。山道には獣が出るかもしれない。この屋敷で日が昇るのを待つほうが、賢明だ。草介もそれくらい考えているだろう。だから、夜になる前に帰っていないのならば、草介と千尋君はモリのどこかにいる可能性が高い。
そんなことを考えながら楓はどんどん進んで行った。ランタンを片手に千歳もしっかりと付いてきた。いつしか二人の口数は減っていた。夕暮れからずっと歩き続けている。途中で地下に落下して気を失っていたが、それでも、もう随分と長い間この屋敷を探索している。千歳は楓が気を失っている間も、ロウソクを探して歩き回っていたはずだ。そろそろ休憩をしたほうがいい。黙々と探し続けているうちに、二人は廊下の端まで来ていた。この部屋は角部屋だから、休憩するにはキリが良い。
「千歳、少し休まない?」
楓は埃まみれのクローゼットを開けて、中に誰も入っていないことを確認しながら提案した。黄ばんだシャツだけがハンガーに掛けられて揺れていた。千歳の返事はない。振り向くと、千歳はランタンを掲げたまま部屋の隅をじっと見ていた。楓は千歳の視線の先を見たが、気になるものは何もない。ほかの部屋と変わらない、薄汚れた壁紙に剥がれかけた床板。トカゲか何かがいたのだろうか。
「千歳?」
名前を呼ぶと、千歳はゆっくりと楓を見た。どこか虚ろな表情をしている。
「ごめん、ぼんやりしていた」
「休憩しようって言ったの」
「うん、そうしよう」
楓は廊下に出た。千歳も続く。楓は廊下を戻り、入り口前の階段に座った。千歳も隣に座ってランタンを二人の間に置いた。橙色の静寂が辺りを包んでいた。話をしなければと楓は思ったが、口が重い。楓は息を吐いた。長い溜息だった。自分で思っているよりも相当疲れているようだ。何を話そう。村のこと、祭りのこと、神隠しのこと、家族のこと、学校のこと。迷う楓の横で千歳が先に口を開いた。
「楓ちゃん」
ちらりと横目で千歳を見ると、千歳は真っ直ぐな視線で暗闇を見つめていた。開けたままの渡り廊下の入り口から涼しい夜風が入ってきた。
「かつて美森山荘は、知る人ぞ知る旅館だったんだ。訪れるのは金があって暇を持て余している隠居した富裕層が多かった。宣伝はされていなかったけれど、独自の情報網で客を集めていた」
千歳の声が静寂の中に広がる。空気を震わせた声はやがて闇の中に溶けていく。
「だけど次第に経営が苦しくなってきた。時代もあったし、流行もあった。そんな中で目に付けたのが、この村の、美瀬村の信仰だった。ヤマガミ様が何を象徴しているか、考えたことはある?」
そう言って千歳は横目で楓を見た。楓は首を振った。千歳は目を細めた。
「あれは、異形を表しているんだ」
囁くような声だった。その声に、楓は薄らと背筋が寒くなるのを感じた。
「白い蛇を吉兆だとする考えがあるだろ。この村で言う異形は、そんな類のものの集まりだ。色素欠乏、先天性の障害児、時には外国人や双生児……。突然変異や珍しいものに対する恐れや憧れがヤマガミ様という形で信仰されるようになったんだよ」
楓は何も言わずに聞いていた。どうして千歳が村の信仰に詳しいのか、聞くことはしない。信仰だけではない、旅館のことも、千歳は詳しすぎる。けれどもその理由を知らないほうがいい。好奇心をやり過ごさなければ。楓は俯いた。いつも窓から見ていた影祭のヤマガミ様のことを思い出してみる。白、白、白。白い姿をしたヤマガミ様は、白蛇を信仰するような気持ちを体現したものだったのだ。たしかに、提灯の明かりだけが村を照らす夜の中に、浮き出たような白い存在は神秘的だったし、同時に不気味だった。突然変異を差別するわけではないが、自分を含む大勢と異なる原理を持つものは、その特異性に憧れる一方で、自分の感覚では理解できないことに対する恐れをはらんでいるのだ。楓は思う。綺麗だけど怖い。そういう曖昧な感情はたしかに心の隅に咲くのだ。
「影祭でヤマガミ様が連れていくのは、そんな異形の者たちだ。異形は神様に選ばれたからだと考えられていたから、神の子と呼ばれる。つまり、子供だよ。だから影祭の間は、子供は外に出てはいけないんだ。時代とともに子供の年齢は変化して、最後の神の子は十七歳だった。今でもこの村では、十八歳になるまでは子供なのは、そういう理由だ。ヤマガミ様に神の子を生贄として捧げることは、神様に子供を返すということだ。それを神返しと呼ぶんだよ」
――神返し。
その言葉を楓は頭の中で反芻した。神様に選ばれた子供を、神様に返す。神聖な儀式のようにも聞こえるが、そこには、やはり神の子を疎み、憎み、恐れる心があるのだろう。
楓の足元を千歳のほうへと黒い綿埃のような物体が這っていく。風で動いているわけではない。すすす、ずずず、とそれは自分の意思で動いているようだった。楓の視界の隅で千歳がゆっくりと片足を上げるのが見えた。
「その神の子を、美森山荘は客寄せのために利用したんだ」
千歳は勢いよく足を踏み下ろした。綿埃がキュイと鳴いて、千歳の足の下で潰れた。千歳は足首を捻ってグリグリと綿埃を踏みつける。綿埃がバラバラになる。黒い液体が千歳の足の下に広がる。楓は顔を上げなかった。動かなくなった綿埃をただじっと見ていた。いや、本当は、千歳がどんな表情をしているのか確かめるのが怖かったのだ。綿埃だったものは、やがて溶けるように消えた。
「神の子に該当する子供がいない時には、どこでもいい、村の家の第一子が優先的に捧げられた。だから、跡取りは第二子が多いんだよ。第一子がいなくなれば、第二子を飛ばして、次の子供を。信仰と生存を両立するには、そうするのがよかったんじゃないのかな」
楓は足元から顔を上げた。千歳はまた虚ろな表情で暗闇を見つめていた。表情に色がない。楓はヤマガミ様の白いお面を思い出した。色を失うだけで、こんなにも不安になるとは思っていなかった。
「あのさ、千歳。私」
楓の声に、千歳は瞬きをして楓を見た。ランタンに照らされた表情は元に戻っていた。
「お手洗いに行きたいんだけど、どこ?」
千歳は笑った。八重歯が零れる。千歳はまだ探していないほうの廊下を指差した。
「突き当り」
楓は千歳の指し示す方向を見た。どれくらい先まで続いているか分からないほど深い闇が、ただ静かに広がっている。
「まだ水が出ていると思う。俺はここで待っているから、楓ちゃんが明かりを持って行っていいよ」
「怖くないの?」
「怖いし心細いけれど、でも一緒に行ってもどうせ、俺は一人で待つことになるだろう?」
「そうね」
「どこで待っても同じだ。それなら、ここで扉を開けておけば星の明かりが入ってくるから。だけど、出来るだけ早く帰ってきて」
ランタンを持って楓は立ち上がった。
「それじゃあ少し待っていて、すぐに戻るわ」
「いってらっしゃい」
千歳はひらひらと手を振った。楓は軽く手を挙げて応えた。ランタンを掲げて暗闇へと足を進める。こちら側の廊下にも客室が並んでいた。崩れた棚の影からネズミが飛び出して床にあいた穴の中に逃げて行くと、穴の中に生えている雑草が揺れた。
千歳が言う通り、廊下の突き当りにトイレがあった。男性用と女性用に分かれている。楓は女性用トイレの扉を開けた。個室が三つ並んでいたが、そのうち二つの洋式トイレは便器が割れて使えそうにない。残る一つは和式で、どうにか使えそうだった。だが、楓は個室を覗いただけで、洗面台の曇った鏡の前に立った。本当は少しだけ、ひとりになりたかったのだ。さすがに夜のトイレは少し怖いが、暗闇の中で一人待つよりはマシだろう。千歳のことを考えると気の毒になった。
――だけど、何かおかしい。
最初はムカデにも怯えていたのに。さっきのあれは、何。正体の分からない黒い綿埃よりも、それを踏み潰した千歳のほうが不気味だった。あの時、千歳の空気が、張り詰めたように、凍ったように感じた。それに自分から怖い話をするなんて。村のことを知りすぎていることも、何か理由があるはずだ。
そもそも、千歳は一体、どこの誰なのだろう。今まで一度も村で見かけたことがない。名前も聞いたことがない。千景、千歳、千尋。これほど統一された名前の兄弟ならば、耳にすれば覚えているはずだ。苗字は何というのだろうか。岩月の家と呼ぶように、姓が分かればどの家の子供かすぐに分かる。家の職業でもいい。けれども楓は、千歳、その名前しか知らない。
蛇口をひねると、しばらくして透明な水が出た。冷たい水で手を洗いながら楓は考えた。
――でも、嘘を吐いている感じはしないのよね。
それが問題だった。千歳が何かを隠しているのは分かるが、冗談で話しているわけではなさそうだった。気がする、という程度だったが、話してくれた内容は全くの作り話ではないように思えたし、楓を怖がらせるために話しているわけでもなさそうだった。洗った手を服の裾で拭いて、楓は廊下に出た。体操服はもう随分と汚れていた。
ボーン……。
突然、時計の音が辺りに響いた。一瞬、楓はドキッとしたが、すぐに平静を取り戻す。祖父母の家にある柱時計よりも低い音だ。
ボーン……。
楓は音の鳴るほうへと歩き始めた。まだ動いている時計があるのだろうか。音を頼りに廊下をL字の右下へと歩いて行く。音が聞こえてくる暗闇に吸い込まれていくようだった。しばらく進むと、床に大きな穴が開いていた。ランタンをかざしてみても、穴を越えた向こう側は見えない。これ以上先へは進めそうにない。楓は引き返した。
ボーン……。
十二回鳴ったあと、廊下は再び静かになった。この時計を信用するなら、もう日付が変わってしまったらしい。一体、どれくらいの間、座敷牢で気を失っていたのだろうか。時間の感覚など、もう随分と前に狂っていた。ずっと縁側でごろごろと過ごしていたせいか、疲れているものの眠気はない。
千歳のことを詮索するのは、もうやめよう。疑ってみても仕方がない。千歳が誰であろうと、草介を見つけられるのならばそれでいい。ちゃんと家に帰れるのなら、それだけでいい。モリから出れば、もう会うこともない。楓は早歩きになった。はやく千歳を迎えに行こう。
「まだだよ」
不意に暗闇の奥から千歳の声が聞こえた。楓は足音を忍ばせてゆっくりと歩いた。他に誰かいるのだろうか。
「その時が来るはずだから、それまでは駄目。出てこないで、千景君」
耳を澄ませてみるが、聞こえてくるのは千歳の声だけだ。
「大丈夫、きっと、無事に抜けられる」
楓がランタンを掲げると、揺らめく橙色の明かりの中に俯く千歳の影が浮き上がった。一歩踏み出した楓の足元で床がパキリと鳴った。千歳は顔を上げた。
「ただいま、お待たせ」
「おかえり」
千歳は楓を見た。暗い瞳はランタンの光を反射していない。
「雨だよ、楓ちゃん」
そう言うと千歳は渡り廊下の入り口に視線を移した。開け放たれた扉から雨の音が入ってくる。楓はランタンを千歳の隣に置いて、扉に近付いた。天気予報では一晩中快晴だと言っていたが、予報は外れたようだ。渡り廊下を通った時には広がっていた星空も今では雲に覆われて、大粒の雨が降ってきていた。顔に雨粒がかかる。
「誰かと喋っていた?」
「俺? ずっと一人だったけど」
あっそう、と楓は興味のなさそうな返事をした。これ以上は聞かない。好奇心をやり過ごす。
「廊下の先へ行ってみたわ。でも床が抜けていた。次は二階に上がってみる?」
「うん」
千歳は立ち上がり、ランタンを手に持った。千歳の瞳の中にランタンの揺れる炎が映っていた。
「ん?」
楓の口から小さな疑問の声が漏れた。千歳が首を傾げる。
「どうかした?」
「千歳は瞳の色が微妙に違うのね、気が付かなかった」
右目は黒い瞳だったが、左目は少し灰色を帯びた色をしていた。ああ、と千歳は瞬きを繰り返した。千歳の顔を間近で見たのは初めてだった。同級生の誰よりも澄んだ肌の色をしている。羨ましいほどだ。
「ああ、ちょっとだけ左目のほうが薄いんだ。千景君は両目とも少し灰色だったなぁ。俺は生まれつきじゃないんだよ、でもいつからこうなったのか、もう覚えていない」
「ふぅん、両目ともキレイな色ね」
「ありがとう」
階段を一段上がると、ギーイと床板が軋んだあと、バキッと小さな割れ目が出来た。ふと見上げてみれば天井から垂れ下がる蜘蛛の巣が暖簾のようだった。階段の床は特に傷みが激しく、抜け落ちた床から雑草が伸びていた。覗きこむと雑草の根元のほうで何かがカサカサと動いていた。
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