第2話

 しばらくの間、楓は建物の周りをウロウロと歩き回っていたが、結局、楓が通れそうな隙間は見つからなかった。

 ――とにかく中に入らなきゃ。

 楓は朽ちて歪んだ玄関の引き戸を力いっぱい動かしてみた。しかし、建付けが悪くなった引き戸は、楓が通れるほどの隙間も出来ない。祖父母の家にもなかなか開かない戸がある。苛立った楓は少し後退した。

「これだから、ボロい家って、嫌い!」

 楓は助走をつけて勢いよく引き戸に体当たりした。傷んでいた木材が悲鳴を上げて折れ、楓は引き戸とともに玄関の内側に倒れた。

 ――やった!

 しかし、楓が喜んだのも束の間で、すぐに上から朽ちた木材が大きな音を立てて降って来た。楓は両手で頭を抱えた。埃が舞い上がる。楓はゴホゴホと咳き込んだ。もう荒っぽいことはしないでおこう。そう心に誓って、楓は立ち上がった。玄関は瓦礫で閉ざされてしまったが、帰りは草介と協力すればどうにかなる。楓は服や髪についた埃を払いながら懐中電灯で中を照らした。やはり、旅館だったのだろう。受付のようなカウンターが左手にあった。右手には古ぼけた椅子が無造作に転がっている。正面のガラスケースの中には枯れた花が花瓶にもたれかかっていた。ひんやりとした風が奥のほうから吹いてきた。

「草介、どこー?」

 楓は薄暗闇に叫んでみたが、返事はない。ヒグラシの声が夕暮れの琥珀色の光とともに壁の隙間から入ってくる。楓はまず、純太たちが出入りしていた穴を目指すことにした。木の床は歩くたびにギィギィと軋んだ。日の当たる場所には苔や雑草が生えている。壁には染みが広がっていたり、ツタが這っていたりと、放置されていた年月の長さを物語っている。楓は蜘蛛の巣を避けながら進んだ。人の気配のない室内には、楓の息遣いと足音、そして蝉の声だけが聞こえていた。怖くはないが、寂しい気持ちになる。

 楓は昔から少し勝気なところがあった。今でこそ周りの女の子たちと一緒に買い物をして休日を楽しんでいるが、小学生の頃は草介を引き連れて男の子たちと公園で遊んでいた。美瀬村に帰省しても虫捕り網を片手に駆け回っていた。ガキ大将の純太からも一目置かれる存在だったのだ。そうだ、だから純太がお嬢と呼ぶのだ。さすがに、中学生になった頃からは、もう少しおしとやかに振る舞おうと思い始めた。友達はみんなテレビや雑誌で流行をしっかりとチェックして、いつも可愛い服を着ていた。同じ制服を着ているはずなのに、何かが違っていた。楓は昆虫図鑑を草介の部屋に押し込んで、代わりにファッション雑誌を並べた。今でも大抵の虫は素手で触ることが出来る。けれども、楓は虫が苦手なふりをしてきた。派手でなくとも、どこにでもいるような女の子でも、それでもいいから、それなりに可愛くなりたい。楓にだってそう思う時がある。

 ――廃墟に一人で入れるようなら、まだまだ無理ね。

 廊下に飾られた絵が傾いている。ほとんどは村の山や田畑を描いた風景画だったが、何枚かは着物を着た女性の絵だった。どこか儚い感じのする若い女性だった。楓は廊下の突き当りの扉を開いた。カビ臭い風が通り抜ける。扉の向こうにも廊下は続いていて、突き当りの壁の下のほうに穴が開いていた。純太たちが出入りしていた穴だ。そこから淡い夕焼けの光が差し込んでいる。廊下の左右には扉が並び、執務室や休憩室と書かれたプレートが掛けられていた。ここは旅館の従業員のスペースだったのだろう。

「草介、どこにいるのよー?」

 楓は声をかけてみたが、やはり返事はない。懐中電灯で足元を照らすと、床に靴跡が続いていた。パッと見ただけで誰のものかが分かるのは三種類だ。一番大きなビーチサンダルは純太、下駄は淵坂の畳屋さんの息子で、波のようなラインが入っているスニーカーが草介だ。中学校指定の運動靴だから、同じ中学に通っていた楓もよく知っている。他にも靴跡はいろいろあったが、似ているので違いが分からない。楓は注意深く草介のスニーカーの跡を辿ってみる。両側に並ぶ部屋と廊下を行ったり来たりしていたが、入口に立つ楓の横を抜けて玄関のほうへと向かったようだ。楓は廊下の扉を閉めて、草介の靴跡を追いかけた。

「あれ?」

 靴跡は玄関を通り過ぎたあたりで、忽然と消えた。楓は慌てて周りを照らしてみたが、自分のもの以外に靴跡は見当たらない。床は抜けていないし、他の誰かがいた形跡はない。

 ――神隠し。

 楓は首を振った。そんなものはありえない。どうにかして跡を残さずに歩いたのか、あるいは跡が残りにくい場所なのかもしれない。そう思うと、このあたりは床に積もる埃が薄いようにも感じた。楓は気を取り直して進むことにした。隙間から漏れる光は随分と暗くなっていた。不安になるようなことは、出来るだけ考えたくない。

 楓は玄関の右側、コの字を下から上へと探していくことにした。廊下の途中の扉を開けると物置だった。棚が崩れて木箱や古い本が散乱していた。声をかけてみたが、返事はない。さらに進むと、扉のない部屋があった。入口の上には談話室と読めるプレートが残っていた。談話室は絨毯の上に大きなソファーとアンティーク家具が並んでいる洋風の部屋だった。絨毯はすり切れ、薄汚れてしまっているが、当時は綺麗な深緑色だったのだろう。濃いオレンジ色のソファーも傷みが激しく、あちこちから綿が出ている。その綿も薄汚れていた。部屋の中央には丸いテーブルがあって、周囲にはカードが散らばっていた。

 ――これが、花札ってやつね。

 楓は散らばっていた花札を集めるとテーブルの上に重ねて置いた。背の低い棚の中にはチェス盤や将棋の駒が入っていた。ふと後ろから誰かの視線を感じた。楓は振り返った。呼吸が一瞬だけ止まったが、すぐに落ち着く。部屋の隅には日本人形が倒れていた。楓は人形を拾い上げて手でサッと汚れを払った。三十センチくらいあるその人形はずっしりと重い。材質は分からないが、安物ではなさそうだ。黒く真っ直ぐな長い髪、白い肌、赤い着物。よくある少女の日本人形だ。人形独特の気味の悪い雰囲気はあるものの、可愛い顔をしている。ただ、二つの瞳はルビーのような赤い色をしていた。ウサギの目が楓の頭の中に思い浮かんだ。透明感のある素敵な色だったが、どこか冷たい眼差しだった。楓は人形をソファーの上にそっと置いた。ここにも草介はいない。楓は談話室を後にし、もっと奥へと進もうとした。

 しかし、楓の足は部屋の入り口で止まった。何か、聞こえた。

 ――誰かいる……?

 廊下の奥から微かに床の軋む音が聞こえてくる。草介だろうか。楓は談話室に隠れるようにして様子を窺った。キィ……ギィ……。音が次第に近づいてくる。楓は息を潜めた。廊下の先がぼんやりと明るくなった。懐中電灯の白い光ではなく、ロウソクの炎のような橙色だ。ゆらゆらと揺らめく明かりの中に、人影が現れた。

「誰かいるのか?」

 影が喋った。若い男の人の声だった。楓は返事をしようか迷ったが、影が村の人だったらモリに入ったことを怒られてしまう。まだ小学生の頃、モリに勝手に入った子供が起こられているのを見たことがある。雷が落ちたような、というのはこういうことなのだと、幼心に楓は思っていた。「影祭の夜だったらどうするんじゃ」そう言っていたのは誰のおばあちゃんだっただろうか。とにかく、怒られるのは嫌だ。草介が見つからないうちに家に連れ戻されるのはもっと嫌だ。

 ――もし、不審者だったら? 人攫いかもしれないよ? 草介がこの人に掴まっていたらどうしよう。だけど、草介を探しに来てくれた人かもしれない。

 純太が他の子供にも声をかけた可能性はある。村には中学校までしかないが、外の高校へ通学している子も、楓のように帰省している子もいる。仲塚の文房具屋さんのお兄さんは、たしか高校三年生だ。

 ――でも、こんな声だった?

 楓の頭の中にいろいろな考えが目まぐるしく浮かんでくる。こんな時に限って、想像力は果てしなく広がる。楓はじっと息を殺して悩んでいた。駄目だ、やり過ごそう、楓がそう決めた時だった。

 ガシャンッ!

 突然、背後で大きな物音が響いた。きっと影にも届いただろう。楓は慌てて物音のした場所を見に行った。ソファーから人形が落ちていた。楓は人形を拾い上げる。壊れてはいない、よかった。楓が安堵の息を吐いた時、後ろから声を掛けられた。

「誰?」

 振り返ると、談話室の入り口に影が立っていた。楓は人形をソファーに寝かせて、しっかりと影を見た。そこに立っていたのは、黒い詰襟の学生服を着た男の子だった。きっと高校生だ。男の子は手にランプを持っていた。ランプの中に入れられたロウソクの明かりが揺らめいている。ランタンと呼ぶのだろう。ホームセンターのアウトドア用品のコーナーで似たようなランプを見たことがある。ランタンの明かりが影を伸ばしている。

「村の人?」

 男の子は質問を重ねた。楓が黙ったまま頷くと、硬い表情をしていた男の子の顔が一気に綻んだ。

「俺、ちとせ。もうすぐ十八歳。千年の歳月と書いて、千歳」

 男の子は満面の笑顔で、千歳と名乗った。笑った口元の右端に白い八重歯がキラリと輝いた。千歳はキラキラと期待に満ちた目で楓を見ていた。その笑顔に圧倒された楓は、思わず口を開いて自己紹介をしていた。

「私は岩月楓」

「じゃあ楓ちゃんだ。楓ちゃんはここで何をしているんだ?」

 一瞬だけ答えを迷ったが、楓は素直に答えておくことにした。

「弟を探しているのよ」

「俺と一緒じゃないか!」

 千歳は驚いた、それでいて嬉しそうな顔をした。

「俺も弟を探しているんだ。名前は千尋、年は十歳。どこかで見かけなかった?」

 楓は首を横に振った。

「あなた以外には会っていない。私の弟は? 草介よ、中学二年生。たしか紺と白のボーダーのTシャツを着ていたはず」

 千歳の表情が暗くなった。コロコロとめまぐるしく変わる。忙しい顔。それに比べて楓は少し警戒しているので、表情が硬い。

「俺も楓ちゃん以外には会っていないよ」

 そう言うと千歳はランタンを廊下へと向けた。廊下がオレンジ色に染まる。

「ここは広いからなぁ」

 呟くようにそう言うとすぐに千歳は楓を振り返った。

「ねぇ、楓ちゃん。一緒に探そうよ」

「手分けしたほうが早いでしょ? 日が沈むまでに見つけないと。今夜は影祭だから」

「でも一人は怖いし心細いだろ?」

「私は別に」

「俺が」

 千歳はランタンを掲げて小首を傾げた。

「俺が怖いから。ね、お願い」

 楓は溜息を吐いた。千歳の横をすり抜けて廊下に出る。

「アンタ……あなたは奥から来たのよね。それなら奥を探す必要はなさそう」

「千歳でいいよ」

「奥には何があるの?」

「宴会場と大浴場、あと炊事場。二階へ上がる階段はこの部屋の隣。別館へは階段の横の渡り廊下から行ける」

「詳しいのね」

 楓が千歳を振り返ると、千歳は肩をすくめた。

「よく遊んだから」

「モリに入っちゃダメと言われなかったの?」

「入ってはいけないと言われたら、入りたくなるだろ。二階、行ってみる?」

「……そうする」

 懐中電灯の電池がもったいないので、楓は千歳のランタンを頼りに草介たちを探すことにした。ランタンの明かりは懐中電灯ほど強くはないが、それでも十分だ。全体をほのかに明るく照らしてくれる。千歳の提案に従って、楓は談話室の隣にある階段を上っていく。階段の劣化は著しく、枯れたツタが絡まる手すりはぐらぐらと揺れた。天井からは切れた配線が垂れ下がっていた。二階には客室があるのだと千歳は言った。楓は壁の隅に張り付いたヤモリの卵を見上げながら頷いた。


 二階は雨戸が閉じられていなかったり、窓が割れていたりと、窓から差し込む光が廊下を照らしていて、一階よりも少しだけ明るい。まずは一階と同じで、コの字の下側から探すことにした楓が歩き始めると、千歳はランタンを掲げてぴったりと後ろに付いてきた。廊下の窓から外の枯草の草むらが見える。海のような草むらは風が吹くたびに波打ち、壊れかけた窓枠がカタカタと揺れた。

「楓ちゃんと草介君は似ている?」

 千歳が後ろから尋ねた。楓は少しだけ後ろを振り返って答える。

「顔はちょっとだけね。でも性格は反対。草介は気が優しすぎる」

「楓ちゃんは気が強そうだからね」

「強くない」

「潔いことは、良いことだよ」

 客室の引き戸を一つずつ開けて中を確かめる。客室は六畳の畳部屋と簡素な洗面所があり、部屋の奥の窓際は二畳ほどの板の間になっていた。押入れと、小さいが床の間もある。室内はカビ臭く、畳はすり切れ、障子や襖は破れて穴だらけになっていた。褪せた壁紙が剥がれ落ち、照明器具は壊れている。埃をまとった古い蜘蛛の巣が天井の片隅で揺れている。

 ――昔はキレイだったんだろうなぁ。

 楓がしみじみと部屋を見回していると、畳の下からムカデが這い出してきた。もぞもぞと楓たちのほうへと歩いてくる。

「うわ」

 後ろの千歳が声を上げた。ムカデは二人の手前で進路を変えて、壁の穴に消えていった。楓はムカデを黙って見送った。千歳が弱々しく尋ねる。

「楓ちゃん、怖くない?」

「ムカデなんて珍しくもないでしょ」

「いや、虫だけじゃなくて廃墟とかさ、お化けが出るかもしれないだろ」

「別に幽霊なんて、たとえこの部屋に何人もいたって、見えないんだから怖くはないわ。お化けよりもマムシのほうが怖い」

 スズメバチとか、と付け加えながら、楓は押入れの襖を勢いよく開けた。蛇の骨が上から落ちてきた。千歳がまた声を上げた。しかし、楓は顔色一つ変えずに進んで行く。振り返ると、千歳が蛇の骨を避けるように歩いていた。

「千歳は怖がりすぎなのよ」

「何かを開ける前に合図をしてくれたら、俺だって心の準備が出来るのに」

「嫌よ、面倒くさい」

 楓はまた襖を勢いよく開けた。中からは手毬がコロコロと転がって出てきた。千歳がヒッと小さく悲鳴を上げた。

「楓ちゃぁん!」

「もう、叫ばないでよ。千歳が開ければいいでしょ」

「俺は、うん、照明を」

「じゃあ黙って照らしていて」

 楓がぴしゃりと襖を閉じると、千歳が肩を大きく震わせた。楓は呆れながら次の部屋へ向かった。千歳は泣きそうな顔をしながらも楓の後ろに付いてきた。その様子を見て、楓は少し反省した。お化け屋敷も一人で平気な楓にとっては、この廃墟はさほど怖くもないが、他の人にとっては十分に怖い場所だろう。人によって怖さの基準はそれぞれだ。それに、千歳が一緒にいることで自分がどこか安心していることは確かだ。もう少し優しくしたほうがいいのかもしれない。きっと草介も、千歳のように怖がるだろう。せめて気を紛らわせてあげなければ。楓は千歳に話を振ってみた。

「ねぇ、千歳と弟は似ているの?」

「全然似ていないよ。中身も外見も、全く違う。千尋は少し、変わっているから。街を歩けばきっと、みんな振り返る」

「格好良いの?」

「うーん、どちらかと言うと、むしろ神々しいと言うべきかな?」

「何それ」

「千尋はお兄ちゃんのほうに似ているよ」

「お兄ちゃんって……三人兄弟なの?」

「うん、ちかげ君」

 初めて聞く名前に、楓は漢字が思い浮かばなかった。

「ちかげ? どんな漢字を書くの?」

「千の景色で千景。千景君は俺の一つ上。みんな名前に千の字が入っているんだ。合わせて三千。三千世界だな。楓ちゃんの兄弟は弟が一人だけ?」

「そうよ」

「本当に?」

「そんなことで嘘を吐いてどうするの」

 楓は笑ったが、千歳は真面目な顔をしていた。

「美瀬村では、家の跡継ぎは次男が多いんだよ」

「そうなの?」

「うん。昔から第二子が跡取りになることが多いらしい」

「どうして?」

 千歳は楓の疑問には答えずに廊下の窓から外を見ていた。その眼差しが鋭い。不思議に思った楓は千歳に尋ねた。

「どうかしたの?」

「外に人がいる」

 千歳は視線を外に向けたまま声を潜めて答えた。

「嘘、見つかったら怒られちゃうよ」

 楓も隙間から外を見た。外は随分と薄暗くなっていた。枯草の海を掻き分けている人の影がいくつか見えた。よく見えないが、きっと村の人だ。

「急がないと」

 千歳の言葉に頷いて、楓は次の部屋の扉を開けた。その客室の壁には黒いコートが掛けられたままだった。部屋の隅には古そうな旅行鞄が放置されている。いくつか客室を見てきたが、どれも乱雑としていた。布団が敷かれたままの部屋もあったし、荷物が残っている部屋もあった。

「ここって旅館だったのよね?」

「うん。名前は美森山荘」

「こんな山奥に、どうして?」

「さあ? 金持ちは時間も金も持て余しているらしいから。いいよね、こんな田舎までお忍び旅行だよ。贅沢、贅沢」

 楓は旅行鞄を開けた。埃が舞い上がった。茶色の革製の旅行鞄の中には古い雑誌や虫に食われて穴の開いた衣類が入っていた。マッチもあった。楓はマッチを借りておくことにしてポケットに入れた。本当は旅行鞄も、アンティークなので欲しいと思ったが、さすがに状態が悪いし、大きすぎるし、邪魔になる。

「みんな荷物を置いたまま、どうしちゃったの。廃業する前に掃除くらい済ませておけばよかったのに」

 売れるものもあったはずだと楓は思う。状態がよく保存されていれば、この建物だってきっと価値が評価されただろう。壁に掛かった黒いコートには蜘蛛の巣が何重にも張り巡らされていて、まるで初めから模様が入っているかのようだった。けれども、このコートだってきっと、高価なものだったのだろう。

「こんなに立派な旅館なら残しておこうって話になるのが普通でしょ。家具も食器も、まだ使えたはずなのにね。どうして潰れちゃったの?」

 開けられたままの押入れを覗きこみながら楓は尋ねたが、千歳は答えなかった。代わりにランタンを掲げた。

「楓ちゃん、どこかでロウソクを手に入れないと」

 ランタンの中のロウソクは随分と小さくなっていた。気が付けば明かりがなければ何も見えないほど辺りは暗くなっていた。入った時から仄暗い建物だったが、隙間から見える外の景色も夜に近付いている。いつのまにか蝉の声が止んでいた。楓は部屋を後にして廊下を歩いていく。少し浮いた床板を踏み込むと、キーィと鳴き声のような音が静かな廊下に響いた。

「そのランタン、どこから持ってきたの?」

「一階の炊事場から」

「じゃあそこに予備のロウソクもあるんじゃないの」

「取りに行ってもいいかな?」

 二人は階段の近くまで戻ってきていた。初めからロウソクを余分に持ってこればよかったのに、と思ったが、自分だって懐中電灯の電池の予備を持ってきていないので、楓は黙っていた。隙間風がピューイと口笛のように吹いている。

「私、先に行っているから、千歳はロウソクを取ってきてよ。ランタンは持って行っていいからね」

「嫌だ、怖い。ひとりにしないで」

「私に会うまでは一人だったんでしょう?」

「それでもやだよぉ」

「……アンタ、私が今まで出会った中で一番頼りにならない人ね」

 呆れた楓は腰に手を当てて千歳を見た。千歳は神妙な面持ちをしていた。

「楓ちゃん、知らないの?」

 ランタンの橙色の明かりが千歳の顔を怪しく照らした。

「どうしてここが廃墟になったのか」

 そう言うと千歳はランタンを階段のほうへと向けた。楓の視線は自然とランタンのほうに向く。

「昔、ここで神隠しがあったんだ」

 千歳は静かな声で語り始めた。

「集団神隠し。旅館の人も、宿泊客も、みんな一夜にして忽然と姿を消した。ついさっきまで人がいたような気配だけを残して、でも、消えた。警察が来て、村の人も協力して探し回ったけれど、一ヵ月が過ぎても誰一人として見つからなかった」

 初耳だった。そんな話、聞いたことがない。楓は驚きを隠せなかった。千歳は続けた。

「それから何年も経ったある時、記録的な豪雨がこのあたりを襲った。あちこちで土砂崩れが起こったし、浸水被害もあった。数日後、下流の町に、流れ着いたんだよ」

「……何が」

「人骨。何人もの骨。それが上流から流れてきた。もちろん騒ぎになって、警察が調べに来た。そしたらね、他にも骨が見つかったんだ、淵坂の水底から」

 楓は淵坂の水辺を思い浮かべた。暗くて、淀んでいて、何も見えない。透明な川が、そこだけ深く濁っている。淵坂の淀みでは何も釣れないと草介や純太が言っていた。波打つ黒い水面の下に何が潜んでいるのか分からない静けさは、息を殺して獲物を待つ蛇のようだった。

「だけど、それだけじゃなかった」

 千歳は階段のほうに向けていたランタンを楓のほうに向けた。橙色に照らされて二人の顔に影が掛かり、崩れかけた壁にぼんやりとした影が映る。

「神社の奥に風穴があるんだけど、そこから大量の人骨が出てきた。古くてボロボロになったものから、まだ形を保っているものまで、いろいろ。古い骨は、昔の土葬のものだろうと結論付けられた。でも、新しい骨の多くが、集団神隠しがあった時期と一致した。村の人も総動員して、そんな新しい骨を集めた。半年くらいかかったらしいよ」

 一息にそう言った千歳は楓の反応を待っている。どこかいたずらっぽい表情だ。冗談かもしれない。だけど、咄嗟に作った話にしては具体的だった。神隠しならば、荷物が残されたままになっていることも納得できるが、そもそも神隠しなんて有り得ないことだ。千歳の真意が分かりかねる。

「それは、本当の話?」

「さあ、どうだろう」

「ふぅん。でもそれと千歳が一人でロウソクを取りに行くことには何の関係もないわよね」

 楓がそう言うと千歳は困った顔をした。驚きや不安を隠すために、楓はわざと素っ気ない言い方をしたのだった。

「えー、そんなこと言わずに。怖いよ」

「怖いのなら、どうして自分から怖い話をしたのよ。明るい話をすればいいのに」

「でもさぁ、楓ちゃん。噂だとしても、こんな話がある場所なんだから、きっと幽霊が出るよ」

「そんなこと、幽霊が出てから考えればいいでしょ。炊事場で塩でも貰って、振り撒けば? 悪霊退散ってね。はい、いってらっしゃい」

 怖がる千歳を残して楓は歩き始めた。

「楓ちゃぁん、ひとりにしないで!」

「手分けして探さなきゃ、もう夜よ。時間がないんだから」

「すぐに終わるから、一緒に来てよ!」

「少しは根性見せなさい!」

 楓は懐中電灯のスイッチを入れた。しかし、明かりが点かない。カチカチと何度もスイッチを押してみる。駄目だ。電池切れかもしれない。

 ――仕方がない、千歳と一緒にロウソクを探しに行こう。

 楓がそう思って振り返ろうとした時、視界の端で何かが動いた。一瞬のことだったが、白いものが動いた気がする。いや、気のせいではない。

「草介?」

 楓は一歩踏み出した。

「楓ちゃん!」

 後ろから千歳の声が聞こえるが、楓は無視する。誰かいた、確かにいた。見間違いじゃない。白っぽい服を着た人がいた。草介かもしれない。人気のなかったこの屋敷に、誰かの影があったのだ。ギギィと床が軋む。

「楓ちゃん、待って! 床!」

 そう言われて楓は振り返った。体が一瞬、宙に浮いた。足元の感覚がなくなる。

 ――落ちる!

 そう思ったときにはすでに、楓の視界は真っ暗になっていた。バキバキとさらに床を抜きながら、楓の体は暗闇を落ちていく。光が遠くなる。背中から地面に叩き付けられるようにして、ようやく止まった。楓は起き上がろうとするが、力が入らない。どれだけ落ちたのか分からない。自分がどこにいるのかも分からない。暗い。痛い。感覚が遠ざかっていく。薄れる意識の中で、ぼんやりと、楓の名前を呼ぶ千歳の声が聞こえた気がした。千歳の不安そうな表情が、一瞬、頭の片隅に浮かんだ。ごめん。楓は思い瞼を閉じた。

 ――床が抜けるって、純太が言っていたのに。

 楓は意識を失った。

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